廃砦
「何だ、これは」
悌夏は辺りに充満するその臭いに、明らかに理解できかねる声を上げた。
隣国の国境と接するこの側柏葉の地。
領地争いが頻繁に起こる紛争地帯だが、三日前に朮軍がこの砦を奪取し、近隣の領地もその手中に収まっていた。
いわば要衝である。軍備もぬかりなく、兵糧も無駄にはしていないと思っていた。
だが。
眼前の光景は、それを遥かに裏切るものだった。
供された肴はすでに腐り始め、宴の主が去った後も漂い続けている酒臭が物語っている。
宴を催していたらしいのだ。
今悌夏が立っている、この本陣の最奥で。
「一体どうやれば、この状況になる」
攻め込んだ時、敵の総大将は鎧すらつけておらず、裸足で逃げ出したのだという。戦に身を投じて何年も経ってはいるが、こんな状況は初めてだった。
事前に受け取った軍師からの書では、軍師直属の間者が少し前から潜伏していたということだったが、武官であり策に少々疎い悌夏には、一体何をすれば、ここまで弛みきった陣容になるのかは理解しかねた。
近くにある酒瓶を脇に蹴って退かす。中に残る酒が、ごろりと転がりながら辺りに撒き散らされていく。
「戦を舐めているとしか思えんな」
そう呟きかけて、配下の兵卒が近寄ってくるのを、悌夏はその視界の端に認めていた。
「悌夏将軍」
「何だ」
「兵糧庫に、女が隠れておりました」
「女?」
「はい。その――美しい女です。どうされますか」
微妙な響きの残る聞き方に思わず苦い笑みを刻む。役得とする将も居るのだろうが、悌夏はああ、と面倒臭そうに応える。
「美しい……か。近隣の略奪品かもしれん。会って話を聞く、連れて行ってくれ」
国と国の境、かつ争いの多い地であれば尚更、女が好んで寄る地ではない。近くの農村や集落から略奪に遭ったと見るのが妥当だろうと、悌夏は思った。
酒臭い本陣を離れ、砦特有の狭い階段を下っていくと、次第に穀物を収めたとみられる樽が並んだ通路に出た。
「将軍、こちらです」
ほの暗い空間の一角に灯が点され、数人の兵卒が取り囲んでいるのが見えた。その中央に豪奢な髪飾りがきらきらと光っていることで、悌夏は人影のひとつがその『美しい女』であることを悟る。
「将軍!」
人影の一つが歩み寄る悌夏を見つけ拱手の格好をとると、連なるように全員がそれに倣う。
「ご苦労だった。で……」
極めて事務的な確認に、兵卒の一人がはい、と期待をこめたまなざしで頷く。女は俯いたままだが、髪型格好からして芸妓なのだろうと推測できた。
「芸妓だな。疲れてはいないか」
「……はい」
そう言って、女は顔を上げた。
吸い込まれるような大きな双眸がこちらを見た。
彼の左目に注がれる視線に気づき、それを遮るように、悌夏は僅かに左半身を引く体勢をとった。
悌夏は隻眼だ。
左眼窩にいかめしい装飾の眼帯をつけ、精悍な貌がさらに威圧感あるものになっている。女には特に怖がられるため、彼女を前にし無意識のうちにその仕草が身についていた。
「そうか、ならばいい」
「はい」
女が大きな双眸を伏せると、今度は長い睫毛が影を落とす。豪奢な髪飾りと露わな肌が僅かに震えているところを見ると、寒そうにしているようだった。
「この女に布を」
確かに戦場には似つかわしくない美人だ――そう感じた。だが何故か、女には疲れや焦りが見られないような、そんな違和感もあった。
清潔過ぎるのだ。
砦で戦が終わって三日経つ。その場にずっと居ようものなら、幾分の疲れや焦りが見られて当然だろう。にも関わらず、肌と髪が、妙に綺麗に整えられている。
まるでこの女に迎えが来るのが判っていたかのようだ。
自分がここに来るまでの三日の間、一体どうやってこの姿を保っていたのか、疑念がよぎる。
埋伏というやつか。
策に詳しくはない悌夏でさえ、それくらいは聞いたことがある。
疑念は感じるものの、彼女にはお決まりのある台詞を言わねばならないことを思い出し、悌夏は兵卒から毛布を受け取った芸妓に向かい、再び口を開いた。
「女。戦利品としてお前の身柄を預かる。温経の都まで同行してもらうことになるが、問題はないか」
「……はい」
睫毛を伏せたまま頷く女に、付け加える。
「途上、郷里が見えたらいつでも言うがいい。同行を解き、自由にさせる」
本来なら命令に反することであるが、悌夏は常にそう加えている。
君主とはいえ、女はこれから望まぬ男に献上されることになる。君主が気に入ればそのまま後宮へと送られ、二度と郷里に帰ることもできなくなる。
もっと酷い目に遭っている者もいると聞く分、せめて自分が相対した時くらい選択肢があっても良いだろう。大体は途中で郷里を見つけ、貌が怖くて逃げられた、とでも言えば面目も立つ。
「将軍、兵糧の移動を済ませました」
「そうか。では、都に戻ると皆に伝えて来い」
駆け寄ってきた別の兵卒に労いと指令を与え、悌夏はその場を後にした。