汗浮かせ
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
私たちは、どうしてものを食べなくちゃいけないんでしょう?
いや、最近読んだファンタジーであったんですよ。ひとくち食べると、何日もお腹が減らずにいられる魔法の食べ物。
まあ、手あかがついた便利グッズではありますよね。リアリティ求めて、食料を山ほどもって旅させていたら、機動性に難が出そうですし。いざというとき、ダイナミックなアクションを取らせるなら、身軽な方がいいでしょう。
これは極端な例だと思いますが、現実にも兵糧丸とか、小型ながら栄養に富んだ食べ物の研究は、多くの人が手間をかけてきました。これからもお手軽栄養食の追及は、続けられていくと思いますよ。
話を戻しましょうか。先輩はどうして、人はものを食べないといけないと思います?
――そうしないと、生きていくことができないから?
ははは、先輩は端的ですね。厳密には生きていくエネルギーを得るため、でしょうか。
車のガソリン、家電の電気。何を動かすにも燃料はいるものです。人間も自動で消耗していく燃料を、適宜補わないと生きていけないんですね。
そして、変わったケースがあれば、それに対応する燃料の補充が求められる。
私が昔に体験したことなんですけどね、聞いてみませんか?
寒さが増してくる冬の日。その晩は家族で鍋を囲んだんです。
白菜を主力に、ニンジン、しめじ、たらにしいたけ、しらたき……などなど、わが家ではいつも通りのメンツが、白い鍋の底と壁をカバーします。
私たち一家は、特にお魚が好きでして、もたもたしているとタラが真っ先に売り切れちゃうんです。なので多少冷めるのは覚悟のうえで、最初に自分の分を取り皿へ取っていました。
取るのは先でも、いただくのは後にする私なので、ようやく切り身を口に入れたのは、鍋の中身が半分ほどに減ってからでした。
取っておいた切り身は三つ。そのうちの二つ目をぐっと飲みこんだ時、のどへ違和感が走りました。
ちくちくする痛み。首を動かしたり、つばを飲み込んだりすると、それは余計に奥の方で響いて、私は顔をしかめてしまいます。おそらくは、のどの奥に魚の小骨が刺さっているんです。
「ご飯でごっくんしなさい」
すぐに察した母親が私へ告げます。私自身も慣れていて、茶碗に盛られたご飯の大半をかき込むと、あまりかまず、一気に飲み込みました。
楽になる喉奥へほっとしましたが、いつもはそれで落着する事態が、その日はそうはいかなかったんです。
その日、私は夢を見ました。
体感温度のある、珍しい夢です。眠る前に布団を重ねがけしていたにも関わらず、震えるような寒さを肌に感じるそこは、ほとんど真っ暗な空間でした。
頭上から差すわずかな光によって、周囲を岩壁が取り囲んでいるのが分かります。足元に地面の感覚はなく、私はふわふわと浮かんでいるようでした。
あたりを見回している私へ、不意に背中からぶつかってきたものがあります。思わずのけぞる私の口元から、かすかにあぶくが立ち上りました。
――ここ、水の中なんだ。
そう察する私の頭を、更にゴツン。こんどは大きくつんのめった、私のつま先にゴツン。
頭と足を交互に、その間も背中へどんどん打ち付けられる私は、視界がいささかも定まることなく、上を下を何度も見続けて、目を回しそうになりましたよ。夢の中にもかかわらず。
はっと目が覚めた私は、右腕にチクリとした痛みを覚えます。
もしやと思って布団から腕を出し、そばに置いたスタンドの明かりをつけると、白かった私のパジャマの右腕が、ピンク色に染まっていたんです。
「まさかケガした?」と、袖をまくってみるも、私の肌には傷ひとつありません。鼻を寄せて嗅いでみても、血の臭いがするわけでもありません。
でも、このしみ具合は外からじゃなく、内側から汚されたようにしか思えないのですが……。
それからの私は身に着ける服を、ことごとくピンク色に濡らしていくようになります。
白い体操着を着込んで、学校へ行った日なんかは最悪でしたね。着替える手間をはぶいたはずが、全体的に赤に近い桃色に染まってしまったはずの体操着に、他の女子は大騒ぎ。保健室へ強制的に連行されちゃいましたよ。
腕は思い出したようにチクチクしますし、保健の先生にそのことを話して診てもらうと、驚くべきことが分かりました。
私の腕なんですけど、左腕よりも右腕の方が細くなっていたんです。
それだけなら、よくあることなんですが、先生が私の腕を濡れた布でふき取ると、その白い生地が思い切りピンク色ににじみました。
「これは汗だね」と、先生は断じます。けれども、ただの汗じゃないとも。
私の中にある血や肉が、急速に溶けだして汗とまじりあい、身体の外へ出ていってしまっている状態。なにか悪いものでも食べたんじゃないか、とも。
先生が部屋の隅にあるストーブの電源を入れます。十分温まると、私にそのストーブに触らない程度のところまで、腕を近づけなさいとの指示。
私が言われたとおりにするや、あのチクチクした痛みが腕の中に響きます。
ひじ当たりのぞわぞわから始まったそれは、チクリチクリと針の痛みをまき散らせながら、じわじわと私の手首近くへのぼっていきます。
同時に、そいつが通った端から、私の腕はしとどに汗をかいていきます。水をかけられたかと思う、猛烈な勢い。それが保健室の床へ垂れ落ちるとき、ついに隠し切れない鉄の臭いが私の鼻をひくつかせました。
――このままだと、本当に腕がなくなっちゃう……!
ぶるぶると震える私を前に、先生はだしぬけに薬品棚の隅にある引き出しを開けます。
フタをされたいくつもの透明なビンたち。その中から取り出されたひとつには、メンマともかんぴょうともつかないものが、いくつも体をくねらせながら押し込まれていたんです。
その中からひとかけら、ピンセットでつまみ出されて、食べるよう促される私。
噛んだそれは、何度も食べたことがある前者二つよりも、ずっと固いもの。するめやさきいかを思わせました。
それでも噛んでいく私の口の中へ、じわじわと広がっていくのは磯の香り。続いて、あの日の夢の中で味わった寒気に似たものが、私の頬の内側と口蓋、歯の裏にも走っていって……。
チクリと、新しい痛みが私の指に走ります。
見ると、保健の先生が私の右人差し指の先っちょに、安全ピンを当てています。遅れて指の腹に膨れる血の泡。それが弾けて、そそり立つ私の指の山肌を駆け下りだしたとき。
あの手首辺りで止まっていた痛みが、また私の中で動きだしたんです。
手のひらを、指の付け根を、その関節を、瞬く間に通り過ぎて指先に集まったそれは、先生が開けたばかりの穴を、ぶるぶるふるわせます。
「ぐにゃあ」と、それが産声であるかのように、周りの肌さえゆがめさせ、声と頭を出したそれは、白くて細い骨だったんです。
数センチに及ぶそれは、私の血に赤く染まりながら、ずるりと傷の中から床へ滑り落ちました。木目の上で、なおもぷるぷると体を震わせて跳ねるさまは、あの夢の中で何度も殴打される私の姿にも思えたんです。
「故郷に、戻ろうとしたんだね……」
その跳ねつきがおさまり、一部始終を私から聞いた先生は、そうつぶやいたんです。