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安部公房「鞄」の本質(決定版)

「鞄」とは何か、この物語は何を表しているのかについて、改めて述べたい。再論にあたっては、以前の解説をふまえた上で、さらに一歩踏み込んだ部分がある。「鞄」の本質に迫ることができれば幸いだ。

まず初めに、物語の最後の部分を示す。


「べつに不安は感じなかった。ちゃんと鞄が私を導いてくれている。私は、ためらうことなく、どこまでもただ歩きつづけていればよかった。選ぶ道がなければ、迷うこともない。私は嫌になるほど自由だった」。


これが、この鞄を持ってしまった人の末路だ。鞄によって道が決定されても「べつに」いい、どうということはない。それによって逆に「不安」を感ぜずに済む。「ちゃんと鞄が私を導いてくれている」。「道」の選択に「ためらうことなく、どこまでもただ歩きつづけていればよ」い。もはや自分には「選ぶ道がな」いが、しかし「迷うこともない」。自分はただ、「嫌になるほど」の「自由」を謳歌すればいい。責任のない自由の祝福の愉悦。

この鞄を手にした者をこのような状態にすることを念頭において読んでいくと、物語の内容理解が容易になるだろう。


「雨の中をぬれてきて、そのままずっと乾くまで歩きつづけた、といった感じのくたびれた服装で、しかし目もとが明るく、けっこう正直そうな印象を与える青年が、私の事務所に現れた。新聞の求人広告を見たというのである。」


 まず、「雨の中をぬれてきて、そのままずっと乾くまで歩きつづけた」という部分は、この青年の真実を説明している。彼は実際、鞄によってこうさせられたのだ。昼夜、天候を問わず、「ずっと」「歩きつづけ」の人生。ふつうそれは、苦行以外のなにものでもない。当然、「服装」は「くたびれ」ている。この後「半年以上も前」という表現が出てくるが、その時点から青年は鞄を持ち、歩き続けだった可能性がある。そもそも人生とは、こういうものなのかもしれないが。

 夜、雨の中、濡れたまま、などの悪条件をものともせずに「歩きつづけ」るには、それに見合った褒美が必要だ。青年の「目もとが明る」いのは、自分の行く末を完全に鞄に依存している楽さからだ。何も考えなくていい。何も思い煩う必要がない。そういうめんどくさいことは、手に持つ鞄が代わりにぜんぶ考えてくれる。自分が進むべき「道」は、鞄が教えてくれる。

 困難や心配事の解決策を模索し実行することはとても苦しくつらい。それに比べれば、青年にとっては、「ずっと」「歩きつづけ」の方が楽なのだ。さらには、「嫌になるほど」の「自由」を手に入れることができる。


 この青年は、基本的に、事実をそのまま「素直」(正直)に述べる。しかし「わたし」や読者は、何とも言えない不快や不気味さを抱く。青年の受け答えは、「私」の質問をはぐらかし、時には何を言おうとしているのかの意図が図りかねるからだ。しかし、そうではない。青年は実に「素直」に事情を説明しているのだ。

 以下、その様子を詳しく説明していきたい。


 会社の経営者らしき「私」のもとを訪ねてきた「青年」は、求人の継続の有無を「私」に問う。しかし、結論を先に述べると、「青年」は職を探すためにそこに来たのではない。彼はあくまでも「鞄」の導きによって、目的も無くそこに来させられたのだ。だから、この物語を、「職業選択の不自由」という、人と職業との困難な関係について描いたものであるとする論考はあたらない。そもそも「青年」は、就職先を探すために歩いているのではないし、そのためにそこに来たわけでもない。終末部の「私」と同じように、目的も到着地点もわからず、熱に浮かされたようにただ歩かされ続けているだけだ。「鞄」によって、彼の行き先は決まる。決定権は鞄にある。事務所に、次の日再び来れるかどうかはわからない。そうしてそれはおそらくない・不可能だろう。

 従って、「私の事務所に現れた」のは、鞄の導きによるまったくの偶然であり、「新聞の求人広告を見たという」のは後付けの説明だ。


 これまでも「青年」は、たどり着いた先の状況・相手に合わせて、適当なことを話してきたのだろう。 鞄によって、思わぬ場所に連れていかれる。到着した場所・相手に合わせて適当なことを話す。ただ、それだけのことだ。


 その日、青年がたどり着いた事務所。そこは、半年前の新聞に求人広告を出していたことを青年は思い出す。そうして、事務所に来た理由を、「新聞の求人広告を見た」からだと後付けする。意味も目的も無く見知らぬ場所を訪れる者は不審者だ。突然来られた側にとっては、警戒対象となる。青年は、まさか本当のことをいきなり説明するわけにもいかない。だから彼は、その事務所を訪れたもっともな理由として、「新聞の求人広告を見た」と言ったのだ。

 再度確認すると、青年は、就職しようとは思っていないし、自分の意志でそこにたどり着いたわけでもない。ただ鞄の意志により、彼はそこに来させられたのだということを押さえる必要がある。歩き続ける者はそもそも就職できない。万一就職が決まったとしても、明日再びその事務所に彼が来られる保証はない。


「なるほど、求人広告を出したのは事実である。しかし、その広告というのが、なにぶん半年以上も前のことなのだ。今ごろになって、ぬけぬけと応募してくるというのは、いくらなんでも非常識すぎる。まるで採用されないために、今日まで応募を引き延ばしたと言わんばかりではないか」。


 青年が就職活動のために来訪したのだと勘違いしている「私」の認識のズレが説明された場面。従って、「私」にとっての青年の印象は、「今ごろ」、「ぬけぬけと」、「いくらなんでも非常識すぎる」、「あきれてものも言えない」ということになる。ふたりはそもそもはじめからズレているのだ。「私」のこの反応は、至極もっともだ。


 この後青年は、「私」に合わせて就職の話題で話を続ける。鞄によって導かれた先にいる人とは、何か話さなければならない。ただ黙って、そこにつっ立っているわけにもいかないからだ。

 ただ、青年は嘘はつかない。しかし、その話す内容は、今自分を拘束している鞄に限られる。それを、相手の話題にうまく合わせている。


 鞄がたまたま止まった場所。そこはあたかも目的地点かのように見えるが、そうではない。鞄は自由に道を選ぶ。坂があれば、怠慢にもそれを避け、楽な道を進ませる。鞄自身が歩いているわけでもないのに。従って、この鞄は、それを持ってしまった者と同化・一体化しているのだ。持ち主の怠け心を敏感に察し、その進路を勝手に決定する。考えるという面倒・苦労をせずに済む持ち主は、まるでそれを自分で選択したかのように、鞄の持ち手を握り続ける。これまで青年は、鞄によっていろいろな場所に連れていかれただろう。


「あきれてものも言えないでいる私を尻目に、

「やはり、駄目でしたか。」

と、むしろほっと肩の荷をおろした感じで、来たときと同じ唐突さで引き返しかけるのだ。はぐらかされた私は、ついあわてて引き留めにかかっていた」。


「やはり、駄目でしたか。」という青年のつぶやきには、もしかしてそこで就職が決まれば、この忌まわしい鞄から逃れることができるかもしれないという淡い期待があったかもしれない。(そうして実際そうなる)

また、それとは逆に、これまでと同じようにこの鞄に頼れば、楽な道を歩きつづけることができるという安堵もあった。だから、「むしろほっと肩の荷をおろした感じで、来たときと同じ唐突さで引き返しかけ」たのだ。「むしろ」にはその意味が含まれる。青年は、就職という目的があってそこにいるのではない。就職を期待していないし、そもそも目的としていない。だから、相手から拒絶されても、傷つかずに、あっさりと引き返す。それが「唐突」の意味だ。

青年は心の中で思っただろう。「ここは目的地点ではないようだ。では次はどこに向かって歩いていけばいいのだ。鞄よ」。

鞄はそれに反応し、自分を持つ青年の足を再び進ませようとする。


「肩の荷をおろす」という比喩表現は、物語の結末部にもう一度出てくる。そこでも重要な意味を示すが、ここもそれと同様に、ほっと肩の荷をおろ」すどころか、不気味で忌まわしい鞄を背負わされ続けることのアイロニーとなっている。鞄を背負い続けることが「ほっと肩の荷をおろ」す気持ちに反転するアイロニー。ほとんど自虐的とも言える、倒錯した世界だ。不気味な鞄を持つ者は、それを見た他者からは同じように不審者と判断される。青年は軽々と鞄を持ち上げ、「来たときと同じ唐突さで引き返しかけるの」だった。


「はぐらかされ」、あっという間に「引き返しかける」青年の「唐突さ」に「あわて」た「私」は、「引き留めにかか」る。


「まあ、待ちなさい。私だってこだわるのが当然だろう。なぜ半年も前の求人広告に、いまさら応募する気になったのかな。そこのところを、納得できるように説明してもらいたいね。納得できさえすれば、それでけっこう。ちょうど欠員ができて、新規に補充も考えていた矢先だし、考慮の余地はあるんだよ。いったい、どういうことだったのかな。」


「私」の「こだわ」りは、「なぜ半年も前の求人広告に、いまさら応募する気になったのか」ということだった。「そこのところを」「説明してもらい」、「納得できさえすれば、それでけっこう」。ここで「私」は、明らかに、目の前の青年に興味を抱き始めている。それは青年の風貌と受け答えへの違和感からだ。「私」の「青年」への関心は、ここから強まることが重要だ。

また、「私」が求める「納得」という気持ちの由来は、案外鞄にあるのではないか。つまり、鞄の魔力が、いつのまにか・知らぬ間に、「青年」への興味へとつながった。こんな余計な関心を示さなければ、「私」は、鞄に取り込まれる4人目にならずに済んだのに。

人間の興味・関心は、新しい世界を開き、物事を発展進化させる源となるが、時にはそれがあだとなることもある。要らぬ好奇心を抱いたが故の不幸が、「私」を襲うことになる。


「私」は、「ちょうど欠員ができて、新規に補充も考えていた矢先だし、考慮の余地はあるんだよ」とかまをかけ、「いったい、どういうことだったのか」と説明を求める。

しかし青年に、「納得できる」説明は無理だ。彼は職を求めてそこに来たわけではない。

だから青年は、次のように「素直」(正直)に「さりげなく」答える。


「さんざん迷ったあげく、一種の消去法と言いますか、けっきょくここしかないことが分かったわけです。」


ここで「一種の消去法」と言ったのは、具体的には、後に出てくる「ちょっとでも急な坂だとか階段のある道にさしかかると、もう駄目なんです。おかげで、選ぶことのできる道が、おのずから制約されてしまうわけですね」を指す。だから、「けっきょくここしかない」というのは、「たまたまここにたどり着いた」ことを表す。

この青年の物言いは、「かなり思わせぶりになりかねない口上」ともなるし、事情を何も知らぬ者はそう捉えるのが普通だ。だから「私」は、「具体的に言ってごらんよ」と言ったのだ。「御社が第一志望なのだ」と。

青年の「さりげなく言ってのけ」る様子に、「私」も「妙に素直な気持ちになっていた」。正直な答えは説得力を持つ。


「「この鞄のせいでしょうね。」と、相手は足元に置いた、職探しに持ち歩くにはいささか不似合いな――赤ん坊の死体なら、無理をすれば三つくらいは押し込めそうな――大きすぎる鞄に視線を落とし、「ぼくの体力とバランスがとれすぎているんです。ただ歩いている分には、楽に運べるのですが、ちょっとでも急な坂だとか階段のある道にさしかかると、もう駄目なんです。おかげで、選ぶことのできる道が、おのずから制約されてしまうわけですね。鞄の重さが、ぼくの行き先を決めてしまうのです」」


この鞄は、持ち主が立ち止まっている間は、その手から離しても大丈夫なようだ。しかし、一歩でも歩き出そうとした時、その手にはしっかりと鞄が握られているだろう。

「この鞄のせいでしょうね」というひとことは、重要な意味を持つ。この言葉と、「鞄に視線を落と」すという促しによって、「私」は初めて鞄にしっかりと目を向けることになる。一方これは、青年の側からすると、鞄に関心を持たせるためにわざとこのセリフを吐いたともいえる。

しかも、その後に続く説明が妙だ。これらの説明は、「私」の目で見た印象・感想と重なっている。

・「職探しに持ち歩くにはいささか不似合い」

・「赤ん坊の死体なら、無理をすれば三つくらいは押し込めそう」

・「大きすぎる鞄」

ここは普通、「とても大きな鞄」でいい。それを「私」は、「大きすぎる」、「職探しに持ち歩くにはいささか不似合い」とおせっかいにも解釈・判定する。それは鞄への「私」の関心の強さを表す。


「無理」をして「押し込め」ば、「赤ん坊の死体」が「三つくらい」入る大きさとは、どれくらいだろう。

こども家庭庁の「令和5年乳幼児身体発育調査の結果について」(第5回こども家庭審議会成育医療等分科会 令和7年3月12日 資料1-3)によると、令和5年の新生児の身長は約50㎝、体重は約3㎏だった。これが3つ入る鞄は、それほどの大きさではない。

これが1歳になると、身長は約75㎝、体重は約9㎏となる。これを3つ入れるには、大きな鞄が必要だ。本文の「赤ん坊」は、こちらのイメージに近いだろう。


終盤で「私」は、この鞄を持ち上げる。「ずっしり腕にこたえ」る重さがある。従ってこの時の鞄は、「赤ん坊」をイメージさせるふくらみを持ち、また、実際に重い。


それにしても、鞄の大きさのたとえに、「赤ん坊の死体なら、無理をすれば三つくらいは押し込めそう」とはふつう言わない。この不吉・禍々(まがまが)しいたとえは、「私」だけでなく読者にも、何か良くないことが起ころうとしている予感を抱かせる。「私」の第一感は、不気味な鞄への違和感・警戒感だった。だから「私」はそれに従い、鞄を手にするべきではなかった。


「赤ん坊」は、未熟さとともに、さまざまな可能性に満ちた存在だ。それが、将来の夢や希望を無惨にも断ち切られ、暗く狭い空間に「押し込め」られる不幸。鞄の中からは「赤ん坊」の呪いの泣き声が聞こえてくるようだ。


青年により、さらに妙な説明が続く。ただこの説明は真実である一方、事情を知らぬ者にとってはちんぷんかんぷんな内容だ。

「(ぼくの体力とバランスが)とれすぎている」という過剰が、それこそ言葉の過剰だ。また、「すぎている」ことはふつう難点として捉えられるが、青年はそうではない。たとえば、「仲がいい」のは良いが、「仲が良すぎる」のは考えものだ。

「ちょっとでも急な坂だとか階段のある道にさしかかると、もう駄目」なのは、鞄がそのように仕向けるのか、青年がそのように思ってしまうのかが実は曖昧だ。青年は、「鞄の重さが、ぼくの行き先を決めてしまうのです」と述べるが、それは彼の感覚としてそのように捉えられているだけかもしれない。しかし青年は、鞄によって進路が決定されると感じており、またそのように決めつけている。しかもそのことについて、鞄の「おかげ」と半ば感謝の意味を含んだ用語を用いる。鞄が楽な方へ楽な方へと誘導してくれる。その反面には「そのせいで」・「余計なことを」という意味も含むのだが。

とにかく鞄により、彼の「選ぶことのできる道が、おのずから制約されてしまう」。

鞄が、自分の「行き先を決めてしまう」怖さと楽さ。この時、意思決定権は鞄にある。


謎の言葉を吐く青年に、気が変な人、何か心の病を抱えている人、と捉えるのがふつうだろうが、「私」は違う。青年の説明に、「私」は「いささか気勢をそがれ」てしまうのだ。ここは本来、訳の分からぬことを言い出す青年に、一刻も早い退出を求めるべき場面だった。


青年の持つ鞄の不気味さ、それをそうと取らない青年、「私」との会話のかみ合わなさ。これらが読者を不安な居心地の悪い場所に導く。なんとなくおかしい。でもそれは何かが明示できない曖昧な不安。


「私はいささか気勢をそがれ、

「すると、鞄を持たずにいれば、かならずしもうちの社でなくてもよかったわけか。」

「鞄を手放すなんて、そんな、あり得ない仮説を立ててみても始まらないでしょう。」」


「すると」以降の「私」の言葉はその通りだ。しかし青年は「鞄を手放す」という言葉に敏感に反応する。彼にとってはこちらの方が、圧倒的に重要な話題だからだ。そうしてそれは青年にとって、「あり得ない仮説」となる。


「「手から離したからって、べつに爆発するわけじゃないんだろう。」

「もちろんです。ほら、今だってちゃんと手から離して床に置いている」」


「爆発するわけじゃないんだろう」と、ややおどけて言う「私」。

「今」「ちゃんと手から離して床に置いている」状態は、青年にとって鞄から離れる絶好のチャンスだ。この状態は、もしかしたら久しぶり(半年ぶり)かもしれない。この時彼は走って逃げ去るべきだろう。

しかし、鞄をそれを許さない。その圧倒的な存在感は、まるで青年を逃すまいと見張っているようだ。いや、このすぐ後に述べられるように、そもそも鞄の持ち主は、「自発的」にそれを所有し続けているのだから、持ち主の方からそれを「手放す」ことは「ありえない」のだ。考えること、決断することからの回避による楽さは、まるで麻薬のような依存心を抱かせる。

そのあたりの事情を知らない「私」には、青年の説明が理解できない。そうしてそれにより、ますます鞄への興味が増すという構造になっている。


「「分からないね。なぜそんな無理してまで、鞄を持ち歩く必要があるのか……。」

「無理なんかしていません。あくまでも自発的にやっていることです。やめようと思えば、いつだってやめられるからこそ、やめないのです。強制されてこんな馬鹿なことができるものですか。」」


鞄を持ち続ける青年の様子を、「そんな無理してまで」と感じる「私」だが、青年は、「無理なんかしていません」と強く否定する。彼はさらに続ける。「あくまでも自発的にやっていること」であり、「やめようと思えば、いつだってやめられる」。だ「からこそ、やめないのです」。確かに、自主的な行動にふつう「無理」は伴わない。青年はこのように強弁するが、真実は「やめられない」のであり、「強制」力を持つのが鞄だ。彼は鞄の魔力から逃れることができない。彼は自分でもわかっている。それは「馬鹿なこと」だと。だからこの言葉は、自嘲を表すが、自分でもバカなことだと分かっていても手放せないのが、その鞄なのだ。鞄の(とりこ)となった青年。


「うちで採用してあげられなかったら、どうするつもり。」


鞄を「自発的」に持ち歩いていると言う青年に対し、「私」は再び就職の話題に戻す。明示されてはいないが、この質問には、「私」の鞄への強い関心が含まれている。もはや「私」は、青年の就職について心配はしない。彼の心配は、鞄と再会できなくなるのではないかということが暗示されている。


「振り出しに戻ってから、またあらためてお願いに上がることになるでしょうね。地形に変化でも起きないかぎり……。」


まるで双六(すごろく)のような説明だ。そうして障害となるのは「地形」の「変化」と言う訳の分からなさ。この世に天変地異でも起こらない限り、ふつうは再来が可能だろう。

青年の発言を細かく見ると、前半部分に少しの嘘がある。

まず、「振り出しに戻」れるかどうかは、進んでみなければわからない。それどころか、来た時の下り坂・階段は、帰りには上り坂・階段に反転する。それは「地形」の「変化」ではないが、やはり、いったんこの事務所を出たら、「またあらためてお願いに上がること」は不可能だ。


「しかし、君の体力に変化が起きるとか、鞄の重さに変化が起きて、ぜんぜん歩けなくなるとか、宅地造成で新しい道を選べるようになるとかすれば……。」


もうこのあたりになると、青年の発言内容の不自然さを気にせず、「私」は青年の論理に従って会話を続ける。

「体力に変化が起きる」、「鞄の重さに変化が起きて」は、通常あることなのでわかる。しかし次の、「宅地造成で新しい道を選べるようになるとかすれば」は、わずかな時間でそのような劇的な変化が起こることはないことを無視した表現になっている。「私」の常識が狂い始める。「私」は青年の論理にからめとられている。


「そんなにぼくを雇いたくないんですか。」


「うちで採用してあげられなかったら、どうするつもり」と尋ねた「私」に、青年は、「またあらためてお願いに上がることになる」と答えたのに、それが不可能になる「可能性」ばかりを挙げた「私」への反論。

しかしこの発言も、少しの嘘を含んでいる。青年はその事務所で働く気持ちは全くない。雇われる気も無いのにこのように言うことで、「私」にかまをかけたのだ。じゃれついた言葉。


「可能性を論じているだけさ。君だって、もっと自由な立場で職選びができれば、それに越したことはないだろう。」


もちろん、その鞄によって青年の「可能性」や「自由」は完全に奪われている。「職選び」に限らず、青年に「自由」はない。だから、「それに越したことはないだろう」と、痛いところを突かれた青年は、あわてて自己弁護のための鞄弁護を、次に始める。


「この鞄のことは、だれよりもぼくがいちばんよく知っています。」


この鞄のことは、その良さも悪さもすべて、「だれよりもぼくがいちばんよく知って」いる。それを知らないあなたに、鞄の所有と「自由」についてどうこう言われる筋合いはない、ということ。


「なんなら、しばらく、あずかってみてあげようか。」

「まさか、そんなあつかましいこと……。」

「なかみは何なの。」

「大したものじゃありません。」

「口外をはばかられるような物かな。」

「つまらない物ばかりです。」

「金額にしたら、いくらぐらいになるの。」

「べつに貴重品だから、肌身離さずってわけじゃありません。」

「しかし、知らない人間が見たら、どう思うかな。君はそう、腕っ節の強いほうでもなさそうだし、ひったくりや強盗に目をつけられたら、お手上げだろう。」


大きく重そうな鞄を持つ青年への気遣いを仮装してはいるが、「私」の興味は完全に鞄に向いている。相手の「自由」の尊重のためには、その鞄を自分が預かってあげてもいいという親切心からの申し出を演ずる「私」。「私」の興味はその「なかみ」に移行する。表面的にはたとえば、「壊れ物や生もの、貴重品であれば無理には預からないけどね」という意味を表すが、相手への気遣いを仮装しつつ実は単純に「なかみ」を知りたいのだ。大きく重い鞄なのに、普通であれば持ち歩きたくないだろうに、青年は「肌身離さず」持ち歩いている。その「中身」はいったい何なのかということは、「私」だけでなく、誰もが気になるところだろう。普通であれば、家に置いておくか、出先ならばコインロッカーやフロントに預けるかするだろう。

従って、青年がそのなかみをぼかせばぼかすほど、ますます「私」の関心は強くなる。


一方でこれは、青年にとってはチャンスだ。ずいぶん長い間自分を縛り付けてきた鞄から、やっと解放されるかもしれない。目の前に次の所有者候補がいる。大変興味を示している。だから青年は、「私」の興味が募るように、わざとぼかした遠慮がちな表現をしたとも考えられる。


さらにもう一歩踏み込んで考えてみると、そもそも青年はまだこの鞄を開けたことはないかもしれない。自分を「自由」に操る魔力を持つ、不思議に大きく膨らみ妙な重みがある鞄。それへの恐怖から、「なかみ」の確認をためらったとしても不思議ではない。つまり青年は、鞄の「なかみ」を知らない可能性がある。


「私」の鞄への興味はどんどん強くなっていき、畳みかけるように質問を重ねていく。

「なんなら、しばらく、あずかってみてあげようか。」…初対面の相手だ

→「なかみは何なの。」…ふつうこんな失礼なことは聞かない

→「口外をはばかられるような物かな。」…これはさらに失礼な質問。また、本当に人には言えないものが入っているとして、青年が悪人であれば、自分の犯罪の証拠の品に強く興味を示す「私」に対し、危害を加えることも考えられる。

→「金額にしたら、いくらぐらいになるの。」…聞き方が具体的過ぎる

→「しかし、知らない人間が見たら、どう思うかな。君はそう、腕っ節の強いほうでもなさそうだし、ひったくりや強盗に目をつけられたら、お手上げだろう。」…余計なお世話だと言いたいほどのおせっかい。ここに至り、「私」の鞄への関心はマックスとなる。彼は、どうしても中が見たくて見たくてたまらないのだ。相手を気遣うふりをして、実は自分のものとしたい気持ちがありありだ。


以上のように強い興味を示す「私」に対し、青年はとても曖昧に答える。

「まさか、そんなあつかましいこと……。」

「大したものじゃありません。」

「つまらない物ばかりです。」

「べつに貴重品だから、肌身離さずってわけじゃありません。」

これらは、わざとはぐらかしているようでもあり、実は鞄の「なかみ」を知らないようでもある。


いずれにせよ、「なかみ」を開示せよと強く迫る相手の様子に、青年は、この男も鞄の虜となってしまうのかと憐れむ。


「青年は小さく笑った。私の額に開いた穴をとおして、どこか遠くの風景でも見ているような、年寄りじみた笑いだった。笑っただけで、べつに返事はしなかった。」


青年の「小さ」な「笑」いは、魔物に興味を示す愚者への嘲笑だ。青年が「私の額に開いた穴をとおして」「見ている」「どこか遠くの風景」には、かつての自分がいる。鞄の誘惑に負けてしまった自分。試しに、ちょっとだけ持ってみようと思ったのが運の尽きだった。あの時に持たなければよかった。一度だけと持ってしまったのが間違いだった。青年の視線は、時間的な「遠く」を見ている。距離的な遠さではなく、時間的な遠さだ。かつての愚かな自分と、目の前の「私」の姿が重なる。

鞄を持ち、長い時間が経った。進む道が勝手に示され、自由意志が奪われた。自分の喪失。自分はもう、長い人生を経験したような気がする。

人生を無駄に過ごしたやるせなさから、青年の「笑い」は「年寄りじみ」る。魔物に興味持ってしまった昔の自分を思い出し、鞄を所有したこれまでの人生を振り返る。しかしそれを「私」に話してもしようがない。彼は既に鞄の(とりこ)だ。「返事」をしても無駄だろう。

また、鞄の正体を正直に「私」に話すわけにもいかないし、せっかく次の所有者になりそうな相手を見つけたチャンスを逃すわけにもいかない。だから青年は愚者へ向ける笑いとともに沈黙する。


急に老成したかのように見え、蔑視の視線を向ける青年に、「わたし」は対抗しようとする。


「ま、いいだろう。」私も負けずに、声をたてて笑い、額に手をあてがって相手の視線を押し戻し、「べつに言い負かされたわけじゃないが、君の立場も、なんとなく分かるような気がするな。いちおう、働いてもらうことにしよう。それにしても、その鞄は大きすぎる。君を雇っても、鞄を雇うわけじゃないんだから、事務所への持ち込みだけは遠慮してもらいたい。その条件でよかったら、今日からでも仕事を始めてもらいたいんだが、どうだろう。」


「「ま、いいだろう。」私も負けずに、声をたてて笑」うことや、「べつに言い負かされたわけじゃないが」という「私」のわざとらしい余裕は、人間の愚かさをいや増す。さらに、「額に手をあてがって相手の視線を押し戻」す動作は滑稽だ。「君の立場も、なんとなく分かるような気がする」と上から目線で相手への共感を偽装し、「働いてもらうことにしよう」に、「いちおう」と保留をつける。

「私」は、青年の「立場」をまったく「分か」っていないし、予想もしていない。また、「働いてもらうことに」したのは、相手を思ってのことではない。鞄を手に入れるという自分の欲求のためだ。

従って、このあとの「わたし」の興味と言葉は、ますます鞄に集中することになる。

まず、「それ(うちで働く)にしてもその鞄は大きすぎる」と、鞄の大きさを話題にし、「事務所への持ち込みだけは遠慮してもらいたい」とくぎを刺す。その置き場に困ると言うが、現に今、青年は鞄を持って事務所に入っている。だからその大きさは、実はそれほどの問題ではなく、「私」の真意は他にある。「私」の「条件」は、鞄を事務所に置いておくことだ。それがかなえば、「今日からでも仕事を始めてもら」うことも可能だ。思わず、冗談めかして言ってしまった、「君を雇っても、鞄を雇うわけじゃないんだから」という余計な発言は、「君は雇わなくてもいいから、その鞄を雇いたい」と言っているのと同じであり、こちらに真意がある。

だから、「事務所への持ち込みだけは遠慮してもらいたい」という発言は、持ち帰るのではなく、そのままここに置いておけ、という意味だ。


「けっこうです。」


この日本語は、諾否の両方の意味を持つ曖昧な言葉だ。また、「あなたがそこまで言うのなら、いいですよ。でも、その決定はあなた自身がしたことですからね」、という意味を含む。


青年の「けっこうです」を、諾と受け取った「私」は、この瞬間から青年の上司としての物言いを始める。


「勤務中、鞄はどこに置いておくつもり。」や「大丈夫かい。」という言葉は、上司が部下の今後を心配してかけた言葉に聞こえる。しかしもちろん「わたし」の真意は、ただ鞄の動向が気になっているだけだ。


「下宿が決まったら、下宿に置いておきます。」

「大丈夫かい。」

「どういう意味ですか。」

「下宿から、ここまで、鞄なしでたどり着けるかな。身軽になりすぎて、途中で脱線したりするんじゃないのかい。」


「私」の「大丈夫かい」という心配は、「下宿が決まったら、下宿に置いておきます。」に対するもので、彼はそうされては困るのだ。「私」は何としても鞄を手に入れようと画策する。

この問いかけに青年は当然、「どういう意味ですか。」と尋ねる。これは普通、相手の真意を測りかねる時に発する言葉だが、ここで青年は、鞄に対する「私」の興味の強さを確認しようとしているのだ。つまり、なにゆえにそれほど事務所に置いておくことを勧めるのか、ということ。

これに対し「私」は、真意を隠し、あくまでも青年の身を案ずるかの偽装をする。

「下宿から、ここまで、鞄なしでたどり着けるかな。身軽になりすぎて、途中で脱線したりするんじゃないのかい。」

この言葉はもちろん、鞄を持たずに通勤することは止めてもらいたいという意味だ。「途中で脱線したりするんじゃないのかい」と冗談めかすことで自分の真意を隠そうとしている。鞄を持ち帰るのであれば、必ずそれを持って再び出勤してもらいたい、そうでなければ困る、という気持ち。


「下宿と勤め先の間なんて、道のうちには入りませんよ。」

 青年はやっと、表情にふさわしいさわやかな笑い声をたて、私もほっと肩の荷をおろした思いだった。


ここで「やっと」青年は、「表情にふさわしいさわやかな笑い声をたて」る。当然その表情も笑っている。青年の心をほぐしたのは、これまで自分を呪縛していた鞄からの解放だ。それは、自分の意志を無視し、「自由」に自分を操る不気味な魔力を持つ存在だった。いま、やっとそれから逃れることができる。だからこの場面の青年の「さわやか」さは、物語冒頭の青年の「目もと」の「明る」さとは全く異なる。真の解放だ。青年はやっと自分を取り戻すことができる。


次に、「下宿と勤め先の間なんて、道のうちには入りませんよ。」の意味について考える。

これは一見、すぐ近所なので迷わずに来れますよという意味にとれる。(まだ下宿は決まってもいないのに)

青年はこれまで、鞄によって「選ぶことのできる道が、おのずから制約されてしま」い、鞄が「行き先を決めてしま」っていた。鞄は、「道」と「行き先」の決定権を握っていた。先の青年の発言は、強がっているともとれるが、鞄による束縛から解かれる以上、もう鞄が決めてきた「道」に従う必要はない、という意味。


「私もほっと肩の荷をおろした思いだった」というアイロニー。

実際にまさに「肩の荷をおろした」のは青年であり、「私」は逆に「肩に魔物を背負う」ことになる。そのことに気づかない愚かな「私」がデフォルメされている。


知り合いの周旋屋に電話で紹介してやると、彼はさっそく下見に出向いて行った。ごく自然に、当然のなりゆきとして、後に例の鞄が残された。


「私」はあくまでも青年を自分のテリトリーに入れようとする。だからわざわざ「知り合いの周旋屋に電話」し、「下宿」の「紹介」まで世話してやったのだ。青年は「さっそく下見に出向いて行」く形をとるが、彼が下見に行くこともないし、再び事務所に戻ることも無い。真の自由を獲得した青年は、鞄に永遠の別れを告げる。


後に不自然に残された鞄。それはたった今まで常に青年が持ち歩いていたものだった。だからそれは「なりゆき」などではなく、故意にそうされたのだ。

偶然を装ってはいるが、青年は鞄をそこに置き去りにする明確な意志を持ち、一方の「私」も、自分の手元に鞄を残させる明確な意志を持っていた。つまり、両者の利害は一致していたことになる。だから「例の鞄が残された」「なりゆき」は、ごく「自然」だ。

「私」の関心は、既に目の前に置かれた鞄に集中している。青年がその後どうなったかは、それこそまるで眼中にない。


目前の餌を前に、「私」の食指が動かないわけはない。


「なんということもなしに、鞄を持ち上げてみた。ずっしり腕にこたえた。こたえたが、持てないほどではなかった。ためしに、二、三歩、歩いてみた。もっと歩けそうだった。」


この様子はまるで、禁じられた遊びを興味津々で行っている子供のようだ。鞄の誘惑は、他人の持ち物であるのにも関わらず、それを持つことにまったく罪悪感を抱かせない。「私」は何のためらいも無く「なんということもなしに、鞄を持ち上げてみた」。偶然を装うのだ。

すると鞄の重さが、「ずっしり腕にこたえた」。ここで「私」は止めればよかった。欲望を抑えるべきだった。しかし彼は止めなかった。「こたえたが、持てないほどではなかった」。まるで煙草を覚え始めの若者のようだ。関心・興味・誘惑が、危惧・用心に勝るのだ。すでにこの時「私」は、冷静・正常な判断力を失っている。

もう彼は鞄を手放すことはない。「ためしに、二、三歩、歩いてみた」。重さに耐えて歩ける愉悦。人生には、「試しに」やってはいけないことがある。

「もっと歩けそうだった」。困難を乗り越えて前進する自分に酔い始めている「私」。


「しばらく歩きつづけると、さすがに肩にこたえはじめた。それでもまだ、我慢できないほどではなかった。」


「私」は「歩きつづける」必要もないし、「我慢」をする必要もない。「肩にこたえはじめた」ら、ただその鞄を下ろせばいい。それができないのは、「我慢」を快楽に変える作用が鞄にはあるからだ。この困難を乗り越えれば、きっと何かいいことがある、未知の世界に行くことができる、という妄想。麻薬中毒の様相を呈している「私」。

しまいには、「腰骨の間に背骨がめり込む音」がしはじめる。彼はいつまでこの苦痛に耐えようとするのだろう。


「ところが、急に腰骨の間に背骨がめり込む音がして、そうなるともう一歩も進めない。気がつくと、いつの間にやら私は事務所を出て、急な上り坂にさしかかっているのだった。方向転換すると、また歩けはじめた」。


「気がつくと」、「いつの間にやら」という無意識・無自覚の行動を、「私」は取らされる。

「急に腰骨の間に背骨がめり込む音がして、そうなるともう一歩も進めない」理由は、「急な上り坂にさしかかっている」ためだった。鞄により進行方向の厳格な規制・制限がかかる。確かに、「方向転換すると、また歩けはじめ」るのだが、それは「私」の意志ではない。青年に続いて「私」もまた、鞄による厳しい行動制限を受けている。しかも、鞄の意に反しようとすると、「急に腰骨の間に背骨がめり込む」という具体的・身体的な戒めが待っている。

「方向転換すると、また歩けはじめた」とは、鞄の意志に従って「方向転換すると」、また鞄によって歩くことを許された状態になったという意味。方向転換しないと、歩けないのだ。歩くことの許可を得ずには、それが許されない。鞄が主で「私」は従の関係。


「そのまま事務所に引き返すつもりだったが、どうもうまくいかない。いくら道順を思い浮かべてみても、ふだんはまるで意識しなかった、坂や石段にさえぎられ、ずたずたに寸断されて使いものにならないのだ。やむを得ず、とにかく歩ける方向に歩いてみるしかなかった。そのうち、どこを歩いているのか、よく分からなくなってしまった。」


「私」は「そのまま事務所に引き返すつもりだったが、どうもうまくいかない」。「私」の「つもり」は許されないのだ。今や鞄が主人であり、意思決定権はすべて鞄にある。抵抗は反逆と捉えられる。「腰骨の間に背骨がめり込む音」と痛みは、さらに大きく強くなるだろう。


問題はそれだけにとどまらない。「私」はとうとう、「いくら道順を思い浮かべてみても、ふだんはまるで意識しなかった、坂や石段にさえぎられ、ずたずたに寸断されて使いものにならない」という状態に陥る。「道」の「寸断」ではない。記憶の喪失に伴う「意識」の「寸断」。意志と記憶が無くなり、意識は混濁する。普通であれば、生命の危機ともいえる状態だ。

まるでロボットのように、「とにかく歩ける方向に歩いてみるしかなかった」。意志も無く歩くことだけを強制される「私」。

さらに「私」は認識能力まで奪われてしまい、「そのうち、どこを歩いているのか、よく分からなくなってしまった」。まさに、「ここはどこ? 私は誰?」という状態。これでは、目隠しをされた状態でむやみに歩かされ続けているのと同じだ。「自動歩行機械」となった「私」。


このように、鞄は人間の尊厳をことごとく踏みつけ奪い去る。意志、記憶、意識、認識を喪失したものは、死者そのものだ。歩くこともできなくなった「私」は、やがて鞄によって葬られるだろう。もちろんその墓場は鞄の中だ。


「べつに不安は感じなかった。ちゃんと鞄が私を導いてくれている。私は、ためらうことなく、どこまでもただ歩きつづけていればよかった。選ぶ道がなければ、迷うこともない。私は嫌になるほど自由だった」。


尊厳をことごとく奪われ、人間としての存在を完全に否定され、もはや鞄を運ぶ道具となり果てたにもかかわらず、「私」は「不安」を「感じな」い。「べつに」は、そのような状態である自分を他者が気遣う必要はないということ。「心配してもらわなくて結構。俺は自分でこの状態を望んでいるのだ」、ということ。またこれは、自分で自分に言い聞かせる強がりにも聞こえる。

「不安」を感じないただ一つの理由。それは「ちゃんと鞄が私を導いてくれている」からだ。「自分はこの鞄に全幅の信頼を置いている」。自分が全否定されているにも関わらず、その相手を完全に信頼し全肯定するという倒錯。


身体と心の痛みに耐える代償として彼が受け取るものは、鞄による「導」きと、「嫌になるほど」の「自由」だ。「私」はもう、「ためらう」必要が無い。何も考えずに「どこまでもただ歩きつづけていればよかった」。「道」を「選ぶ」必要が無い。「迷うこともない」。「嫌になるほど」の「自由」への歓喜。完全なる心の解放。

「嫌になるほど」の「自由」とは、アイロニカルな表現だ。「自由で自由で仕方ない。これ以上の自由はもういらない。自由なんてもう飽きた。自由の海で溺れそうだ」、という意味を表す。完全なる自由。

勿論、今の状態の「私」が「自由」であるはずはない。彼はすべての「自由」を奪われ、鞄によって心も体も完全に拘束されている。現状と認識の大きなズレ・懸隔が、この表現に表れている。


鞄によって完全制圧された状態の「私」が、その代償として得たものは、

【「ちゃんと」自分を「導いてくれ」る、「ためらうこと」が無い、「ただ歩きつづけていれば」いい、「迷うこともない」、安心】だった。またそれを彼は、【「自由」】と感じている。

「私」は大きく勘違いしている。真の「自由」とは、【導くものがいない闇を、ためらいながら、つまずきながら、迷いながら、不安におののきながら、自力で】歩むことだ。それを避けては、真の「自由」を手に入れ、またそれを持ち続けることはできない。


身体と精神と未来がむしばまれているにもかかわらず、それでも麻薬を摂取し続ける麻薬中毒者のような「私」。彼は自分が破滅に向かっていることに目をつぶる。意識しないふりをする。それを繰り返すごとに、やがて本当に意識しなくなる。


◇鞄とは何か?

「鞄」は何を象徴しているかという問いの答えとして、人を規制する国家、会社、共同体、家族のつながりなどを挙げるものが多いが、そうではない。

鞄は、それを持った人の進む道を勝手に決定する。しかもあたかも自分で自由に選択したかのような錯覚を与える。それを持つ恍惚と安心を、持ち主は感じる。鞄は人の心にいつの間にか忍び込み、持ち主を自由に操る。

鞄は人を誘惑する。人はそれに負け、思わず手にしてしまう。やがて人は鞄によって完全に掌握される。自分は鞄を持つことを選択し、自分の意志で持ち続けている。鞄は人に「自由」という錯覚を与え、安心感を持たせつつ支配する。

困難や障害を乗り越えることは、難しく苦労が伴う。だから人は、できればそれらを避け、楽をしようとする。そこに登場したのが鞄だった。鞄は持ち主の代わりに考え、判断し、指針を示す。思考と判断の代替装置だ。

「面倒は嫌だ」という、人間の無意識の拡大装置が鞄だ。


さらにもう一歩進めて考える。

拘束や不自由を、「自由」と感じさせる鞄の魔力。しかし実は人がそのように思い込んでいるだけなのではないか。

この鞄は、何の力も持たない、ただの鞄だ。人間の方が勝手に魔力を持つと思い込み、すべてを鞄のせいにして、二重の「楽」をしようとしている。

たとえば、

・「ちょっとでも急な坂」を上ることはおっくうだ。それを回避したことは鞄のせいにしよう。

・青年の持つ鞄には不思議な魅力がある。なかみを覗いてみたい。手に持ってみたい。であるならば、事務所に置いていくように仕向けよう。これも鞄の力。

・いよいよ鞄の次の所有者が決まりそうだ。この鞄をさりげなく置いていこう。これも鞄のせい。

・やっと手に入れた鞄。やけに重いが、「急な上り坂」でも「方向転換」すれば「また歩けはじめた」。気になる鞄を手に入れた幸福感。事務所に帰るのもおっくうだ。今日は鞄の導きに従って、どこまでも歩いてみようか。これも鞄の力。

という具合だ。


鞄はただそこにある。

そこに、あらぬ魅力と魔力を勝手に感じ、すべてはその力と錯覚する。もしくは鞄のせいにする。

人間とは、これほどまでに「楽」と責任回避を望むものなのだろうか。

呪力を持たない、ただの鞄。

それを化け物にしてしまったのは、人間の心の方だ。


鞄は国家や社会の象徴ではない。

楽を求め、自主性や責任を嫌う、人の心性だ。

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