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蜘蛛への恐怖でエルトゥールの頬は涙でびしょ濡れ。
彼女のエメラルドの瞳に映るのは、顔を赤らめて、困り笑いを浮かべているマクベスの姿。
(大丈夫、蜘蛛なら任せろなんて……言ってくれたり……。立つのを手伝ってくれたりするかしら?)
エルトゥールは勇気を出して、マクベスに向かってそっと両手を伸ばした。
ねえ抱っこ、と甘えるような仕草。エルトゥールにその自覚はない。本人としては、品良く手を伸ばしたつもりである。
一方、マクベスは内心慌てふためいていて、可愛らしい仕草で抱き上げて欲しいと要求する妻に、更に熱を上げた。
エルトゥールに両足に抱きつかれ、ポヨンポヨンの柔らかい胸を押し付けられ、赤らんだ顔にうるうるした瞳で見つめられた結果、半思考停止。
ぼんやりする頭で考える。大興奮していますと見破られる訳にはいかない。
マクベスは柔らかそうな体にむしゃぶりつきたい衝動を振り払い、素早くしゃがんだ。
膝を広げて爪先立ち。マクベスは脳みそフル回転で考えた。
(頼まれたのだから、抱き上げて良いはず……。彼女を蜘蛛の恐怖から助けなければ……)
よしっ、今するべき行動は妻を横抱きにして立ち上がることだと深呼吸をして、自身に気合いを入れる。
マクベスのこのしゃがむという行動は、エルトゥールに好意的かつ前向きな思考を与えた。
(抱き上げて助けてくれるのね! 嬉しい!)
エルトゥールはマクベスの首に腕を回し、ギュッとしがみついた。
男性の手の中にはおさまらない、たわわな胸がマクベスの胸にムギュッと押し付けられる。
(や、柔らか……)
抱きついたことで、マクベスの足と足の間にエルトゥールの腹が近づく。彼女が腕に力を入れると、更に距離が縮む。体に極上のムニムニが襲撃である。
(んなっ。ちょっ……。待って……)
マクベスは惚けそうになった。しかし、励め、と自分を鼓舞し、彼女の両膝の下に腕を潜らせようと動いた。
「マクベス様。大きな声など出してすみません。私、蜘蛛がとても苦手で……い、いやああああ!」
蜘蛛がカサカサとエルトゥールの足へと近寄ってくるので、マクベスが妻を抱き上げる前に、彼女は膝立ちになり、ますます夫にしがみついた。
高密着状態に突入である。マクベスの腕はエルトゥールの至高の感触の肢体に自然と引きつけられた。
(良い匂い……柔らかい……)
マクベスは戸惑って少し体を離そうとしたが、しがみついてくるエルトゥールの体は追いかけてきた。
カサカサ、こんにちは、と蜘蛛は呑気。しかし、若夫婦は共に緊急事態。
「いやあああああ! 来ないでええええ!」
「大丈夫です。貴女をすぐ遠くへ運びます。蜘蛛もその後すぐ対処します」
「マクベス様……。いっ、いやあ! 来ないで来ないで!」
優しい囁き声(現実は切羽詰まった掠れ声)に感激したエルトゥールは、本能のまま、マクベスに更にギュウッと密着。
エルトゥールの柔らかな肢体は、マクベスの理性を蹴散らす寸前。
彼は必死の形相になり、精神を集中。脳内で掛け算を始めた。我慢ゲージは限界突破間近。彼は歯で舌を噛み、痛みで理性を保とうという手段に出た。
その結果——……。
勢い余って、強く噛み過ぎて、激しい痛みに襲われてしまった。
「ゔっ……」
「マクベス様、真っ青です。どうかされました?」
マクベスは首を横に振り、微笑んでみた。
今すぐにでも貴女を押し倒したいです、なんて言える訳もなく、どう理性を保とうかという思考が脳内を占めていて、身を案じてくれている妻に対する良い言葉は出てこない。
(エルトゥール様は自分が異性をどれほど惑わすか理解していないのか?)
気遣わしげなエルトゥールの上目遣いに、マクベスは首を横に振り、曖昧な笑みを返した。妻の様子を伺う。
「いやっ! マクベス様、私、暴れて蜘蛛を潰したかもしれません! いやああああ!」
エルトゥールはあわあわしながら、自分の足を確認し始めた。
蜘蛛は2人の前から姿を消している。それが余計にエルトゥールの恐怖に拍車をかけた。
(うおっ! まっ、また。だから無理! こんな据え膳、無理!)
マクベスは、一瞬我を忘れかけた。しかし、よしここは蜘蛛を潰したかもという妻の想像に乗っかり、体を動かすことで己の昂ぶる本能を誤魔化そう、と決意。機転は大切だ。
「失礼しますエルトゥール様。別の部屋へ運びます。足を確認しましょう」
マクベスはエルトゥールの体がこれ以上自分の理性を刺激しないように細心の注意を払い、妻を抱き上げた。
(こんなに軽々とお姫様抱っこ……。マクベス様って細いのに、見た目よりもずっと逞しいのね……)
エルトゥールはドキドキする胸に両手を当てて、精悍な表情の夫にうっとりとした眼差しを送った。
この視線に気がつけば天国だが、残念ながらマクベスの脳内は(どうやって落ち着こう)と(蜘蛛退治、一旦離れる、冷静になる、順序は?)である。
マクベスは隣室のエルトゥールの書斎にあるソファに彼女を座らせ、サッと足を確認するフリをした。
「蜘蛛を部屋から追い出してきます」と即座に告げて、早足で妻の寝室へ戻る。
書斎と寝室を繋げる扉を閉め、行方不明の蜘蛛を無視し、出入り口に落とした花束を掴み、急いで自分の寝室へ移動。
鍵をかけて、花束をローテーブルへ置き、大きく腕を振りながら何度も深呼吸した。