母はいったい何と暮らしていた?
後味よくないので注意です。
それは私がまだ十代の頃。
父を早くに亡くしていた私は、母とふたりで暮らしていた。
さいわい近くに祖母が住んでいたこともあり、色々と援助もしてくれたのだろう。
そのおかげで、私は母子家庭にも関わらずあまりお金に苦労した記憶がない。
祖母の所有していた家に住み、祖母が出してくれたお金で大学にも行かせてもらった。
母は祖母が経営する店で働いていた。
そんな母が、ある日、家を出て行った。
好きな人ができたと言う。
私はもう大学生だったし、母も女なのだからそんなこともあるだろうと、あまり驚きはしなかった。
母の恋人には私も何度か会ったことがある。
40代の会社経営者。いかにもやり手の男だった。
この人なら、母も幸せになれるかもしれないと、なんとなくそう思った。
しかし、そんな時期は長くは続かなった。
男は癌を患った。分かった時にはもう手遅れで、なにもできないままあの世に行ってしまった。
母の消沈した姿は見ていても辛いものがあった。
祖母が家に帰ってくるように言っても、母は頑として首をたてにふらなかった。
男と暮らした部屋で、母は毎日手を合わせていた。
遺骨を墓に納めることもせず、遺骨と一緒にごはんを食べ、遺骨と一緒に寝る毎日だった。
いつしか私は母のところに行かなくなった。
少しづつ、少しづつ変わっていく母が怖かったのかもしれない。
母は男の死を受け入れようとはしなかった。
まるで生きているように遺骨に話しかけ、まるで生きているように遺骨にごはんをついだ。
そんな様子の母に、私は何も言わなかった。言えなかった。
足が遠ざかってから半年ほどが経った頃、祖母から母の様子を見てほしいと電話があった。
いくら電話をかけても出ないのだと言う。
なんとなく嫌な予感がした私は、その日の夜に母の部屋に向かった。
呼び鈴を鳴らしても返事がない。
合鍵を使ってドアを開け、そっと中に入った。
母の姿はなかった。
そして……遺骨もなかった。
正確には、遺骨が入っていた骨壺が床に転がっていて、中に入っているはずの骨が無くなっていた。
あったのは、机の上に置かれたノートだけ。
私は吸い寄せられるようにノートを手に取った。
『〇夫が死んで1か月が過ぎた。辛い』
『もう一度〇夫に会いたい』
『今日は〇夫のためにシチュー。〇夫の好物』
『〇夫のためにシャツを買った。着てくれるかな』
『またシチューが食べたいって』
『今日は〇夫にマッサージ。あんな狭いところだと肩こるよね」
『肉をつけないと駄目だからって、今日は焼肉!』
『昔より元気になった〇夫。まだ痩せてるけど癌も治ったみたい』
『今度は血が足りないって』
なんだこれは。なんなんだこれは。
ノートの続きを見てはいけない気がした。
この先を読んではいけないと私の本能が訴えている。
母は……母はいったい、何と暮らしていたのだ。
あわててノートを閉じる。
どうすればいい。どうすればいい。
床に転がった空の骨壺。
生活感のまったくない部屋。
よく見れば、部屋には無数の足跡が残っている。
そして、壁には大きく、『逃げろ』の文字。
恐ろしくなった私は、黙って部屋を飛び出した。
そのまま自分の部屋に戻り、布団をかぶって震えていた。
目の前にある母のノート。
あきらかに常軌を逸したような字で書かれた母の日常。
ガタガタと震えていた私の耳に、玄関の呼び鈴が聞こえた。
もう夜も遅いというのに、いったい誰が訪ねて来るというのか。
私は震える手でインターホンを取った。
頼むから、友人であってくれと祈った。
「……母さんよ……開けて……」
無理だ。開けられない。頼むから帰ってくれ。
必死に頼む俺に向かって母は言う。
「あの人も久しぶりに会いたいって。お願いだからここを開けて……」
必死に帰ってくれと泣き叫ぶ俺。
「……開けて……開けて……」
頼む。頼むから帰ってくれ。
「……開けて……開けて…………………開けなさい!」
ガチャガチャとドアノブを回す音。
俺はただ必死にドアノブを抑えていた。
そして、「また来る」と言って母の声は聞こえなくなった。
それから母は行方不明だ。
一度だけ、祖母のところに電話があったらしい。
心配するなと。
あれからずっと私の手元にある母のノート。
やはり、読んだ方がいいのだろうか。
母はまた、私のところに来るのだろうか。
そして、母はまだ、あの男と暮らしているのだろうか。
最後までお読みいただきありがとうございました。
ノートを見るまでは事実。後半は創作です。ノートは最初のページで読むのをやめました。母とはそれ以来音信不通です。
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