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結婚して半年が経過。甘い甘い蜜月期間、とは程遠く、エルトゥールは今夜も1人で眠る予定。
何せ、結婚したマクベスは初夜以降、1度も彼女の寝室を訪れたことがない。
その初夜の日も、マクベスは「ええ。朝から疲れましたね。寝ましょう」の一言だけを発し、妻となったエルトゥールに手を出さなかった。
北西の地、連合国の1つ、マクベイン国の前国王の娘、5人兄弟の末っ子長女、エルトゥール・マクベインは常日頃、多くの男性に求愛される女性だ。
ふわふわ艶々した銀杏色の巻き髪。
エメラルドのような輝きの瞳。真冬の雪景色を思わせる肌。熟れた果実のような唇。
彼女がモテる理由は単に美人だから、だけではない。
小柄で少々垂れ目な童顔、それなのに豊満な胸や腰からお尻への肉感はしっかりある。
品良く微笑めば、若干外斜視気味なことや、唇の右下にある少々目立つ黒子で、歳の割には妙に色っぽい。
そう、男性の庇護欲と色欲を両方掻き立てることが彼女の最大の魅力。
エルトゥールは先代国王ノルディスが50歳過ぎ、妻ルーシィが41歳の時に産んだ娘だ。非嫡出子ではないし、高齢出産で、安産で、誰もがビックリした。
ノルディスは娘が5歳を過ぎた頃に考えた。娘が産まれて、妻との関係も良い。長男や閣僚は優秀。よってそろそろ隠居したい。
結局、ノルディスが隠居したのはエルトゥールが9歳の時。おまけに、隣国からの密入国問題を解決してくれと息子(新国王)に問題を押し付けられ、辺境で密入国対策や隣国との交渉役などをさせられる始末。
そんなことをしていたら、娘はあっという間に18歳成人。
で、国王は「父上、家族団欒出来たでしょう」と妹エルトゥールを王都へ呼び戻し、婿を与えた。
王族としての教養は与えられたが、のほほんと暮らしていた、溌剌娘のエルトゥールにとって、この結婚は青天の霹靂だった。
さて、マクベス・トラウムは財務官の1人。真面目な努力家で大変優秀。国王期待の新人だ。
背は高いが細くて青白く、落ち窪んだ目に灰色の瞳をしている。くすんだ灰色がかった金髪の癖っ毛で細くてボリュームがない。幼少時から骸骨があだ名である。
仕事には自信を持てるが、異性関係にはまるで自信のない男。
父親は元法務大臣で現在は先代国王の執事だが、周りにあまり知られていなかった。
家督相続予定のない三男は自力で出世だと黙々と官僚を目指し、目標を達成。
宮廷での勤務年数が5年経過し、ようやく1人前の仕事が出来てきたと思った頃に、降って湧いてきた、お姫様との結婚話。
本人も同僚も、その他大勢の者達が驚愕。国王は「妹との結婚祝い」としてマクベスを財務大臣第二秘書官へ出世させた。異例のスピード出世である。それに文句を言わせないための結婚だ、と誰もが察した。
こうしてマクベスはエルトゥールと婚約し、1年後、会ったその日に結婚式を挙げることになった。
さて、エルトゥールはそんなことは全く知らずに懐かしの王都へやってきた。
年に1度会う程度だった懐かしい兄達や義姉、甥っ子姪っ子との再会。
その日会った男との結婚ではあるが、夫になるマクベスについて尋ねれば、両親や兄達の評判は大変良い。
彼女は友人達と回し読みしていた恋愛小説から、身分の高い女性は贅沢の代わりに政治的結婚をするもの、という少々間違った知識を得ていた。
社交場へデビューする前だったので、同年代の異性との付き合いなんてある筈もなく、恋を引き裂かれる悲劇に見舞われることはなかった。
なので、エルトゥールには、自分の意思とは関係ないこの結婚について、とりたてて怒りや不満は特になかった。
更にマクベスを見て『あら、お父上に似てるわ。でもうんと背が高いし、このわし鼻はお母上似ね。へえ、この方が自慢の息子さん。ふふっ、骸骨ごっこを思い出してしまったわ』と親近感を抱いた。
誓いのキスの際には、その行為が初めてというのもあって胸はドキドキと高鳴り、腰に回された手が大きく、背中に感じる腕も予想より筋肉質みたいで逞しいと好感を抱いた。
エルトゥールはそのように、夜になるまでの間に、マクベスへの好感度を徐々に上げていき、これから起こる事に緊張しつつ、父や母のように親しげで楽しそうな夫婦になりたいと期待した。
それなのに、エルトゥールは初夜に手を出されなかった。
「これからよろしくお願いします」
「ええ。朝から疲れましたね。寝ましょう」
「はい」
会話はそれだけ。ひどく不満だった。
しかし「疲れましたね」という台詞の響きが柔らかくて優しかったので、不満を飲み込み、寂しさを押し殺した。
夜明け頃、寒いと思って目を覚ました際に、眠っている様子のマクベスが、布団をかけてそっと抱きしめてくれたのには感激。
その翌日、マクベスは気がついたら隣におらず、その日1日、夫と顔を合わせる事はなかった。そして夜を迎え、彼は新妻の部屋を訪ねては来なかった。
翌日も同じ。その次の日も同じ。3日が経ち、1週間が経過してしまう。
(私が可愛すぎて恥ずかしいのかしら?)
と前向きに考えてはみたものの、半年も経てば「触りたくないほど好みではないらしい」と結論付けるしかなかった。
同じ宮廷に住んでいて書面上は夫婦。しかし、エルトゥールが宮廷内をプラプラ歩いても、滅多に顔を合わせることはない。
廊下で偶然遭遇すれば、挨拶を交わすし、短い世間話もする。主に天気の話だ。というより、天気の話である。
(お好きに恋愛どうぞってことかしら?)
その疑問はエルトゥールを憂うつにさせた。
彼女はおしどり夫婦の両親を見て育ったので、新婚早々他の男性と交流しようという気持ちを抱けなかった。
他の男からの求愛行為は、数が多いのもあってうっとおしく感じるし、与えられる褒め言葉も、的外れな台詞ばかりで愛想笑いするのも一苦労。
そう、男性が虫のように集まってくるのは、エルトゥールにとっては疲れるだけだった。
そもそも処女なのだ。夫と契る前に他の男に貞操を捧げる訳にはいかない。万が一妊娠したらどうなる。
ある程度宮廷内で人脈を築き、女性同士の噂話に花を咲かせていたら、マクベスが出世街道まっしぐらで、自分との結婚が異例出世のために必要な道具だというのを理解した。
夫マクベスにとって、妻エルトゥールは既に役目を終えた存在。
まだ若い彼の欲望や快楽の矛先は、好みの女性へ向かう。
とりたてて夫の恋愛話を耳にすることはなかったが、状況を整理すると自然と結論は出た。
そんな新妻、エルトゥール・トラウム夫人の夜は、恋愛小説で現実逃避をする時間になっている。
今夜はベッドにうつ伏せになり、胸の下に枕を入れて、両手で本を開いて、ムーと唇を尖らせていた。
読んでいる本は宮廷内で流行っている恋愛小説の第2巻。
今読んでいるページは主人公とその婚約者が、政治的策略によって婚約解消となってしまったことを嘆きながら、イチャつくシーン。
(あーあ、キスかあ……。ついばむってどんな感じ? 離れたくない、愛してるって、きゃああああ)
エルトゥールは小説内の登場人物を自分とマクベスの姿で想像し、本をサイドテーブルに置いた。
枕に顔を沈め、パタパタと足を動かす。その後、枕を抱きしめてゴロゴロしだした。
「はい、マクベス様」
仰向けになり、枕を胸に乗せたまま、両腕を天井に伸ばして手を合わせる。
「ずっと手を繋いでいて。お願いです……」
指と指を絡ませると、エルトゥールは祈るようにその手を唇に近づけ、目を瞑り、自分の親指にムチュウとキスをした。
何度か唇をちゅ、ちゅ、ちゅ、と押しつけてみる。冷たくて固いので唇とは全く違う感触だが、それは仕方のないこと。
結婚式での誓いのキスの感触を思い出し、小説の内容を頭の中で映像化して、カバーする。
「んふふ。やあん。マクベスさまあ」
嬌声を上げ、足をパタパタとさせた後、エルトゥールはパタリと動かなくなった。
枕は胸の上に乗ったまま、両手をベッドシーツにだらりと放り投げ、天井を見つめる。
エメラルドにも勝る輝きを放つ宝石のような瞳は消滅。まるで死んだ魚のような目になる。
両手で枕を掴み、目の上に乗せて、大きなため息。
「はあ……虚しい。マクベス様は今夜もきませーん。エルルはずうぅっと乙女。美女は3日で飽きるなんて言うけど違うわ。タイプでなくてそそられませんの方よ……」
深いため息を吐くと、エルトゥールはしばらくジッとしていた。
悲しみの後、苛立ちが彼女を襲う。
「どこのどなたよ! マクベス様の恋人は! ズルいわね!」
エルトゥールは放置されている嫌悪よりも、日々好感を募らせていた。
初日の印象が良くて、耳にする噂は良い仕事振りだとか、兄に好かれていて狩りの付き添いをした際は馬の扱いが巧みだと褒められたとかそういうこと。
エルトゥールはムシャクシャすると、ポイっと枕を扉に向かって投げた。その後、彼女は固まった。
枕を投げた先に、マクベスが立っているのが目に入ったから。
枕は見事、マクベスに命中。それも顔面に。ポトリ、と枕が床の上に落下した。