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百年前の同居人  作者: 境陽月
ふたつの嵐
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親父の本棚

「親父は出張中かよ。緊張して損したぜ」


手土産が無駄になってしまったのが少し悔しいような、ホッとしたような。

赤く腫れた頬をさすりながら私は自分の部屋へ向かいました。

ドアを開けるとき、少しためらいました。

母は何も言いませんでしたが、父のことです。

私の所有物一切合財を処分していたとしてもおかしくありませんでした。

もともと本を山積みしただけの殺風景な部屋でしたが、何もかもなくなった自分の部屋を見るというのは哀しいものです。

まるで自分が死んだような気にさせられる。


「お?」


部屋の中はまった変わりありませんでした。

ベッドはキチンと手入れされ、壁にかかったコートの類も埃をかぶってはいません。

散らかっていた本は整然と並べられ、机も椅子もあの日のままでピカピカに磨かれて。

いますぐにでも使えそうです。


「母さん、掃除してくれてたのか」


今、台所で夕食の準備をしている母の陽気な鼻歌が聞こえてきます。

時々、クシュンクシュンと鼻歌が途切れるのは、涙をふいているせいでしょう。


「こんなことなら……」


こんなことなら、もっと早く顔を出せばよかった。

そう思いかけて私は頭を激しく振りました。

あの頑固者の親父が私を許すはずはありません。

出ていく時に背後から投げつけられた言葉は今、思い出してもつらい。


「お前みたいな出来損ないは息子じゃない」


一次落ちで落選を繰り返した時、執筆に疲れて寝坊してバイト先をクビになった時、あの一言を思い出しました。

親父の蔑むような目を思い出すたびに悔しくて、意地を張り続けました。


「そのおかげなのかもな、とにかくデビューできたのは」


その親父からさっき電話がありました。

母が受話器を取るとただ一言。


「仕事が長引きそうだ。二、三日帰れない」


それだけいうと電話を切ってしまったそうで。

相変わらず無愛想な父でした。

まあ、顔を会わせづらい私としては助かりました。

もちろん父は私が家にいることは知りません。

母にも口止めしておきました。


「それにしても親父もお袋も、俺がデビューしたって知らないのかな?」


新人賞を獲った時にはテレビに映ったし(0.5秒間だけでしたが)、新聞にだって載ったんです(受賞者集合写真の隅っこに)。

前に住んでた安アパートの近所には知れ渡っていたし、知らない人から指差されることもあったのに。

母は一言もその話題には触れません。


「今はプロの物書きしてるよ」


とわざわざこちらから話を振っても。


「あら?そうなの。頑張りなさいね」


で終わってしまいました。


「全然知らないってのもショックだよなぁ。少しは売れてると思ってたのに」


ちょっと落ちこみかけている時でした。

台所から母の声がしたのは。


「ごめんなさい、ちょっと料理の本持ってきてくれないかしら?今、手が離せないの」


はて、料理自慢の母はレシピを頭に入れてから調理にかかるはずなんですが。

初めての料理を作る気なのでしょうか?


「ああ、いいよ。どこにあるんだい?」

「父さんの書斎に置き忘れてしまったのよ。お願いね」


「親父の……書斎?」


私の部屋の向かいにある扉、子供の頃は『絶対に入るな』と命じられた部屋でした。

好奇心からこっそり覗いてみたら、机がひとつと本棚ばかり。

並んでいる本はどれもこれも、当時小学生だった私には題名も読めないような経済や経営、法律の本ばかりでした。

つい出来心で二、三冊本を取り出そうとして一列丸ごと本をひっくり返しました。

父にばれないようにと慌てて直したのですが、題名も読めなかったのですから配列は滅茶苦茶。

ばれないはずもなく、夕飯前に椅子に座らせられ、不機嫌な父の顔を前にビクビクしていました。

震える私に父がそっと手を差し出してきました。


(ひっぱたかれる!)


そう思った私は身をすくめ、目をつむって縮こまってしまいました。

しかし父の痛ぁーい平手打ちは来ませんでした。

代わりに目の前に一冊の本が置かれていました。

宇宙を舞台に科学者の主人公が大活躍するお話で、とても有名な作家の本でした。

そして父は叱りもせずに、ただこういったのです。


「本に興味を持つのはよいことだ。しかしお前にあの本棚の本はまだ早い。そこから始めなさい」


私は驚きました。

父が怒らなかったことよりも、こんな本を薦めたことに驚いたのです。

父のことだから『漫画ばかり読むな』とかいって難しい勉強の本を押しつけてくるのが普通でしたから。

そして私はその日からその本を読み始めました。

最初は(読まなきゃ父さんに怒られる!)と思ったから。

二回目は主人公のお付のロボットがとってもひょうきんな奴で気に入ったから。

三回目は……気がつくと本の背表紙が擦り切れるまで何度も何度も読み返していました。

以来、私は自分から学校の図書室へ通うようになり、町の図書館に一人で行くようになりました。

そしていつのまにか小説家になる夢を抱いていました。


「なんだよ!結局、親父のせいじゃないか。俺が物書き目指したのは」


あの本のことは今まですっかり忘れていました。

でも思い出したとたんに、なんだか腹が立ってきました。

物語好きになるきっかけを与えてくれた父が、物語を書くことに反対したのが気に食わなかった。


「それなら賛成してくれてもよかったじゃないか……」

「まだなの?早く持ってきてちょうだい」


「あ?ああ、わかったよ。すぐ持ってく」


催促されて私は自分の部屋を出ました。

書斎の前でゴクリと息を呑み、扉を開けるのをためらいました。

父が不在なのはわかっています。

それでも。


「それでも、なんだか中で親父が待ち構えてるような気がするんだよな」


フーッと大きく息を吐いてから、気合を入れなおし、私は扉を開けました。

キキッと軽い軋みを上げて開いた薄暗い部屋の中に、いくつもの本棚と幼い頃の記憶と同じ机と椅子。


「全然変わってないな。お、この本棚の本は」


電灯を点けた時目に入ったのは、初めてこの書斎に入った時にひっくり返したあの本棚でした。

整然と並べられた本もあの日と全く同じでした。

歳月を経て幾分表紙が古び、机も椅子も小さな傷が増えていましたが、それでもこの部屋の中は時が止まっていたかのようです。

私は机に近づき、そこに置かれている読みかけの本を手に取りました。

『経営学序説』『海外資本の潮流』『投資マガジン』……


「親父のやつ、相変わらず小難しい本ばっかり読んでるんだな。さて、どこに料理本なんかあるんだ?」


見まわした時に部屋の隅にある本棚が目に入りました。

他の本棚が黒い重厚な木目調の造りになっているのに対して、それだけは白塗りで、暗い室内で純白の輝きを放っていました。

それだけにひどく浮いている感じでしたし、そもそも父の趣味には合いそうにないデザインでした。


「あんな本棚あったけ?それに妙だな」


妙だ、というのはその本棚、空っぽに近いのです。

どの本棚も本で一杯で棚に収まり切らなかった書籍があちこちに積み上げられているのに。

その本棚はハードカバー本が一冊と雑誌が五、六冊だけ。

質素倹約がモットーの父がこんな無駄なことをするとは考えられません。


「何の本だろう?新しく趣味でも始めたの……」


本棚の前に立った時、私はポカンと口を開けて馬鹿みたいに突っ立ってました。

見覚えのある背表紙だな、と思ってはいたのですが。


「お、俺の本!」

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