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江口先生

私は顔が異様に冷えているのを感じた。

 喉がヒリヒリする……

 ふと、目の前のオレンジジュースに気付いて口に含んだ。


「そう。僕の母が有紀ちゃんの家族を壊す引き金となった。まぁ、僕に言わせればあの母と有紀ちゃんであればうちの母に出会わなくても、遠からず別の女性に走ってたと思いますがね。あの二人は恐ろしいですよ。色々と」


「江口……先生が、石丸さんの」


「そうです。母と有紀ちゃんのお父さんの事が明るみに出て、お父さんが姿をくらませた後、有紀ちゃんが家に来た。たった一人で。僕は心底ビックリしましたよ。当時まだ小学5年生の女の子が、不倫相手の家に1人で……なんて肝の据わった子だ、と。それともう一つ。なんて美しい子なんだ……と」


 そこまで話したところで、注文していた料理が届いた。

 何種類もある創作料理はどれもおいしそうだったが、とても箸をつける気にならない。


「食べる気にならないですよね。すいません。じゃあ僕が頂きます」


 そう言って生麩の田楽を食べ始めて、話し出した。


「今にして思えば、それも彼女の書いた絵だったんですけどね。彼女は僕の反応を見て、僕が有紀ちゃんに抱いた邪な感情に気付いた。僕と母に会った彼女は僕らを一切責めなかった。ただ……泣いていました。上手いですよね。あんな幼くて可愛い子に号泣されたら、僕らはただ悪者だ。一遍の弁護も利かない。そして……言ってしまったんです『出来る事はなんでもする』と。……先生、食べて下さい。この店の名古屋コーチンのしゃぶしゃぶは絶品なんですよ」


 とても食べる気にならなかったけど、気がまぎれると思い機械的に名古屋コーチンの切り身をつまんだ。


「まさに悪魔との契約書に署名した瞬間、って奴ですかね。そこから彼女は僕に急激に接近してきた……そして、僕は気がついたら彼女から離れられなくなった。彼女に依存するようになった事もあるし、脅されるようにもなった。それと共に、彼女の秘密を知ってしまったので」


 秘密? それって……

 私は小さく息を吸い込むと言った。


「石丸さんの秘密って……落合公園のことですか? それともお母さんとの絵の事?」


「……これは驚いた。彼女、そんなところまで。……大丈夫ですか先生? ご自分がかなりマズイところまで踏み込んでるのを自覚されてます?」


 江口先生の表情が引きつっているのを見て、自分がものすごい秘密を知ってしまったのでは、という不安に胃が締め付けられる気がした。


「でも……どんな意味かは……知らない」


「なら、何としてもそこまでにとどめる事をお勧めします。と、言っても彼女のあなたへの執着を思うと……」


 そう言って江口先生はクックと笑うと続けた。


「本当に、何がそこまで貴方にこだわらせているのか……大変失礼ですけど、あなたは飛びぬけた美人でもない。しかも、自覚されてるでしょうがお世辞にも聖人君子でもない。むしろ俗物だ。出世と自己保身に必死な。有紀ちゃんにふさわしいとは……ね」


 そう話す江口先生の視線に見たことの無い冷たさが宿っているのを見て、暴言への怒りがしぼむのを感じた。

 また、江口先生と石丸さんの予想もしない関係性を知り、動揺している事もある。


「あの……私に話したいことってその事ですか」


「とんでもない。ここからが本番ですよ。まず、事前情報としてお伝えしたい事ですが、うわさにもあるような『僕と教頭は親戚だ』と言う件。あれは事実です。彼女を目の届く範囲に置く事と、便宜を図って手なづけるために、例の一件……彼女の担任の逮捕と女性教師の自殺、にかこつけてこの中学に呼んだ。まぁ、彼女もそれを利用しようとしてたのでウィンウィンですけどね。僕も彼女の近くに居られるし。で、今からお話しする事は、あなたも知ってのとおり、先ほどの元担任の男性教師と女性教師の自殺の件です」


 やっぱり教頭と親戚同士だったんだ……

 そして、石丸さんの小学校での事件。

 担任教師からのセクハラと、恋人の女性教師……石丸さんが心許していた人、の自殺。

 その事が本題になるの?

 私は自分の手が震えているのが分かった。


「これこそ貴方が絶対に知っておくべき事なんです。その男性教師……」


 そこまで言ったところで、突然江口先生の携帯からラインの軽やかな着信の音が聞こえた。

 

「誰だ……大丈夫です。ほっときましょう。じゃあ続きですが、その男性教師の名前は『阿波野邦和(あわのくにかず)』と言う人で、恋人だった女性教師は『中村栄子(なかむらえいこ)』と言います。有紀ちゃんは中村先生に尋常ではない入れ込みようで、僕にまで会わせてた位だったんです。で、そんなある日……」


 そこまで話したところで今度は江口先生の携帯から着信音が聞こえてきた。

 

「全く。電源切っとけばよかった……」


 舌打ちしながらそう言うと、江口先生は携帯を取り出し……突然表情をこわばらせると、慌てた様子で電話に出た。


「もしもし……え?……違う! それは大丈夫……え? 本当だよ……え? いや……頼む、すぐに話せないか? ……ありがとう、すぐに行く」


 江口先生は明らかに狼狽した感じで話すと、震える手で何度か画面を触ってようやく通話を切った。


「……今の電話……誰からだったんですか」


「あなたには関係ない。……すいません、急用が出来たので失礼します。話の続きはまたの機会に。改めて連絡します」


「待って下さい……まさか……今のって石丸さん?」


「違います! 決して彼女ではない。間違いないです! これで払っといて下さい。後、最後にお詫びを……あの日、あなたのマンションに忍び込んでたのは僕です。もちろん僕の意思じゃないですよ」


 そう言うと江口先生はテーブルに1万円札を置くと、逃げるように店を出て行った。

 え……なに、それ。


 私は呆然と江口先生を見送っていた。


 翌日出勤した私は臨時の職員会議で、江口先生が一身上の都合で他県に引っ越した事。

 退職届がデスクの上に置かれていた事を聞いた。

 私は目の前の景色が酷くゆがむのを感じながら聞いていた。

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