6th remorse
唇には確かに暖かくて柔らかい、瀬尾さんの唇だった。
何が起きているのか理解できていない顔をしている。
それはそうか、キスした俺にだって何でかは分からないのに。
一陣風が吹いて栗色の髪が俺の頬をくすぐる。
ゆっくりと舌を口の中へ這わせる。
「ふ、っん!」
瀬尾さんはようやく思考を取り戻したらしく顔を遠ざけようとする。
でも、何か気に入らない!
まるで、浩介への罪悪感を負っているみたいに俺には感じられた。
そのことに胸が痛く、苦しくなった。
だから両手を押さえ込んで、頭を押さえつけた。
顔に怯えの色が現れて、目尻に涙が溜まっている。
俺は嗜虐心を煽られて、口の更に奥を犯し続ける。
俺の舌を追い返そうとする瀬尾さんのそれを更に犯す。
息が出来ないらしくぐったりとしてきた口を放してしまった。
「瀬尾 星夜、浩介と付き合わせてやろうか?」
ぬかるみの様な瞳に光が差していくように光った。
っつ!犯されかけていたことも忘れるくらいに、そんなに嬉しいのかよ!
「俺がそうさせてやろうか?」
止めろ!
止めろ、やめろ、やメろ、ヤメロッ!
そんな眼をするな!
怯えろよ!!そんな期待を込めた目をするな!
「なら、俺が叶えてやるよ、お前の願いを…。」
止めろ!
口にするな!
スルナ!!
ヤメテ…
「俺が浩介と付き合わせてやるよ。」
何がしたいんだよ、俺は!!
「お前に選択権なんて無い。お前は俺の、俺様の……奴隷だ。」
―――公園内―――
「それで、あんたは私にそのことを伝えて何がしたいの?」
グゥで殴られて地面に転がっている俺に、アカネは殴った右手をプラプラさせながら、呆れた声をしながら溜め息をついてからベンチに腰を下ろした。
俺は何も答えることが出来ずに雲に隠されてしまった三日月を眺めていた。
「ったくもう!あんたはいつになったらその逆走癖を直せるようになるのよ…。」
そんなこと俺に聞くなよ。俺だって直せるなら直したいさ。
「はぁ。あかりに元気がないと思ったらあんたが原因か。それもまた面倒なことを…。」
なんとなく顔の合わせにくく、横にずらした。
「それであんたはこれからどうするつもりなの?言ったことを実行するの、しないの?」
「するに決まってるだろ。自分で言ったんだからしないわけないだろ。」
もう、元通りにすることなんて出来ないに分かっている。
答えるとまた溜め息を漏らして、ベンチから俺の真上に立っている。
「じゃあもう一つ聞くけど、あんたはあかりと浩介を付き合わせたいの?」
そんなわけない。
本当は俺が付き合いたいさ。
でも、付き合わせてやるって言った時の顔を思い出したらそんなこと言えるかよ…
「あんた、高校一年生から全く成長してないわね。あれだけ傷付けて、傷付いて、泣いて、泣かせて、死にそうになって、殺しそうになって、まだ大人になれてないんだ。」
高校一年生、という言葉が出てきて俺は苦い思いになった。
多分アカネも俺と同じような顔をしているんだろうな。
「自分にだって辛い記憶ならいちいち口にしなければいいのに…。お前、馬鹿だろ。」
「…そうかもしれない。でも、あんたがそんなに辛そうな顔してるから仕方ないでしょ。」
「はぁ。…結局俺もお前も、大バカヤロウってことだけは確かだよな。」
アカネは何も言わずに夜空を見上げて、なにかを考えているようだった。
そっとアカネが手を差し伸べてきた。
「よかったら胸貸してあげるけどどうする?」
「怜次に殺されそうだから止めとくわ。もう少しここに居るわ。
それよりも早く帰れよ。日が明るいからって一応は六時過ぎてるんだし。」
「私の胸は時価だから次あんたが貸してくれって言った時は一億じゃ済まないんだから。」
俺たちはそれからしばらく馬鹿みたいなことを話していた。
そしてポーチを持って出て行くアカネを見守ってから眼を瞑った。
「本当に何してるんだよ、俺は…。こんな、ガキみたいなみっともないことして、アカネを泣かせて、苦しませて…。…でもさぁ、全部お前が悪いんだぞ。」
浩介。
なんで俺はお前と友達になってしまったんだろうな?
そうじゃなかったら、無理矢理奪って、お前の傷口をえぐり返して、お前の苦しみを平気で笑ってやって、殴って、もしかしたらお前を壊せたかもしれないのに。
「……だからさ、今日だけはお前の友達辞めることにするわ。
許してくれ、なんて言わないぞ?今のお前は俺の恋敵のうちの一人なんだからさ。」
浩介のバカヤロウ。
瀬尾さんもごめん。明日になったら君の幸せを願うから…
だから、今だけは、自分のことだけを考えさせて。
「この罪悪感を忘れさせて…。せめて今だけは…。」
「もしかして、変体なオオカミさんですか?」
しばらく夜風に当たっているとそんな声をかけられてしまった。
うん。俺のことをこんな風に言うのは一人しか俺は知らないな。
「鈴音ちゃん。今の時間帯にそういう言葉を使われるととっても不味いんだけどな。」
振り返ると買い物袋を両手で持った鈴音ちゃんがニッコリと微笑んでいた。
「それは仕方の無いことですよ。だって修介さんが私の身体をもてあそんだことには変わりが無いのですから。
お兄ちゃんにチクられていないだけでも感謝してください。」
「それもそうだな。それよりもこんな時間に一人で歩いていたら危ないぞ。」
「そうですね。目の前にはエッチなオオカミさんもいるみたいですしね。」
うん。
もう諦めた方がよさそうだな。
分が悪過ぎる。
「で、その怜次はどうしたの?このくらいの時間だと買い物についていくはずなのに?」
シスコンなあいつにしては珍しいこともあったもんだな。
「お兄ちゃんはなんでも新しく契約する会社の人とお食事だそうですよ?誰かさんが役に立たないってとっても恨めしそうに呟いていましたけど、誰のことか分かりますか?」
知ってて言ってるくせに…。
最近どうも俺に対して扱いがひどくなってきた気がする。
それが十日ほど前にさかのぼるのでまぁ仕方ない、と諦めてしまった。
流石怜次と血が同じなのだな、と改めさせられるような空気を放つようになった。
ほんわかしていると思っていれば今のようにからかうような視線をくぐらせてくる。
「もしかしてさぁ。鈴音ちゃんにも好きな人とか気になる人とか出来たのかな?」
そう聞いてみると顔を赤くして『はわわ…。』と硬くなり、まだまだ子供だなと思わせる。
俺が笑うとからかわれたことに気付いたらしく頬を膨らませて上目遣いで睨むが効果なし。
多分年上だな。
学校の先輩か、それとも学校の先生とかその辺りか。
鈴音ちゃんの好きな人のイメージを固めていると肩を叩かれた。
「さっきから何を考えているんですか?女の子が目の前にいるのに黙ったままで。」
「ん?あぁ。鈴音ちゃんに想われている幸せモノのイメージを考えてたんだよ。」
そう言ってから鈴音ちゃんの手に合った買い物袋を奪ってから公園を出た。
うん、鈴音ちゃんと話してたら元気出てきた。
流石、怜次の妹だ。
ようやく追いついた鈴音ちゃんに歩く速度を合わせながら歩いた。
あぁ!!
そういえば今日はお袋も親父も仕事の用事で家にいないんだった。
「修介さん。さっき言ってたわ、私の好きな人のイメージってどんな風なんですか?」
素直に言ってもいいけどたまには大人の尊厳を守らないとな。
「言ってもいいけど、一緒に飯でも食べに行こうぜ。今日は両親がいないんだ。」
そういうと頭を抱えながら悩んでいる。
そんなに聞きたいのかな?それとも俺と飯を食うのが嫌なだけとか?
もしそうならかなりへこむな、それ。
そんな風に考えていると結論付いたらしく『決めました!』と気の入った声が聞こえた。
「わかりました、いいですよ。でも先に言ってくださいね。」
おーおー。聴いたら逃げる気満々だな、こりゃ。
「あのさー。別に逃げようとしてくれるのは構わないけどさぁ。俺が買い物袋を持っていること分かっていて逃げようとしてる?」
ようやくそれに気付いたらしい鈴音ちゃんが『買ったもの返してください。』と言ってきたけど大人な俺は綺麗にスルーして口を開いた。
「俺のイメージだとまずは年上かな。でも子供っぽいところがあって、背は高い方かな。」
驚いた顔をしている鈴音ちゃんの反応を見た感じではそれなりにあたっているんだろうな。
うん。
俺の第六感も捨てたもんじゃないな。
そんなことを考えている間にうちのコインロッカーに鈴音ちゃんの荷物を突っ込んだ。
そしてそれからファミレスを目指して鈴音ちゃんと歩きながら向かった。
『いらっしゃいませー。何名さまでしょうか。おタバコはお吸いになられますかー。』というウエイトレスのお決まり文句に答えてから席に座ると思いっきり睨まれてしまった。
あの、そろそろ睨むの止めてくれませんか?注文取りにきた店員さんが蒼くなってるから。
「絶対にお兄ちゃんが帰ってきたら今日合ったこと告げ口しますから。」
「俺が悪かったんでそれだけは本当に勘弁してください!お願いします!」
靴を履いた状態のまま、イスの上に土下座をする俺。
それを見ている鈴音ちゃんの笑顔がキレたときの怜次にそっくりでぞくりとした。
これから鈴音ちゃんをからかうのは程ほどにしておこう。
じゃないと消されそうだ…。
呼び出しボタンを押すと『ピンポーン。』と若干イントネーションのずれた音がしてから二十秒ほど経つとさっきとは違う人がリモコンモドキを片手に殴りかかってきた。
「莉菜ちゃん。一応俺はお客さんなんですけど?
それともこのレストランでは客は注文を受けるときにパンチを受ける、みたいなサービスでもあるんでしょうかね?」
「ではご注文をお伺いいたします。なお野郎の注文はお手洗いで受け付けております。」
そう言って指差したのは駅の公衆トイレだった。
そんなに俺のことが気に入らないのでしょうかね、このお嬢様は。
「まぁそんなことどうでもいいけどね。それよりもちゃんと仕事はしてくれよな。
トリプルハンバーグライス修介特別ライスアンドスープのセットで。海鮮ドリアとフライドポテト。それからドリンクバー二つ。
俺はトイレに行ってくるけど仕事サボるなよ、若人君。」
そう言って手を洗いに行くと二人が何かを話しているのが見えた。
う〜ん。莉菜ちゃんは俺のことが嫌いみたいだけどなにかしたっけかな?
美代子ちゃんは普通に仲良くしてくれるのになぁ〜。
一抹の疑問を残しつつもドリンクバーでメロンソーダとアイスティーを入れてからガムシロップとミルクを数個掴んで何もしないまま、ただ座っている鈴音ちゃんの元へ帰った。
「修介さんは酷い人です。勝手に注文しておいて勝手に飲み物を入れてきて、鬼です。」
「あーはいはい。どうせ俺は鬼で鬼畜ですよ。ならさっき頼んだ注文キャンセルする?」
聞くと『仕方ないから修介さんの注文したものでいいです。』とそっぽを向きながらガムシロップとミルクを入れてから黙って飲み始めた。
俺は鈴音ちゃんが怒っていないことを知っている。
だって顔が普通に笑顔だし、昔からこの店に来たら頼むものって言ったらドリアだしな。
アイスティーがなくなると『そういえば。』と呟いたので顔を向ける。
「そういえば修介特別って言っていましたけど何なんですか、それ?」
グラスをカラカラと鳴らしながら好奇の目が俺を貫く。それはもうマシンガンの如く。
「あぁ、ここの店をやっているのが俺の後輩なんだよ。
詳しく言うならそいつの親父さんなんだけど還暦を迎えたからってまぁ、そいつがオーナーになったわけ。
それで俺が頼んで簡単に言うと裏メニューを作ってもらったわけ。
実物は見てのお楽しみってことで。」
う〜ん。
鈴音ちゃんの驚いた顔が眼に浮かぶな。
俺が現物を思い出しながら笑っていると気色悪いものを見る眼で見られてしまった。
しばらく雑談しているとボーイが『失礼します。』と言って例のものをテーブルに置いた。
「………修介さん。…この九段重ねのハンバーグの塊は一体なんなのですか?」
心外なものを見る眼で鈴音ちゃんに睨まれてしまった。
そんな眼をしなくても言いと思うんだけどな?
結構その眼で見られると人として辛いよ?
まぁそれもしばらく経つにつれて段々と穏やかになっていき、半分を食べ終えた頃になるといつもどおりの柔らかい視線に戻っていった。
「修介さんが何について悩んでいるかはわかりません。
でも、一人で溜め込んで、一人で悩みを抱えて、一人で解決できるほど修介さんは強い人間ではないことを覚えていてください。
独りの人間なんて何も出来ない独りよがりの弱虫なんですから。」
突然だった。
俺がハンバーグに添えてあったニンジンを食べ終えて、鈴音ちゃんがドリアに入っていた最後のエビを食べ終わったときに前置きもなく、確かにそう言った。
俺は瞳孔が開いていく奇妙な感覚に背を走らせながら鈴音ちゃんに見詰められている。
俺は眼を逸らして何も入っていないグラスの氷を覗き込んでいた。
そうだ、これは怜次が俺を咎めるときと同じ眼だ
逃れているのに氷に鈴音ちゃんの眼光が照らされて、見上げてくる。
「俺には鈴音ちゃんが何を言ってるのか良く分からないな。どういうことかな?」
こんな言葉が意味を持っていないことなんて俺にだって容易に理解できる。
でも使わずに入られなかった。
あまりにも冷たすぎるから。
『ふふふ。』と鈴音ちゃんが笑った。
思わず眼を見ると呆れていた。
「大人の人がそんなことをしちゃダメです。男の子が背けちゃダメです。」
何も言い返せなかった。
それに気にした様子もなくさらに『それでも。』と続けた。
「背けたくなったときは私が抱き締めてあげます。少しだけ休ませてあげます。」
そう言って鈴音ちゃんは悲しげな瞳を揺らしながら俺を据えた。
そうなんだ。
鈴音ちゃんは俺が何をしたか分かっているんだ。
誰かから聞いたなんて分からないし推測に入る人なんてどうでもいい。
そんなことなんかには少しも意味なんてないんだ。
俺はジンジャーエールの入ったグラスを傾けてそれを流し込んだ。
口のジンジャーエールは喉を過ぎて仄かな苦味だけを残していった。
瞳を閉じてから息を吸い込んだ。
ジンジャーの香りが口の中に戻ってきた。
それを噛み締めてから一度呼吸を止めてゆっくりと前を見た。
「今はまだ大丈夫だよ。これからもう少し自分の力で何とかしてみるよ。
がんばってやれるだけのことをやってみる。でも、どうしても耐えられなくなったら鈴音ちゃんに言うよ。」
鈴音ちゃんは一瞬なにかを考える素振りをしてから微笑んだ。
そしてウエイトレスの持ってきたイチゴとチョコの双塔を見てもう一度笑った。
―――自宅にて―――
あのあとパフェを啄ばんでいる鈴音ちゃんの姿に癒されながらのんびりと時間を過ごした。
コインロッカーに押し込まれていた荷物共々鈴音ちゃんを送り届けてから自分の家に帰ってきて、シャワーを浴びることもなく自室のベッドで暗闇に包まれていた。
「鈴音ちゃんありがとう。ようやく自分に決心がついたよ。」
いない鈴音ちゃんに礼を言ってから左肩を擦った。
引き出しから小瓶を取り出して左手で握り締める。
上半身を起こして左手にある小瓶をもう一度力の限り握り締めた。
「っつ!」
俺の力に耐え切れなくなってガラスが砕けて血と一緒に砂が布団の上に堕ちて往った。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫。」
自分に言い聞かせながら時計に眼をやった。
日付が変わるまであと三分と十秒足らず、か。
俺はその間自分の心の中で叫び続けた。
「瀬尾さん、俺は君のことがこれからもずっと好きだ。」
『ピッ!』と言って日は過ぎて俺はベッドに倒れこんだ。
意識を失う前に、月光に照らされていた手のひらには砂と血が黒く、赤く輝いていた。
さようなら、俺の想い…。