テセウスの舟と不変の愛
テセウスの舟というパラドックスがある。
元はローマ帝国のギリシア人哲学者、プルタルコスが紹介した伝説で「ある物体を構成する全要素が置き換えられた時、置き換えられる前の物体と置き換えられた後の物体は同一か」という物騒なものだ。
え、別に物騒じゃない?
じゃあ、こんな話をしてみよう。
例えば、今ここにいる君と一年後の君、本当に同一人物なのかな。
人体は一日で一兆個もの細胞を入れ替えている。
不要になった細胞は死に、新しい細胞は分裂して増えるわけだ。
人体の細胞の数は約六十兆個だから単純計算すれば二ヶ月ですべての細胞が入れ替わることになる。
まぁ、あくまで単純計算だから、実際に二ヶ月ですべての細胞が入れ替わるわけじゃあないけどね。
厳密に言えば、胃の粘膜は三日ほど、皮膚は約一ヶ月、脳は約一年で入れ替わる。
だとしたら、脳のすべてが入れ替わったら。
その人間は本当に同一人物と言えるのかな。
ああ、ごめんよ。
すこし意地悪な言い方だったね。
まぁ、とにかく君は変わるんだよ。否応なしに変わってしまう。
どんな気持ちも、信念も。
その愛だって、変わってしまう。
予言するよ。
一年なんて時間は必要ない、明日の君は今の君とは別物になるし、何なら十五分後の君だって別物だ。
何を言いたいのかわからない?
ああ、そうだね。そうだろうよ。
はは。ごめん、話が逸れてしまったね。
そうだそうだ。そうだった。
今日、君がここに来たのはわたしの妹に会う為だったね。
いやあ、かわいい妹を君にとられるかと思うと、姉のわたしとしても気が気でないというか、つい意地悪したくなってしまうんだよ。
姉心というやつさ。
いいじゃないか、少しくらい。
十年も前から妹のことが好きで好きで仕方なくて、忘れられないだなんて甘酸っぱいことを言われたら姉は意地の悪いことをしたくなるものだ。
十年前って言ったら中学生の頃からじゃないか、素敵だなぁ。へえ、そんな頃からかぁ。一途だねえ。
え、まだ妹がOKしてくれるかはわからない?
妹の気持ちをまだ聞いていない?
ああ、そうだ。そうだった。
君は何も知らないんだった。
いやいや、すまない。
不快な思いをさせたなら謝るよ。
何、悪い話じゃあないんだ。安心して聞いて欲しい。
実はね、妹も君のことが好きらしいんだよ。
ははは、君はいい反応をするね。
妹のことを心から好きなんだなぁ。伝わってくるよ。
妹もいい男に見初められたものだ。
いやいや。落ち着いてくれ。
嘘じゃあない、本当さ。ほら、こんな手紙が出てきたんだ。
ああ、どうぞ読んでくれ。君へのラブレターだ。
書いたはいいけど、結局渡せなかったみたいでね。
ほら、ここ。この宛先のところに君の名前が書いてあるだろう? 正真正銘、君宛のラブレターだよ。
何? 勝手に読むのは申し訳がない?
ははは、君はいい人だな。
いいんだよ。
妹は恥ずかしいだろうけど、それ以上に嬉しいはずだから。
いやー。妹は片思いだと思っていたようだけど、両思いだったんだね。
まったくなんで学生時代にくっつかなかったんだい。勇気かな? 勇気が出なかったのかな?
ふふっ、めでたいねえ。
実にめでたいことだ。
さっきは少し怖がらせてしまったかもしれないけど、わたしは君たちを応援しているんだよ。
姉として、色々思うところはあるけど。君と妹がうまくいくことを心から願っている。本当さ、嘘じゃあない。
ところで聞きたいことがあるんだけど。
金閣寺ってあるじゃないか、金閣寺。
あれって全焼したことがあるって知ってる?
へえ、博識だねえ。君は歴史が好きなのかな。
ここからが聞きたいことなんだけど。
一度全焼してから修復された金閣寺って、修復前の金閣寺と同じオリジナルなのかな。それともレプリカなのかな?
そう、へえ、そうか。
どっちもオリジナルか。
そうだよね。どっちも同じオリジナルの金閣寺だ。
だって、ほら。形状が同じだ。
修復前の金閣寺も修復後の金閣寺も同じカタチをしている。
だから同じだ。同じなんだ。
いやー、君もそう思うかい? 嬉しいねえ。お姉さんは安心したよ。
君になら妹を任せられるだろう。ああ、そうに違いないね。
え、そろそろ妹に会わせて欲しい?
待ちたまえ、事を急いてはいけない。妹はとても恥ずかしがり屋なんだ。
他にも君に見せておきたいものがあるしね。
はい、これ。
うん、そう。
日記だよ。妹の日記。
いいんだ。いいんだよ。気にするなって、見てしまえばいいんだ。
なんならわたしが音読してもいいんだぞ。
うん、素直でよろしい。
これから君は妹の伴侶。善き夫として生きることになるのだから、少しくらい妹のことを知っておいても損はない。
気が早い? そんなことはないよ。
相手の気持ちを理解しておくことは悪いことじゃあない。
内容的にはさっきのラブレターと大して変わらない。君への愛とか煩悶とか、好きで好きでたまらない気持ちが数ヶ月にも渡って綴られている。
よくもまあ、こんなはちみつに砂糖を振りかけたような甘ったるい文章を書いたものだ。姉ながら呆れるというかお幸せにというか。ああちょっと待ってくれ、そのページからだ。そこが重要なんだ。
気づいたかい? さっきわたしが言ったようなことが書いてあるだろう。
この頃の妹は人体の細胞は入れ替わるということを知って、自分が自分でなくなってしまうのではないかと、心配しているんだよ。
そうなったら自分の恋心も失われてしまうのではないかと、心配しているんだ。
かわいらしいよね。
身体を構成している細胞が入れ替わっても、人は別人になんてならない。
さっきは少し君を怖がらせてしまったけれど、明日の君も一年後の君も同じオリジナルの君だ。
細胞の分裂や死によって、君を構成している要素は入れ替わっても、そんなことで君の同一性は失われたりしない。明日も明後日も五分後だって、同じ君だ。
君もそう思うだろう?
……もしかして、そうは思わない、かな?
ああ、よかった。本当によかった。
うんうん、そうだよ。その通りさ。たとえ脳の細胞が入れ替わるとしても、記憶は連続してるし、四分後の君だって変わったりしない。そう簡単に人が変わるものか。変わるわけがないんだ。だって、君はとても優しいしさ。
いやあ、お姉さんは安心したよ。
本当に妹は幸せ者だなあ。
え、そろそろ妹に会いたい?
ここに妹はいないのかだって?
いやいや、いる。
妹はいるよ。
天地神明に誓ってもいい。
妹はこの家にいるさ。
いやあ、こんなに待たせて悪かったね。
でも、わかっておくれ。君たちはすでに両思いなんだ。一度会わせれば君たちは凄まじい勢いでマリッジしてしまうだろう。
そうなれば姉の入る隙間なんてない。悪あがきというか、時間稼ぎのひとつもしたくなるってものだ。これもまた姉心だと思って諦めておくれよ。シスコンと言ってくれても構わない。
ただ、最後にこの部分だけは読んでおいて欲しい。
ここ。そうこのページだ。
これまで、妹は君にぞっこんだということを散々話したけれど。実は少しだけ状況が違う。
というか、想像してくれればすぐにわかると思うんだけど。
もう十年が経過しているんだよね。クラスメイトとして十年前に一度君たちは別れているんだ。中学校を卒業して別の高校に進学してしまったからね。
君の心も痛かったろうけど、妹もまた心を痛めていたんだよ。
ほら、ここだ。この部分。中学を卒業する手前あたりで、もう二度と君に会えなくなることに心を痛めている。
まぁ、実質的な失恋のようなものだよね。二度と会えないってそういうものだ。君も同じような状況だったんだから、わかるだろう?
告白に失敗したわけでも、直接フラれたわけでもないけれど。それでも心は痛むものでさ。
はは、このページ染みになってる。
さては泣きながら書いたな? 我が妹ながらいじらしいな。
かわいいやつだ本当に。
え、なぜ泣いているのかって?
いやー、ごめんね。もう時間稼ぎもできないんだよ。ネタが尽きたというか、後はもう君を妹に会わせるだけなんだ。感動の再開というやつだ。だからもう、おしまいなんだよ。
ところで一つ聞きたいんだけど、もし妹が……。
いや、やめておこう。
もういいんだ。説明は。
実際に妹に会うのが一番いいからさ。
君だって早く妹に会いたいだろう?
ああ、いいとも。
部屋に連れて行ってあげよう。
さぁ、ご対面だ!
お姉さんワクワクしちゃうな!
え、何?
これは何かって?
失礼な奴だな、妹だよ。
君が焦がれるほど愛したわたしの妹だ。
まぁ、ちょっと色んな管がつながってるし、ここ八年ほど眠り続けてるけど、妹だ。
いやぁ、金かかるんだよね、妹はさ。
保険がきかなかったらとっくの昔に破産してるよ。
親父と母親が失踪した時はどうなることかと思ったけど。日本は医療制度が充実してて素晴らしいね。おかげさまで、わたし一人の収入でもなんとかなっているよ。
まぁ、これからは君が妹の伴侶となるわけだから、医療費は君が払うんだよ。後で毎月だいたいいくらかかるかと、高額医療制度について説明するから、きちんとメモをするように。
手続きが不安ならわたしも付き添うし、そこらへんは安心して欲しい。
なぁに、贅沢ができなくなるくらいで済む。愛があれば大丈夫だ。
さっき伴侶と言ったけれど、妹は意思の疎通が一切取れないから、法的に結婚するのは不可能だと思って欲しい。内縁の夫ということになるけど、そんなことは些細なことだろう?
大切なのは相手を愛する気持ちだよ。
え、何? 治るのかって?
はは、こっちが聞きたいよ。
ま、あまり希望を持たないことだ。
心が折れるからさ。
なぁ、お前さ。
妹のこと愛してるんだよな。
なんでそんな目をするんだ?
さっきから何を考えてる?
いや、いやいやいや。おかしいだろ。
ほら、妹は何も変わらない。
変わってなんていないじゃないか。
十年も経過しているから多少イメージとズレがあるかもしれないけど、顔だって綺麗なものだし。身体だって毎日わたしが拭いてるから清潔そのものだ。
身体のカタチだって変わらない。点滴で生きてるから痩せてはいるけど、元々妹は痩せ型だったし。ほら、やっぱり変わらないじゃあないか。
目覚めないし、しゃべらないし、何考えてるかもわからないけど。それでも、妹が妹であることに変わりは無いだろう?
君が愛したわたしの妹だよ。
君が妹を愛することに、何か不都合でもあるのかよ。
……そうか。
まぁ、そうだよね。悪かったよ。
ああ、悪かったって。
悪かったって言ってるだろ! 出て行けよ! お前なんか知らん! 早く出てけ! 愛してるとか、好きだとか、一生大切にするとか、二度と言うんじゃねえよ! 言葉が軽いんだよ!! 二度と来んな!! ばーか!!
わたしはあらん限りの暴言を吐いて彼を追い払うと、その場で座り込む。
彼には悪いことをした。
謝りたいとはまったく思わないが。
息が荒い。
感情が高ぶっている。
妹が目覚めなくなったのは、八年前からだ。
治る見込みがないことと、毎月かかる医療費の額を知った両親は、わたしと妹を捨てて失踪した。
何のリターンも生み出さない、生きた屍みたいなやつに人生を吸われ続けるのは損だと判断したのだろう。
実に合理的だ。
反吐が出るくらいに。
おかげさまで、わたしは人生のほとんどを妹の維持費に吸われている。
こんなんじゃ、結婚はおろか恋愛すらできない。うまく付き合っていても、事情を話すと別れを切り出されてしまう。
まぁ、そうだよね。
こんなお荷物抱えた面倒なやつより、もっと普通の女がいいよね。
わかるよ。しょうがないよ。
こんなの死体を育てているようなものだもの。
何の生産性もないし。
いつ目覚めるかもわからない。
でも、だからといって放棄するわけにはいかない。
わたしが世話をしなければ、妹は死ぬんだ。
殺人は罪だ。
なぜわたしだけがこんなものを背負わなければならないのか、意味が分からないけれど。それでも背負わされている以上、逃げられない。
無責任な両親のように、妹を捨てたくない。
妹の部屋に入ると、点滴が切れそうになっていた。
繰り返し点滴を刺された傷だらけの腕に、わたしは点滴を刺し続ける。そうしなければならない。
何らかの奇跡が起こって妹が目覚めるか、妹が死ぬまで、この生活を繰り返す。
わたしは、しわくちゃのおばあちゃんになっても、妹を生かし続けるのだろう。
得られたはずの幸福を数えてはいけない。そんなことをすれば心が折れてしまう。考えてはいけないのだ。
その時、妹が寝息を立てた。
それはあまりにものんきで、間が抜けていた。
だからだろうか、気がつくとわたしは妹の首に手をかけていた。
首は細くて、力を入れれば折れてしまいそうな気がした。
いや、折れない。折れはしない。
実際、折れたことは一度もないのだ。
胸の奥に甘い蜜が垂れる。
ああ、わたしは狂っているのだろう。
ほんの少し気晴らしを楽しんだわたしは、手を離して妹の点滴を替えた。
心が楽になっている。
これでいい、これでいいんだ。
わたしは妹を愛している。
狂おしいほどに愛している。
この愛は不変だ。
わたしのすべてが入れ替わっても、何年経っても変わりはしない。
いつまでだって耐えてみせる。
わたしが壊れ果て、頭の中身が入れ替わって、別の何かになるまでは。
入れ替わって、入れ替わって、入れ替わった果てに。
わたしがわたしでなくなるまでは。