計を阻むもの
天崖郷に潜入した瞬華はひとり、高台から通りを見下ろしていた。
「よくぞお帰りくださいました!」
酒に酔っているのか、そう声を掛けた若者の声は陽気な響きを帯びている。
やがて標的の人物とその協力者の姿が見えはじめると、瞬華と同年齢と思われる年若い男たちが数名、その標的の姿を取り巻いているようだった。
「あなたは、私たちの希望なんです」
「この地を認めていただけるだけでもありがたいのに……」
かなり大胆に人集めをしている、とは軍師の言だった。
確かに、鼠にしては賑やかにも度が過ぎている。深夜に及び、酒を飲んで陽気に歌い、皆と共にはしゃいでいるのだから。
というより――標的は鼠であることを最初から隠してはいないようにも思えた。
天崖郷の未来を語る若者たちは熱弁を振るう。
内容はまだ抽象的で未熟だが、士気高く団結している様は、高台から見ている瞬華にとってはひどく青臭く見える。ただ、個人的には経過を見届けたくなるような、複雑な気持ちに駈られる光景でもある。
並び立つ家々の軒先には白く丸い提灯が下げられ、夜であるにもかかわらず集落の道を照らしている。
明かりが途切れた目前の辻まで来ると、若者の一団は酔いながらも、その標的の人物に敬意を表しながら、口々に別れの言葉を発していた。
「では、私たちはここで」
「おやすみなさい」
その声に答えるように、軽く手を上げる標的の人物はしばらく辻にたち、もと来た道を戻っていく若者たちの後姿を見送った。
どこかで見たことのあるその後ろ姿に嫌な既視感がした。
もしかしたら、あれは――人物の姿を見定めようと、目を凝らす。
一つ向こうの辻を曲がり、若者たちの姿が完全に見えなくなる。大きく肩で息をつき、何気なく振り返った横顔に仰々しい眼帯が光ったことを確認したとたん、瞬華は刹那、記憶を巡らせた。
「何故、彼が……?」
現実を受け入れる事を躊躇いながら、視線をふと宙に彷徨わせる。
「おかしい、これでは」
たかが凡将、調べるまでもない――そう言ったのは何首烏だ。彼を始末する根拠があまりに弱い。
何故、名を伏せて自分を派遣する必要があった?
彼が蒼弦の縁戚ゆえ、明言を避けただけか?
それにしても、情報すら渡されなかったのは何故だ?
集中力が散逸していくのを感じ、思わず目蓋を閉じると、焦ったように懐を探る。
小さな丸薬を取り出すと一粒飲み込み、感情を排除せよと自らに暗示をかける。
何度もそう心で繰り返すうちに、小さな丸薬が胃の中で燃え解ける感触がする。
穏やかな興奮を促す薬効を得て、ゆっくりと両眼を開いた瞬華は、静かにその場から姿を消した。
*
悌夏の背後にぬらりと姿を現す瞬華が、刀身を艶消しされた剣を静かに抜き放った瞬間、発せられた殺気に悌夏は振り返った。
いない――
しかし眼帯の死角から再び現れた瞬華の姿を確認し、少々反応が遅れる。
無言のまま瞬華は剣を繰り出す。
月夜に光を拾わぬよう加工されたそれは、闇色の衣をまとった瞬華の腕と一体化するかのように伸び、悌夏を襲う。
かわしきれず突き出した剣を、悌夏は瞬華の手首ごと脇で挟み留めていた。
「ん……!?」
刹那、目線が交差する。
目のみを出した闇色の頭巾が目に入る。だが、その目に覚えがある。
大きく黒い双眸、影を落とす長い睫毛――
悌夏の片手が伸び、頭巾を剥ぎ取る。
その下から現れた顔に、剣を留めた悌夏は思わず目を見開き、声を上げた。
「お前、この前の……!」
にやり微笑むと、挟まれた腕とは逆の手で、脛に仕込んだ短刀を引き抜く。
ひゅっ、と薄い刃が空を切り、悌夏が身を翻した拍子に手首の拘束が外れると、瞬華は即座に間合いを取った。
「誰の差し金だ」
「知る必要はない」
話してはならない――情が移る。
だがその掟を犯しても、意外な形での再会に驚きを禁じ得ない。
「処分する」
短刀を逆手に構え直しつつ、じり、と再び瞬華が距離を詰めた直後のことだった。
「悌夏様? まだいますか?」
悌夏の背後、一つ向こうの辻から聞こえた第三者の声に、図らずも瞬華の身体が固まった。
それはさっき別れたはずの若者集団の声だ。目前の標的に気をとられ、周囲の気配を見落としていた。
「ち……っ」
襲撃は失敗した。
急ぎ撤収しなければならない。
だが、背後は今しがた飛び降りた高い崖だ。彼を追い抜かねば逃げることができない。
逡巡――
そう瞬華の表情を読み取った悌夏は、溜め息ひとつつくと、即座に両手を軽く上げる。
背後から徐々に近づく足音と陽気な声を背に、悌夏は短く、こう誘った。
「来い」
その言葉の意図が判らず、瞬華は立ちすくむ。
悌夏は眼を細めると――大きく一歩踏み出し、得物を握ったままの瞬華の手首を掴んで一息に引き寄せる。
「貴様……!」
広い胸板に匿われ、腕が閉じられる。
「何をす――」
痛いほど力を込める腕に抗おうとした時、低い声で囁かれる。
「ここで死にたくはなかろう」
耳元でそう囁かれたかと思うと、武骨な指が瞬華の顎を上向かせ、そのまま唇を重ねてくる。
一度、二度――
角度を変えながら、数回触れさせるものの、悌夏はふと唇を離すと、あたかも恋人同士がするような仕草で瞬華の耳元に口を近付け、こう囁いた。
「お前、間者だろう? もう少し、それらしく振舞えんのか」
「貴様、調子に……」
反駁しようと口を開けたと同時に、今度は深く、唇を重ねられる。
「ん……っ!」
やられた、と気づいたが既に遅く、離れようにも精悍な男の腕で強く抱きすくめられた状態では逃げることも叶わない。
あっけなく牙城が崩される。
完全に手玉に取られた格好の瞬華は、悌夏の腕に囚われたまま、しばらくその行為を受け入れるしかなかった。
*
一方、そろそろと歩み寄ってくる若者の集団は、突如目の前で繰り広げられる光景に、しばしの間足が止まっていた。
「悌夏様? ……あ、あれ?」
その声に今しがた気づいたかのように、悌夏はゆっくり唇を離すと、声のした方向を振り返る。
「ん……ああ、どうした?」
瞬華の頭が、ぐいと悌夏の胸板に押し付けられる。
「あの、その方……いつの間に?」
彼らが驚くのも無理はない話だった。
先刻別れたばかりの悌夏の腕の中に、いつの間にか知らない女が抱きしめられているのだから。
余韻さめやらない表情の瞬華を胸に抱く姿に、悌夏は照れたように答える。
「ま、まあその……俺のあれだ。お前たちが離れるのを待っていたらしい」
その言葉に何かを察した若者の一人がひゅう、と口笛を吹く。
「あの、もしかして俺達、お邪魔でした?」
「いや、いいんだ。いつかはこういう場を見られるだろうとは……」
「ですよね! 良かったあ、許してもらえて」
「悌夏様も俺たちと変わらないなんて、安心しちゃいましたよ」
あれ、とはなんと便利な言葉であろうか――瞬華は思う。
解釈に違いはあるにせよ、確かに言葉に間違いはない。自分を庇ったのだと理解は出来たが、囃される程に情熱的過ぎる行為だったことに、顔が火照る。
腕の中で半ば放心しながらそんなことを考えた彼女の顔を、若者たちは物珍しそうに覗き見てくる。
「うわ……すごい、美人……」
「格好からすると、間者か斥候とか、ですかね」
闇色の装束は刺客以外、何者でもない。
それにも関わらず、彼を殺しに来たという事実があっけなく霞んでいく――この男一体何者なんだとくらくらした頭で考える。
しかし悌夏はというと、特に変わった様子もなく、若者たちに話しかける。
「今しがた別れたばかりだったんだが、いつもの部屋をまた空けてもらえるか? こいつを休ませたい」
「いいですよ、すぐご用意を」
嬉々として取って返す若者と一緒に、悌夏と瞬華はもと来た道を引き返す。
その手捌きに呆然とする瞬華は無抵抗のまま、連行されていった。