04:おいしい誘惑
「感慨無量です」
「旅は始まったばかりなんだが」
「世界に旅立ったかいがありました」
「まだスレダリアの海域だけど」
感動するステラの言葉に、オーランドが楽しそうに返す。
二人の前には白身魚のムニエル。こんがりと焼け目のついた皮はパリパリと剥がれ、中は軽く突いただけでほろほろと解けていく。白身はバターで焼かれて色がつき滴りで輝いており、中央にはバター醤油というソースが掛かっている。薄切りにされたレモンが添えられて鮮やかだ。
白身魚の身だけを食べればバターの甘さが、ソースを絡めて食べれば醤油のしょっぱさが、それぞれ味を引き立たせている。レモンを絞ればどちらにもさっぱりとした風味が加わり、また違った味を見せる。
「ムニエルはスレダリアでも食べられますが、このバター醤油というソースは初めて食べました。異国にはお醤油というソースがあるんですよね」
「前に本で読んだが、たしか大豆から作られるらしい」
「大豆……お豆ですか。なんだか想像出来ませんね」
不思議、と呟きつつ、次いでパクリと一口食べて「美味しい」と呟く。
確かにバター醤油は不思議だ。しょっぱさと独特な香りがあり、どこか甘く、そしてレモンを絞ればこれもまた美味しい。もとが大豆というのだからより謎は深まるばかり。
だが謎と同時に食べれば食べるほど旨みも深まっていく。
つまり美味しいのだ。美味しさの前では、不思議も謎もさしたるものではない。
「味が濃くて食欲が進みますね。ムニエルもホロホロ溶けて美味しいです。こんなに美味しいものを、まさか海の上で食べているなんて自分でも信じられません」
「確かに不思議な感じがするな。だが海の上でこれほどの料理となると、どこかに大きな厨房や食材の倉庫があるんだろうか」
セントレイア号は世界を旅する客船だ。今日はスレダリアに停泊したが、時には数日どこの陸地にも着かずひたすら海の上を進むこともある。
それでも料理の量もクオリティも落ちないというのだから、相当立派な厨房と腕前のシェフがいるのだろう。食材の保管だってかなりの場所を要するはずだ。客室数でさえ一等のホテルの比ではないというのに……。
想像の域を超えたセントレイア号の巨大さに、ステラが思わず室内を見回してしまう。
「端から端まで、船内をお散歩するだけでかなりの運動になりますね。食べ過ぎてしまったらお散歩することにしましょう」
「船内にはティーサロンや、軽食を売っているお店もあるらしい。バーもあるって船員が言ってたな」
「お散歩中にも誘惑が……!」
食べ過ぎ解消のために散歩をしていたというのに、ティーサロンにふらりと入り、ショップで軽食を買い、夜はバーに引き寄せられ……。
これでは食べ過ぎ解消になどなるわけがない。
誘惑に負ける自分の姿が容易に想像でき、ステラが己の食いしん坊精神をふるふると首を振って追い払う。
だというのに、そんな苦悶するステラを他所にオーランドは食後にティーサロンに行ってみようと誘ってくるのだ。夕食を食べ、そのうえティーサロン……。
なんて甘い誘惑だろうか。
「私にとって、ぼっちゃまが一番の危険な誘惑ですね。私がここまで食いしん坊になったのもぼっちゃまのせいです」
「俺のせい?」
「そうです。ぼっちゃまがいつも私を誘ってくださるから、私はすくすくと食いしん坊に育ってしまったんです」
「なるほど、俺のせいか。なら夕食後にティーサロンに行ってしまうのも俺のせいだな」
「はい、ぼっちゃまのせいです」
きっぱりとステラが結論付け、また一口ムニエルを食べた。
自分自身とんでもない話だと分かっている。責任転嫁も良いところ、名家ガードナー家の嫡男に「食いしん坊になったのは貴方のせいだ」などと、無礼どころか鼻で笑われて一蹴されそうなもの。
だがオーランドはステラの話を楽しそうに聞き、それどころか「俺のせいだな」と嬉しそうに笑っている。目を細め、まるで子供の無茶な言い分を聞いているような微笑ましさではないか。
それが妙に気恥しく思え、ステラは「少しは否定してください」と無茶を言いつつ、また一口ムニエルを食べて誤魔化すようにそっぽを向いた。
周囲は華やかに飾られ、生演奏が披露されている。客船らしいムードを漂わせているというのに、なんとも雰囲気とかけ離れた会話ではないか。
だが案外にどこも同じなようで、ディナーだけありどの席も酒が入っているからか、誰もが饒舌に食事とお喋りを楽しんでいる。生演奏を聞いて居る者がいるのかどうかという程だ。
(もっとお堅い食事になるかと思ったけれど、良かった)
ステラが周囲を見回して安堵する。
なにせ今までガードナー家の食堂が常だったのだ。時にはメイド仲間や友人達と奮発してレストランに行きもしたが、程度は知れている。
こんな上流階級の客船のレストランで、静まった中で優雅に食事……となったら、緊張してせっかくの食事の味も分からなかったかもしれない。
それを話すステラに、オーランドが「ステラは大袈裟だな」と苦笑を浮かべた。余裕を感じさせる表情である。
だが事実余裕なのだ。なにせ彼はガードナー家の嫡男。どれだけ静かなレストランと言えども、緊張することなく銀食器を優雅に操ることが出来るのだ。むしろ格調高い食事が常だったのだから、ステラの気持ちは分かるまい。
そう拗ねつつ訴えれば、オーランドが苦笑を漏らした。
「俺だって格調高い食事ばかりじゃ嫌気がさす。家族や友人達とは賑やかに食事をするさ」
「そうですね。特にご友人との食事の際は、騒ぎすぎてメイド長に窘められてますものね」
「どうにもうちのメイド長には俺も友人達も頭が上がらなくてな……。だけど賑やかに食事をするのは誰だって好きだろ? 大人数で楽しく、一日のことを話しながら食べるんだ。まるで家族のように……」
言いかけ、オーランドがカチャリと食器を置いた。
真剣な瞳でステラを見つめてくる。彼の視線に、ステラがどうしたのかと首を傾げた。
いったい何を言いたいのか、言い淀む彼を見つめつつ考えを巡らせる。
確かに賑やかな食事は好きだ。
朝は一日の予定を話し、昼は今までとこれからの予定を話し、そして夜は一日にあった事と明日の予定を話す。その最中あちこちに話題が脱線するが、それがまた盛り上がりに拍車を掛ける。
その光景はまるで大家族。どんな新人であれ、食堂で食事をすれば皆と打ち解けられるのだ。
そして賑やかさがあるからこそ、胸が弾み、そして食器を操る手もまた活発になってしまう。その結果ついつい食べ過ぎてしまう。
そこまで考え、ステラがはっと息を呑んだ。それとほぼ同時にオーランドがステラを呼ぶ。
「ステラ、これからも俺と食事を、これからは俺と家族として食事を……!」
「格調高い食事! 静かで厳かな食事なら、私も緊張して食が進まず痩せられるかもしれません!」
これだわ! とステラが名案を思い付いたと表情を明るくさせる。
格式ばった静かな食事の場は緊張してしまう。そして緊張すればするほど食事は喉を通らず、お腹いっぱい食べるより前に緊張でいっぱいになってしまうのだ。
つまり少量で押さえられる。
それを続ければどうなるか……痩せるのだ。
それでいて少量とはいえ美味しいものは食べられるのだから、ステラにとってこれ以上のことはない。
そう考えて話すも、オーランドは盛大に溜息を吐くだけだ。心なしか彼が気落ちしているようにさえ見え、ステラが「名案と思ったんですが」と首を傾げた。
どうやらステラの考えた作戦はオーランドのお気に召さなかったようだ。
「確かにそうだな、緊張の場では誰しも食が細くなる」
「はい、ですから私も小食になれると思うんです」
「それは分かる。だがステラはそんな食事でいいのか? 静まり返った中で緊張しながらの食事も、確かに時には良いかもしれない。重要な場では適しているだろう。だがそれをずっと続けるのか? それで痩せて本望なのか?」
「……っ! 確かにぼっちゃまの言う通りです!」
オーランドの問いかけに、ステラが感銘を受けたと息を呑む。
確かに彼の言う通りだ。緊張の場で食事をすれば喉も通らず痩せられるかもしれないが、それはステラの望む食事ではない。
食事とは美味しく楽しく幸せであるべきなのだ。
背筋を正して緊張の中で食事をするのは、そんな『幸せな食事』が常であるからこそ時折のスパイスとして引き立つ。毎日であれば食の楽しさを見失ってしまう。
それで痩せても意味などない。
無理をして痩せるよりもと考え、世界に旅立つ決意をしたのに……。
「なんて恥ずかしい、早くも初心を忘れていました。私は世界中の食べ物を美味しく食べるために旅に出たんでした」
「まだ初心を忘れてないか? いや、俺としてはあの初心は忘れたままでいてくれたほうが有難いんだが」
「ぼっちゃま、なにか仰いました?」
「い、いや、なんでもない。だがステラの言う通り、食事とはやはり楽しくあるべきだ。だからほら、悩まず考え込まずに美味しく食べよう」
「えぇ、そうですね」
オーランドに諭され、ステラがパッと表情を明るくさせて再び銀食器を手に取った。
目の前にはまだ美味しい料理が半分以上残っている。この後も料理は続くのだ。
これを悩みこんで心ここにあらずで食べるなんて冒涜だ。そう考えてみれば、緊張して味も分からないというのも勿体ない話である。
つい先程まで浮かんでいた名案をあっさりと却下し、ステラは大きめに切ったムニエルを口に運んでその美味しさに表情を綻ばせた。レモンを絞ったバター醤油は濃厚でいてさっぱりとしており、白身魚の柔らかさが引き立つ。
なんて美味しいのだろうか。やはり味わわねば。