久々の独りぼっち
「おい、若造。わしゃそろそろ畑に……」
いいかけて、じいさんは止まったそうです。
喧嘩の翌朝も、太陽が昇るか昇らないかの薄暗い時間にじいさんは畑に出ようとしていました。
毎朝、パンとチーズとコーヒーだけの質素な朝食を済ませてから外へ出るのです。
特に夏場は気温が上がる前に一仕事も二仕事も片付けねばなりません。
出かける前に私に一声かけていくのが日課でした。
いつもなら私が寝ぼけた返事を返すか、あるいは徹夜明けの疲れきった返事を返します。
でも、その日は何の返事もありません。
いえ、別に昨夜の一件ですねていたわけではありませんよ。
「……あ、そうじゃった。今日は打ち合わせとやらで一日出かけとるとか、ゆうておったな。それにしても」
ゴソゴソと身支度を整えながらブツブツ愚痴をこぼしていたそうです。
「……それにしても夕べは、わしも言いすぎたかのぅ。今まで家族の話には、できるだけ触れんようにしてきたのになァ……」
この時はじいさんも相当に落ちこんでいたそうです。
娘さんのことで感情的になりすぎていたのが、一晩たってようやく頭が冷えてきたところでした。
しかし謝ろうにも私は既に出かけていました。
「いや、気持ちはわからんでもなかったんじゃぞ。確かに家を出てまで念願の小説家になったんじゃ。もう一旗も二旗も上げにゃあ親父さんの前に顔も出せんじゃろうなぁ」
フゥゥーッと深ぁいため息をひとつ。
「しかしなぁ、お前さんも悪かったんじゃぞ。馬鹿娘の口車に乗せられおって。これじゃまるでわしが頑固でひねくれとるから、娘を困らせとるみたいじゃぁないか!」
事実そのとおりでしょうが!とつっこもうにも私は外出中。
寂しく相方のいない漫才を続けるしかなかったようです。
「まったく阿呆な若造じゃ。わしの気持ちなんぞこれっぽちもわかっとらん。こんなに人の気持ちもわからんでは三流とはいえ、よく小説家なんぞやっとれるわい、百年後の文壇の未来も暗いのぅ」
私の耳には届かないと思って散々悪口叩いてたみたいです。
そのへんを後で追求したらボケ老人のふりをして必死にごまかそうとしてました。
「しかし困ったのぉ。今夜は『曲名のない演奏会・バッハへの挑戦』があるというのに」
この時は聞けそうになくなったテレビ番組に未練タラタラだったそうです。
って少しは遠慮して欲しいものです。
捨てられてたの拾ってきたとはいえ、私のテレビなんだぞ……。
「ちゃんと『びでおでっき』とやらに『録画』とかいうのをしてくれているんじゃろか?そもそも操作はちゃんと覚えたのか?この間はチャンネル間違えたとか泣き喚いておったし。そもそも」
次の一言がじいさんの人生で今までで一番心細い声をしていたんだろうと思います。
直接には聞けなかったのが残念ですね。
「……帰ってきてくれるんじゃろか」
ギィ。
玄関を開けると吹き込んできた風が、不安を象徴するかのよう、にヒュゥゥゥッと鳴りました。
「むむっ、風が出てきおったな。そう言えばあさってあたりから……」
じいさんには数週間分のお天気の記録を伝えてありました。
気象台の古い記録を資料に使うから、と頼んでコピーしてもらったのです。
実際に起きた天候の変化なのですから的中率は百パーセント、当時のカンと経験頼みの天気『予想』などとは比べ物になりません。
「あさってからは嵐か。村の衆にも伝えておかねばならんな。それに窓と屋根も点検して。葡萄の添え木も補強しとかねばならん。とくにあの木は……」
バタン。
玄関の戸を閉める音を残して、足音が家の裏手に向かって気ぜわしく駆けていきました。