父と私の風邪薬
第四回五分企画小説に先立っての練習作です。
父は強い人だった。
触れれば何物でも斬れるほどに鋭く砥いだ真剣を、その重みに負けることなく庭で自由自在に振り続ける父の背中を私は小さな頃から眺めていた。
父は強い人だった。
突然押しかけてきた無礼な道場破りを、ポマードで決めた前髪一つ崩さずに叩き出すその姿を私は小さな頃から眺めていた。
私は父の背中を眺めながら竹刀を振り、彼の剣術を学んでいった。
剣術の修練には怪我はつきもの。
父ほどの腕前なら怪我をすることはありえないだろう。しかし万が一のときに私が父の助けになりたいと思い、私は剣術修行の傍ら勉学に励み、某大学の薬学部へと進学した。
そんな父が突然この世を去ったのは、私が大学に入った年の暮であった。夏瀬強と名乗る男から果たし状が届いたのだ。
この時父は珍しく風邪気味であった。最初はこれを理由に断ったのだが、夏瀬より自分も風邪をひいているという返事が来た。最後にはこんな一文が
「たかが風邪という理由で断るとは、空尾一心流の看板も地に落ちたな。この事各道場に言いふらす」
ここまで我が流派を侮辱されては父も黙ってはいられない。三日後の朝に双方常備している風邪薬を服用して決闘することとなった。
「うむ、薬のおかげで調子がいいな」
決戦の朝、そう言って家を出た背中が、生きている父の最後の姿だった。
翌朝――、父は変わり果てた姿で帰ってきた。
朝から夜まで互いににらみ合い、微動にしなかった二人の勝負を決めたのは剣術の腕でもなんでもなかった。父の風邪薬の効果が、夏瀬のそれより先に切れた――、ただそれだけのことだった。
咳に苦しむ父の頭蓋を、夏瀬の剣が容赦なく叩き割った。
父は強い人だった。剣で不覚を取るはずがない。そう、風邪薬の効果さえ長く続いてくれたら……。
その日から私の復讐が始まった。
大学に戻り風邪薬の効果を持続させる研究を始めた。
「アメリカにて宇宙でもインクが浮かばないボールペンの研究がされている」
「ロシアにてチョウザメの養殖が開発されている」
と聞けば参考のために現地へと飛んだ。
もちろん剣術修行も怠らなかった。父や先祖が残した秘伝の書を読む傍ら、熊が出たという山があればそこに分け入って切り倒し、スズメバチに困るマンションがあればそこにいる蜂を一匹残らず切り捨てた。
二年と半年がたち、剣術の腕にも自信がついたころ、三日間効果を持続させる風邪薬の開発に私は成功した。
薬と剣、両方の武器を手に入れた私が次にすることはただ一つ、父の仇である夏瀬に「果たし状」を送ることだった。場所は前と同じ山奥の河川敷、そして二人とも風邪をひいていることを対戦の条件にあげ、最後にこんな一文を贈った。
「風邪をひきながらも父に勝ったあなたが私ごときに負けるわけがないでしょ」
夏瀬は簡単に挑発に乗ってくれた。勝負は一週間後と決まった。
そして迎えた勝負の日――、夏瀬はボサボサの着物姿で現れた。私はお気に入りであるピンクのジャージで彼を迎えた。
立会人の合図からすでに一時間。夏瀬は剣を頭上に掲げる「上段の構え」で全く動かず、対する私は剣先を地につける「下段の構え」。私も彼も視線を互いのところどころに送り隙を探っている。
(先に動いた方いや、先に動かされた方が死ぬのだ)
直感的に私はそう思った。
日は西へと傾き、やがて山の向こうへと落ち、辺りは暗くなった。風邪薬の効果が切れていないのか、私にも夏瀬にも風邪の症状は一切出ない。私には夏瀬よりも症状が先に出ないという絶対の自信があった。
しかし彼の薬もたいしたもので、八時を過ぎても咳一つ見せない。
そんな中私の視界に複数の点が舞った。何かと思ったが耳に入る羽音を聞いて悟った。
(蚊だ……)
夜の河川敷に蚊が人の血を求めて群がってきたのだ。
(しまった、今は夏だった)
風邪薬の研究ばかりしていた私に当然、虫除け薬の用意は無い。このままでは蚊に刺されるだけ。そしてその痒みに耐えられなくなった時が――、死の瞬間である。
皮膚につく蚊の感触を受けながら、私は夏瀬を見た。彼だって蚊に刺されているはず、そう思っていた。
しかし、私の希望は打ち砕かれた。夏瀬の周りには蚊など一匹もいなかった。
(夏瀬の奴、虫除けのことまで考えていたか)
私には絶望しかなかった。いずれ痒みに負けて死ぬ。かつて父が咳に負けたように。
気が付けば私は耳の後ろの辺りを掻いていた。そう、私は決して見せてはいけない隙を作ってしまった。
(お父さん、ごめんなさい)
涙で揺らぐ私の視界に夏瀬の厭らしい笑みが見えた。そのまま彼は仰向けに倒れた。
夏瀬は起き上がること無くそのまま救急車で病院へ運ばれ、死亡が確認された。
夏瀬の死因は「一度に複数の薬を大量に摂取したことによる中毒死」だった。
夏瀬は勝負を受けてから私の身辺調査を手下に頼んでいたらしい。そこで私が薬学部に所属していることを知った彼は、どんな状況にも耐えられるように大量の薬を服用した。風邪薬はもちろん、蚊に刺されない虫除けの薬、風邪薬の副作用である眠気に耐えるための向精神薬など二十種類もの薬を処方していた。
これで死なないわけが無いのだが、「勝負中である」という緊張が彼を救っていたのであろう。
私が痒みに負けたとき、「勝った」と思った夏瀬の「緊張の糸」が切れた。それと同時に「命の糸」も切れてしまった。
その話を私は病室で聞いた。私も薬の副作用から逃れることはできず、風邪の症状三日分に襲われていた。
しかし薬の開発者である私としてはこの副作用、承知の上であった。私にとって勝負の間に風邪を抑えてくれさえすればよかったのだ。
病院の処置により退院も間近になった私の病室に一匹の蚊が出口を探して飛んでいる。あの夜、耳の後ろを刺した蚊はお父さんだったかもしれない。そんなことを思いながら、私は蚊を目で追っていた。
テレビや電車でおなじみのあのコマーシャルを見て思いついた作品です。
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