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 霧の中、村の入り口に立ち、青年は目を凝らしていた。

 山道の向こうから来るはずの人影。それが未だ到着しないことに、少々苛立ってもいた。


「誰か来そうか?てい

「いや……まだ見えない」


 霆、と呼ばれた――まだ少年の面影が色濃く残る青年は、かがり火がまるで行灯のようにぼんやりと光を放つ濃霧の中、立ち続けていた。


 もう、どれくらい経っただろうか。

 山の麓が松明の灯で赤く染まり、地面は鳴り、絶えず空気が震えているのが感じられる。


「おい! 使者がきたぞ! 確認してくれ!」

 村の周辺を警戒する男たちから声が上がった。霆が手を振ってこちらだと合図すると、しきりに背後を気にしながら、やや細身の、はっきりした顔立ちの男がこちらに向かい駆け込んできた。


芙蓉門ふようもんの使者にございます。どうか、長へのご面会を願いたい」

「証を見せてもらえるか」

 霆と呼ばれた青年が、決まりの台詞を投げる。

「はい、こちらに」


 芙蓉門の使者と自称する男は、ためらいもなく左の袖をまくり上げた。宵闇に幾度も染めたような深い藍色の上衣に、肘から手首にかけて控えめに施された刺繍──その袖の下から体格に似合わぬ逞しい二の腕が覗く。

 肘上から肩下にかけて彫られた特徴的な花の印と、霆の懐から取り出した木片と照らし合わせ一致を確認すると、その場にいたもう一人に向かい、声を張り上げた。


「間違いない。長を呼んでください!」

 声を聞き、長の家に向かって走っていく者を見送り、霆は芙蓉門の使者を村中央の水場に伴に歩んでいく。竹を切っただけの簡素な器に湧水を汲むと、使者にそっと手渡した。


「これ、どうぞ」


 すみません、と一言断って、使者の男は水をぐいと喉に押し込むと、大きく息を吐いた。

 使者の表情からはまだ余裕が見て取れる。

 体つきこそ細身であるものの、この使者に強靭な体力が秘められているのが、霆にも理解できる。

 やがて長が村の奥から現れると、使者の男は丁寧に膝をついて拱手きょうしゅし、頭を下げた。


「芙蓉門の白施びゃくしにございます。急使にてこちらに参りました。手短にお話申し上げます。

 ――既にこの音が聞こえておりましょう。おびただしい数の朮軍が芙蓉門へ押し寄せております。手を尽くしましたが、この数ではいかんともしがたく……芙蓉門は間もなく、陥落するでしょう」

「いよいよその時が来た、と言うことか」

「はい。我が芙蓉門の長より、当初の手はず通り、芙芙ふふの保護をお願いしたい、との言付けでございます」

「あいわかった」

「あの」


 霆は、早々に立ち去りかけた使者に話しかけた。


「その……芙芙、なんだけど。俺が迎えに行ってはいけないものなのか?」


 使者は驚いたような顔を見せた。だが、それは一瞬で、もとの表情に戻る。


「それはなりません。芙芙様ふふさまはまだ芙蓉門の人間、我が芙蓉門は天崖郷を守る一門にございます。芙芙様ご自身が自力でここへたどり着かなければ、芙蓉門の名が折れましょう」


 その、どこか他人行儀な言葉に、霆は使者に食って掛かる。


「この状況を解って言ってるのか? あんたのところは、今、陥落するって!」

「やめんか、霆」


 長が制すると、白施と名乗った芙蓉門の男は弾かれたように霆を見た。


「霆? ……君が芙芙の許嫁いいなずけか」


 青年が大きく頷くと、使者の男はふと悲しげに眉根を寄せ──やがて全てを悟った表情で告げた。


「それでも、なのですよ。もし天崖郷こちらへたどり着かないとしても、それは芙芙様に使命あってのこと。芙芙様はただ一人、似神にかみに加護を頂いております。そしてあなたとの縁もある。心配はいりません。きっといつか、お会いすることができましょう。――それでは、長。私は戻ります」

「ああ。ご苦労だった」


 短い労いの言葉を聞き、白施と呼ばれた使者の男は短く拱手すると、ひらりと身を翻しもと来た方向へと駆け出していた。


「長、あの人は」

「死にに戻るのだ」


 長は淡々と告げた。


「芙芙殿以外、芙蓉門は誰ひとりとして加護を受けておらぬ」

「……!」


 霆は、男の背を見つめた。

 使者の姿など全く気に掛けてなどいない天崖郷の人間の間をすり抜け、まっすぐに郷の入口を目指す。


「あの人は、もう、二度と……」


 霆の胸が、鷲掴みされたように悲鳴をあげた。

 迷いなく死地に戻ってゆくあの使者を、この郷の人間は誰も止めない。そればかりか、共に戦おうともしない。まだ若い霆には、それが郷の怠慢と映っても仕方のないことに思えた。


「いいのだ、霆。天崖郷には似神がられ、民はそれを守らねばならぬ。お前は、お前の仕事を果たせば良い」

「そんな……」


 使者は霧の中、溶けるように去っていった。

 言いようのない無力感に苛まれながら、霆はようやく頭を切り替えると、白い霧の奥に向かって、ひたすらに目を凝らし続けた。

 ここから芙蓉門までは女の足でも半日もあれば十分に着く距離だ。


 なのに。

 無情にも、夜はもうすぐ明けようとしていた――。


*


 この日、拡大を続ける大国・じゅつによって、天崖郷てんがいきょう防衛集落ぼうえいしゅうらく芙蓉門ふようもんは地図から消えた。


 この時、霆夏ていか、十八歳。

 後の朮国の将・悌夏ていかとなる数年前の事件である。



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