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1.

「水無瀬! バグ票きてるぞ!」


 先輩社員の声に、座っていた香澄(かすみ)が驚いて振り向く。


「え?! またですか?!」


 あわてて香澄がモニターに向かい直し、メールをチェックしていく。


 バグ票通知のメールを読み下し、ため息をついた。


「そんなぁ、あんなにテストしたのに……」


 背後から先輩社員の声が飛ぶ。


「泣き言はいいから、早く直してコミットしろ!」


「――はい!」


 香澄は統合開発環境のプロジェクトを開き直し、画面を睨み付けた。



 昼休みを返上してバグを修正し終わった香澄が、ソースをコミットして先輩社員に振り返る。


「今コミットしました!」


 うなずく先輩社員を確認すると、香澄は隣の席の同僚に「ちょっとご飯食べてきます」と告げ席を立った。


 入社一年目、OJTという名の手抜き業務研修を経て、香澄は業界の荒波に揉まれていた。


 なんとか多忙な先輩社員たちから仕事のやり方を聞き出し、自分なりに頑張って努力をしてきた。


 だが現実は、不具合報告の嵐と格闘する日々だ。


 ――この仕事、向いてないのかなぁ。


 休憩所のそばを通りかかり、同じチームの先輩社員たちが缶コーヒーを飲んでいた。


 思わず姿を隠した香澄の耳に、先輩社員たちの会話が聞こえてくる。


「あの子、また不具合だしてたわね」


「オンスケいけるのか?」


「無理じゃねーかな。休日出勤しないと結合試験に間に合わんし」


 先輩女子社員がため息をついた。


「最近は残業規制があるから、ただ働きかしら」


「最近超過勤務気味だったしなぁ。

 だが納期は間近だし、上は許してくれねーだろ」


「あいつ、この仕事向いてないんじゃないか?」


「言ってやるなよ、この業界は向き不向きがある」


 それ以上、香澄は会話を聞いていられなくなり駆け出していた。


 涙でにじむ視界で、化粧室に囲む。


 鏡の前で荒い呼吸を整え、必死に嗚咽をこらえていた。


 ――そんなこと、言われなくてもわかってる!


 香澄はしばらく、鏡の前から動くことなく無言で泣き続けた。





****


 香澄はその後、一日をどう過ごしたのか覚えていなかった。


 気が付いたら周囲が帰り支度を始めていて、「おつかれ」と言い残して去っていく。


 香澄のモニターは不具合報告を二件映し出していた。


 直しても直しても差し戻される不具合報告に、泣きながら立ち向かっていく。


 隣の同僚が香澄に声をかける。


「あまり無理すんなよ、水無瀬」


 香澄は無言でうなずいた。


 手を止めず、必死にコードを打ち込んでいく。


「じゃあ俺は先に帰るから。おつかれ」


 最後の同僚社員も帰り、フロアにひとり香澄は残されていた。



 香澄の作業は夜遅くまで続いた。


 途中で見回りの警備員が来ても、事情を説明して居残りを続けた。


 それでもコンパイラがビルドエラーを告げた時、香澄の心がついに折れた。


「……帰ろう」


 香澄は帰り支度をすると、静かにPCの電源を落として真っ暗なオフィスをあとにした。





****


 最終電車で辿り着いた最寄駅から降り、夜の繁華街を香澄は歩いていた。


 眩しいネオンを遠くに感じながら、香澄の足は自宅に向かっていく。


 繁華街を抜け、大通りを真っ直ぐ歩いていると、目の前に見慣れない看板を見つけた。


「喫茶店……?」


 スマホを取り出して時刻を確認してみる――もう日付は超えていた。


 こんな時間に営業している喫茶店など、この辺りにあっただろうか。


 不審に思いながらも、昼から何も食べていないことを思い出す。


 ――お腹、減ったな。


 この先はコンビニもない。


 自宅に帰ってもカップ麺しか備蓄がない。


 香澄の足が、喫茶店の黄色い看板に吸い寄せられる。


 『喫茶わだつみ』――海鮮でも食べられそうだ。


 誘われるように香澄は、その木製ドアのノブに手をかけた。





****


 カランコロンとドアベルが鳴る。


 ドアを開けた香澄の鼻に、コーヒーの優しい香りが届いていた。


 木の香りと混じったコーヒーの香りは、不思議と香澄の心を落ち着かせていく。


 カウンター内には緩く黒髪を伸ばした、若い青年が黒いエプロンをかけて立っていた。


 青年が微笑みながら香澄に告げる。


「いらっしゃい、お一人様?」


「あ、はい……まだやってるんですか?」


「うちは二十四時間営業だからね。

 何時でもやってるよ」


 ――珍しい。こんな小さな喫茶店なのに。


 カウンター席に座り、店内を見回す。


 テーブル座は四つ、カウンター席も五人で溢れそうだ。


 小ぢんまりとした喫茶店に、客の姿はない。


 穏やかなジャズが流れ、まるでバーにでも迷い込んだかのようだ。


「なんにしますか? コーヒー?」


 あわてた香澄が「あの、軽食は有りますか?」と尋ねる。


 青年がカウンターからメニューを取り出し、香澄に差し出した。


「少しならありますよ」


 香澄はおずおずとメニューを受け取り、革製のメニューを開く。


 片側にはコーヒーの銘柄が並び、下の方に紅茶や緑茶が載っている。


 反対側には軽食として、スパゲティやサンドイッチ、洋食セットなどが記載されていた。


 期待していた海鮮はどうやらないらしい。


 スタンダードな喫茶店のようだ。


「……じゃあ、モカとスパゲティを」


 青年がニコリと微笑むと、優雅な仕草でコーヒーを淹れ始める。


 香澄がおずおずと青年に尋ねる。


「随分若いみたいですけど、あなたがマスターですか?」


「そうだよ? 意外かな?」


「ええ、ちょっとだけ……」


 青年がハンドドリップしたコーヒーをカップに注ぎ、香澄の前に置いた。


 香澄はシュガースティックとミルクポーションを使い、黒いコーヒーを琥珀色に染めていく。


 コーヒーに口を付けると、心の奥が温まるようだった。


 喉の奥からモカの香りが鼻を刺激していく。


「――ふぅ、美味しい」


 青年がニコリと微笑んで告げる。


「それはよかった」


 キッチンから出てきた人影が、香澄の前にナポリタンを置いた。


「お待ちどう様」


 香澄が「ありがとうございます」と言いながら人影を見上げると、そこには青年マスターと同じ顔が微笑んでいた。


 驚いた香澄が声を上げる。


「双子ですか?!」


 ナポリタンを持ってきた青年が楽しげに香澄を見つめた。


「いや、違うよ? 僕はひとり。ただ一人のマスターだよ」


 混乱する香澄が、目の前の青年とカウンター内の青年マスターを見比べる。


「どういう意味ですか?!」


「こういうことさ」


 ナポリタンを持ってきた青年が、まるで(かすみ)のように消えていった。


 唖然とする香澄に、青年マスターが微笑んで告げる。


「ここは『ぬらりひょん』がマスターを務める、『喫茶わだつみ』だ。

 僕がマスターの石田晴臣。当然『ぬらりひょん』だよ」


 魂が抜けたかのように呆けている香澄に、青年マスター――晴臣が告げる。


「ほら、冷める前に召し上がれ。

 お腹が減ってるんだろう?」


 うなずいた香澄は、混乱しながらもフォークを手に持った。





****


 ナポリタンを食べながら、香澄は晴臣をチラチラと盗み見ていた。


 ――『ぬらりひょん』って、妖怪じゃなかったっけ。


 まるで狐に化かされているかのような気分だった。


 だがコーヒーは美味しかったし、ナポリタンも酸味とコクが効いていていくらでも食べられそうだった。


 あっという間にナポリタンを完食した香澄が、おずおずと晴臣に告げる。


「……サンドイッチもいいですか?」


「よろこんで。

 コーヒーのお替り、要る? うちはお替り無料だよ」


 香澄がカップを晴臣に差し出すと、そこに新しいコーヒーが注がれて行く。


 スティックシュガーとミルクポーションが添えられ、香澄はまた琥珀色の液体を作り出す。


 今度はちびちびとコーヒーを口に運びながら、香澄が晴臣に尋ねる。


「あの……『ぬらりひょん』ってどういう意味ですか」


 晴臣が微笑みながら応える。


「あれ? 結構有名だと思ったんだけどな。

 『あやかし』の一種だよ。

 ここは『あやかし』が営む店ってこと」


 再びキッチンから別の晴臣が現れ、香澄の前にサンドイッチを置いた。


 今度の晴臣は、素直にキッチンに戻っていった。


 その背中を見送りながら、香澄がつぶやく。


「なんで二人いるんですか……」


「そりゃあ『あやかし』だからね。

 分身ぐらいはできるよ」


「はぁ……そんなもんですか」


 カランコロンとドアベルが鳴り、人影が店内に駆け込んでくる。


「晴臣ーっ! ミルクちょーだーい!」


 香澄が振り返ると、小さな女の子がカウンター席によじ登るところだった。


 真っ赤なワンピースを着た、十歳ぐらいの少女。


 頭には黒毛の猫耳、お尻からは黒く長いしっぽが飛び出ている。


 しかもしっぽは二本生えているようだ。


 ――これって、『猫又』?!


 少女は香澄に気が付くと、ニコリと微笑んできた。


「あー、めっずらしー。人間じゃーん。

 ――ねぇ晴臣、この人食べて良い?」


 少女が放った突然の言葉に、香澄は「へ?」と間抜けな声を上げた。


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