嵐の予兆
「ルンルン、ルルルン、ルン、ラララララ」
今日は一段と上機嫌な鼻歌が虚空から聞こえてきます。
『大洋に燃えろ・ボス、夕日に散る?(後編)』
海に転落死したと思われていたボスが部下のピンチにあらわれるシーンで拍手していたくらいですから、そりゃご機嫌なものです。
「いやぁ、やっぱり役者が違うのぉ。これぞ男の中の男じゃわい」
「そうかぁ?俺は安直な演出だと思うけど」
「フフフッ…………お前さんも二十年ばかり修行すりゃわかるじゃろうて」
一体何の修行をしろというのでしょう?
刑事物よろしく、アクションスターの真似事でもやれというのでしょうか。
一瞬、頭の中に波止場で夕日を背負ってポーズを決める自分の姿が浮かびかけ、慌てて頭の中に消しゴムをかけました。
そもそも今日は大事な話があるのです。
「じいさん、ちょっと」
「ん、なんじゃい」
「大事な話があるんだ」
とたんに重い空気が場を支配しました。
私の声の重苦しい口調に、じいさんもただならぬ気配を感じたのでしょう。
「若造。まさか……」
じいさんの声も自然と重くなっていました。
これからしようとしている話を、うすうす感づいているのかもしれません。
「やっぱり……アレの話か?」
「そんなところだ」
やはり気づいていたようです。
哀しそうな、そしてつらそうなじいさんの声に私はうなずきました。
「つまり、例の『招かれざる客』がきたということか」
「やっぱり、わかっちまったか」
私は苦笑しました。
話をどう切り出すべきか考えあぐねていたのですが、その心配はなかったようです。
「そうか、奴がついに来おったか」
「ああ、まさか今日来るとは俺も思ってなかったよ」
「お前さんにゃ、さぞつらかったろうな」
「いや、そんなことは…………ないよ」
娘さんの一件はあれ以来禁句になっていました。
お互いに話題に触れないよう気を使ってばかりでよそよそしくなっていました。
「気持ちはわかるぞ、若いの。そりゃ言い出しにくいわな。そう言えば飯食ってるときもお前さん、様子が変じゃったの。そうとも知らずに『てれび』に夢中になっとったとは、ワシも無神経じゃった、すまん」
「いや、謝られるほどのことじゃない。気にしないでくれ」
普段憎まれ口ばかり叩いてるじいさんがこうもしおらしいと、こっちも調子が狂いました。それにしても…………
「それにしてもじいさんもそういう優しい言い方ができるんだな。驚いたよ」
「お前、わしのこと人でなしか、悪魔と思っとりゃせんか?」
「とんでもない!貴方のような清く正しく心優しいクソジジィはいませんよ」
「ケッ、どっちがじゃ……まあ今日のところは許してやる」
似合わない気遣いを見せるじいさんに、私は苦笑しながらも少し気が重くなりました。
最終的にじいさんが嫌な思いをするかもしれないのですから。
本題に入るべく私は気合を入れて言葉を出しかけました。
「それでだな、じいさん」
「まあ、そう気を落とすな」
「…………?」
「人生、うまくいかん時だってある。わしも若い頃はそんな時期があった」
「…………えっ?」
「よく言うじゃないか『若いうちの苦労は買ってでもしろ』とか」
「あ、あのぉ、ちょっと、じいさん?」
「こういうつらい経験がいい肥やしになるんじゃ。次を頑張ればいいじゃないか」
なんだかじいさんのいってることが変です。
まるで私の身に災難でもあったみたいな。
「じいさん、一体何いってるんだ?」
「せっかくの連載が打ち切りとは不運じゃったのう。モデルになったわしとしても残念でならんわい」
「おいおい、打ち切りって……」
「今じゃからいうが、アレの出来は良かったと思うぞ。葡萄畑で若き日のわしがばあさんと出会うシーンなんぞ、つい涙が浮かんだわい。よっぽど出版社に見る目がなかったんじゃろう」
「いや、だからどうしてあの連載小説の話になるんだよ!しかも打ち切りって」
「……ちがうのか?わしゃぁまた、連載が不人気で打ち切りくらって失業したのかと」
「とんでもない!打ち切りどころか六話完結のところを好評につき十話に延長、年末には単行本にしてくれるって。今日電話があったんだ。明日はその件で担当さんと打ち合わせ兼祝賀会なんだ」
「……そうなんか?」
「ああ、しかもそれだけじゃない。新聞社連盟主催の文芸大賞に出品されそうなんだ。百二十年の歴史のある賞だからじいさんでも知ってるかな」
「新聞社連盟主催の……おお、それなら聞いたことはあるぞ。あれに出るのか!」
「出るんだよ!」
「やったじゃないか、若造!」
歓喜の声と盛大な(ただし一人分の)拍手が無人の空間から巻き起こりました。
「で、発表はいつじゃ?未来でも今と同じで年明け早々か?」
「現代じゃ発表は春先になってるよ。まあ、佳作にでもひっかかってくれたらいいんだけどね」
さすがにデビューしたての新人がトップを取れるような甘い賞ではありません。
それでも入賞できれば世間の目が違ってきます。
当時の私はヒットを一発当てただけの流行作家にすぎませんでした。
大賞、優秀賞、佳作とあるうちの末席にでも残ってくれれば、そう思っていました。
「何をいっとるか!狙いは大賞あるのみじゃ!心配ない、モデルのわしが保証したるわい」
「それが一番の不安材料なんだけど……」
「……なんぞほざいたか、若造?」
聞こえないよう小声でつぶやいたつもりだったんですが、予想を越える地獄耳でした。
「い、いや、なんでもない。とにかくがんばるよ。それより最初の話なんだけど」
「あ?ああ、客がきたとかいう話じゃったか?出版社でないなら借金取りか。ついに年貢の納め時じゃなぁ」
「ああ、まったく『返せ返せ』としつこい奴で……違う!俺に借金なんか……少ししかない」
……情けない反論です、我ながら。いやその、資料の録画のためにビデオデッキ買ったら食費足りなくなっちゃって。
友人から少し……でも、ちゃんと返しましたよ!
すぐに、ではなかったですが。
「あのな、客ってのは俺にじゃない!じいさん、あんたに、だよ」
「わしに?」
とたんに饒舌だったじいさんが黙りこみました。
客というからには顔見知りの村人のはずはない。
村の外からわざわざじいさんを訪ねてくる人物は一人しかいないのです。
しばらくの沈黙のあと抑揚のない低い声が静かに聞こえてきました。
「そうか、アレが……娘がまた来たのか」
一気にテンションが下がった声で、じいさんはボソボソとつぶやいていました。
感情が感じられないと思えたその声。
その裏に隠された本当の感情。
情けないことにそれが、その頃の私にはひとつもわかっていなかった。