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「蜘蛛は寝巻きで捕まえて潰した……。いや、野蛮だと思われるのは嫌だな。寝巻きでくるんでベランダから捨てたと言おう……」
マクベスはフラフラしながら、エルトゥールの寝室へと戻った。
探さなくても、蜘蛛はあっさりと見つかった。
マクベスがエルトゥールの寝室の扉を開けたら、目の前に「どうも」というように鎮座である。
これなら事はすぐに終わると、マクベスは持ってきたハンカチ越しに蜘蛛を鷲掴みした。
ベランダへ続く窓を開き、外へ出る。秋の涼しい夜風がマクベスの金髪を揺らし、色々な意味で汗ばんだ頬を冷やす。
謝罪し、感謝を伝え、花束を渡し、会話をする。あわよくば今夜を初夜に! だったのに、蜘蛛に怯える妻に抱きつかれて、会話せずに押し倒しそうになるという結果。
マクベスの勇気はズタボロである。激しい自己嫌悪に襲われていて、彼のライフは間も無くゼロ。
ベランダに出たは良いが、蜘蛛を投げ捨てる力が湧かない。
「いや、妻を救った夫という印象を得られた……」
青白いことや細い体が嫌で、外を走り回って育ったマクベスには、蜘蛛など怖くない。
ハンカチの中でワサワサと動く蜘蛛を見つめる。
「お前のせいだが、お前のおかげだ。地面に叩きつけるのはやめてやろう」
マクベスはベランダ下の、柔らかそうな芝生目掛けて蜘蛛をポーイと投げた。
ひゅううううと落下していく蜘蛛は、風に飛ばされ、芝生ではなく垣根に着地。
まあ、マクベスはそこまでは見ていなかった。ハンカチをバサバサ振った後に畳んで、ズボンのポケットに押し込んでいる。
マクベスはベランダから室内へ戻り窓を閉めると、深呼吸をしながら、蜘蛛の処理などの説明文を脳内で反芻した。
ゴクリと喉を鳴らしてから、妻の書斎へ続く扉を開く。
マクベスが扉を開くと、エルトゥールはソファの前に立っていて、両手を胸の前で握りしめて、ソワソワと歩いていた。
エルトゥールはマクベスに気がつくと、夫がまだ何も言っていないのに、パァッと顔を輝かせ、安堵の笑みを浮かべた。
「マクベス様。助けていただきありがとうございました。エルルは本当に蜘蛛が嫌いでして……」
(かっ、可愛い……。へえ彼女、幼い頃は自分のことを、エルルって呼んでいたのか。エルルか。確かにエルトゥールより呼びやすいな)
本日2度目の、新婚夫婦の視線交差。
エルトゥールは蜘蛛騒動の前のことを思い出し、羞恥心に襲われ、両手で顔を覆った。
マクベスに背を向けて、指と指の間から出した目で、隠れる場所を探す。
最初に目についたのはワークデスク。
エルトゥールは一目散にワークデスクを目指し、夫の死角になると予測される場所へ身を隠した。
急に耳まで真っ赤になって、身を隠した妻に、マクベスは面食らい、理由を考察した。
はしたないところを見られた、とベッドの下に隠れたのと同じ理由、照れだろうと結論付ける。
あられもないお尻や足を堪能してしまったことや、密着した胸や体に興奮してしまったことは知られていない。
むしろ、嫌いな蜘蛛から救出したので好感度は上がったかもしれない。
よってマクベスの胸はムズムズ、期待で膨らみつつある。
「エルトゥール様……。蜘蛛は寝巻きで掴んでベランダから庭へ捨てました」
「助けていただき、ありがとうございしゅ」
エルトゥールはワークデスクから半分顔を出して、マクベスの表情を確認しようとしたが、噛んだためにバッと隠れた。
(もう嫌……。しゅって何……)
「エルトゥール様。盗み聞きするつもりはなかったのです。ノックをしてお名前を呼んで返事があったと間違えて、つい扉を開けてしまいました。すみません」
「いえ。すみませんなどと、それはごく自然な行為でございます。実際は、私にノック音や呼びかけは聞こえていませんでしたが……。それはマクベス様のせいではありません……」
沈黙が横たわる。
エルトゥールはしゃがんで床に敷かれた絨毯の模様を指で弄った。
その心は、何か言って、何を言おう。何か言って、何を言おう。(以下ループ)である。
マクベスはマクベスで、落ち着け俺、勇気だ。落ち着け俺、勇気だ。(以下ループ)
で、沈黙は続く。
(ハッ! ここまでみっともないところを見せてしまって、親しくなりたいという想いも伝わってしまった今、もう怖いものなんてないわ!)
エルトゥールの羞恥は沸点を超えたことで、開き直りに転じた。
(女性は根性って、先月読んだ本に書いてあったもの。何も得ていないから、失うものもないわ!)
エルトゥールは勢い良く立ち上がり、寝巻きの裾を手で握りしめ、目を閉じ、本人の意識とは裏腹に、蚊の鳴くような小さな声を出した。
「きゅものこがいるかもしれましぇんので、怖いからマクベスしゃまの部屋で一緒に寝ても……」
噛み噛みな上に、掠れ声。エルトゥールは(本当に……もう嫌……)と涙ぐみつつも、必死にまぶたを開いた。
眉根は自然と下がってはいるが、きちんとマクベスの反応を確かめようと努める。
エルトゥールの視界に映るのは、右手で口元を覆い、自分から目を逸らし、俯いている夫の姿。マクベスはふるふると首を横に振っている。
惨めでいたたまれないと、エルトゥールは窓際へ移動し、カーテンを体に巻き付けて隠れることにした。
悔しいので泣くものか、と必死に目元に力を入れてみるも、涙は溢れて止まらなかった。