03:冷たいスープ
「着替え終わりましたぁ……」
というステラの声は酷く弱々しい。それも扉を開けて顔だけ出してという状況だ。
まるでこの世の終わりとでも言いたげなその声に、室内に居たオーランドがよっぽどの事だと察して慌てだした。
「ステラ、ドレスコードの話をし忘れていてすまなかった。もしドレスが嫌なら、船員に室内で食べると話をつけて運んでもらおう」
「……駄目です。そんなことをしたらマダムに船から落とされてしまいます」
「なんでそんな状況に!? と、とりあえず部屋に入ってきたらどうだ?」
まるで子供を宥めるような優しい声でオーランドが室内にと誘ってくる。
その言葉に扉から顔だけ覗かせていたステラが頷き、ゆっくりと室内へと足を踏み入れた。
コバルトブルーのドレスを纏い……つつも、その上から一枚の布を巻き付けて。ちなみにこれは「こんなドレスで外を歩けません……!」と嘆くステラを見兼ねて、船員達が一時的にと貸してくれた布である。
「……ざ、斬新なドレスだな」
「違います、布です……。正確に言うなら、カーテンに仕立てる前の布です」
「そうか。カーテンの布を纏うほど嫌なんだな。それならやはり室内で」
「駄目です……。マダムに船から落とされてしまいます。きっと浮き輪の情けもかけていただけません」
「さっきから言ってるその恐ろしいマダムは誰なんだ?」
怪訝な視線を向けてくるオーランドに、ステラがスンスンと洟をすすりつつ一連の事を説明する。カーテンに仕立てる前の布を巻いたまま。
ドレスを選ぶ際に騒いでしまったこと、カクテルドレスならぬ生水の布を巻くと嘆いてしまったこと――オーランドが小声で「後でチップを渡しておこう……」と呟いた――、そしてそこを訪れたのがマダムカルテアだ。
妖艶な彼女と夫の話、そして大胆なドレスを着せられたこと……。今まさにペンダントトップが胸の谷間に挟まれるか否かのところを彷徨っているが、さすがにこれは恥ずかしくて話せない。
そんな一連の事情を説明すれば、オーランドが納得したと頷き……ちらりとステラに視線を向けてきた。
「……つ、つまり……今ステラは、マダムカルテアに言われた通りのドレスを着てるんだな。その……大胆な、ドレスを……」
「はい、ですがお見せできるものではありませんので」
「見たい」
「ぼっちゃま?」
「いや、その、でもレストランには布を纏ったままでは行けないだろ。まずは俺が確認して、何か問題があればドレス変更の手配をしよう。マダムにも俺から伝えておく」
「よろしいんですか? それなら、確認をお願い致します」
「よしっ……!」
「ぼっちゃま?」
「いや、違う。そうだ確認だな、よし任されよう。だから見せてくれ」
「それなら……」
おずおずとステラが体に巻き付けていた布に指を掛ける。
そうしてそっと布を払い、ドレス姿を露わにした。
肌に直接触れる空気の感覚に、ステラの中で羞恥心が湧き上がる。
身を庇うようにぎゅうと腕で胸元を隠すも、結果的に胸を寄せてしまい意に反してボリュームを露骨にしてしまう。見れば寄せたことでペンダントトップが谷間に入り込んでしまい、慌てて引き抜いた。
「あの……ぼっちゃま……?」
恐る恐るステラが顔を上げてオーランドの様子を窺う。
彼は唖然とした表情を浮かべており、再びステラが名前を呼んでようやくはたと我に返ったように息を呑んだ。その頬が一瞬にして赤くなっていくのを見て、ステラが不思議そうに首を傾げた。
「ぼっちゃま、どうなさいました? やはりおかしいでしょうか……」
「い、いや! 違う! おかしくなんかない! 凄く……凄く、その……す、素敵だ」
「まぁ、ぼっちゃま本当ですか?」
「ぼっちゃまではないが、そのドレスが素敵なのは本当だ。よく似合っている。スレダリアには無いデザインだな」
「えぇ、異国のドレスらしいです」
オーランドの誉め言葉に、ステラの胸が僅かに和らぐ。
彼の視線はまっすぐにステラに向けられている。その表情は誤魔化しの色もなく、ステラを気遣って偽りの誉め言葉を口にしている様子もない。もちろん嫌悪の色だってないのだ。
それどころか、柔らかく微笑むと再び「似合っている」と褒めてくれた。
(良かった、自分で思っているよりも醜くはないみたいだわ……)
そうステラが安堵を抱き、ドレスを纏う自分の姿を見下ろし……そして胸の谷間に入り込んだペンダントトップを引き抜いた。
細長く加工された石がスルリと谷間から姿を現す。それを見た瞬間にオーランドがムグと言葉を詰まらせ慌てて顔を背けたが、ペンダントトップをどう胸元に止めておくか――油断をすると直ぐにスルリと谷間に落ちてしまう――悩むステラは気付かなかった。
そうしてオーランドもスーツに着替え、食事の時間までと部屋を出て甲板に向かう。
扉から甲板に出た瞬間に吹き抜けた風は普段のものと違い、その心地好さ、なにより眼前に広がる海の景色にステラが感嘆の声を上げた。
建物も山も視界を遮るものはなく、視界一面に真っ青な海が広がっている。
なんて美しいのだろうか。吸い込まれそうなほど深く青く、その上を海鳥が駆け抜けるように飛んでいく。
その美しさに魅入られていると、ショールが風に煽られて揺れた。ステラの肩と鎖骨が露わになる。だがそれに気付かずに見入っていると、そっとオーランドがショールを直してくれた。
「ステラ、海に見惚れるのは構わないが、落ちないでくれよ」
「まぁぼっちゃまってば、私そこまでドジではありませんよ。海に落ちたりなんかいたしません。……マダムに突き落とされない限り」
「そのマダムに早く会ってみたいな」
楽しそうに笑うオーランドに、つられてステラも笑みを零す。
カルテアは強引なところもあるが、その強引さも魅力に思える素敵な女性だ。きっとオーランドも彼女を気に入り、そしてカルテアもまた彼のことを気に入るだろう。
彼女が世界を巡っていたというなら、何か役に立つ話を聞けるかもしれない。
そんな話をしながら、心地好い風に吹かれ、ゆっくりと暗くなっていく景色を眺める。
青い海が徐々に赤く染まり、濃紺に変わっていく。日が落ちれば全てが暗闇に染まり、波すらも見えなくなっていく。
だが海の波が消える代わりに、空に星が浮かび始めた。
建物も山も無く、星空もまたどこまでも広がっている。星空と海面の境目はなく、このままいつまでも永遠に進んでいけそうだ。
だがその景色に胸が湧く反面、まるで吸い込まれそうな不安も抱く。海面は真っ暗で、今この瞬間にも暗闇に引きずり込まれそうだ。落ちたら最後、地の底まで沈んでしまうかもしれない。
夜の海は美しく、そして美しいがゆえに恐ろしい。
「ぼっちゃまが一緒に居てくださってよかった。もし一人だったら、夜の海が怖くて甲板に出られなかったかもしれません。こんなに素敵な景色、見られないのは勿体ない」
「ぼっちゃまと呼ぶなら、今すぐに俺は部屋に戻ってしまうかもしれないな」
「まぁ、私もう少し景色を眺めていたいのに。それならオーランド様、そばに居てください」
「あぁ、その呼び方なら隣に居よう」
楽し気にオーランドが笑う。
そんな彼の隣に立ち、ステラもまた暗くなる海を眺めつつ笑みを零した。
「私、もう満足してしまうかも……」
とステラがうっとりと呟いたのは、客船内のレストランで出されたディナーが感動するほどに美味しかったからだ。
軽く湯通しされた白身魚はさっぱりとしており、香り付けの柚とよく合う。真っ白な皿に一口サイズの野菜が並べられる様は、まるで色とりどりの絵の具を出したパレットだ。
次いで出されたのはカボチャのスープ。スレダリアにもカボチャのスープはあり、ステラは喜びながらスプーンで一口掬い、品よく口をつけ……。
「冷たい」
と、思わず目を丸くしてしまった。
スープの味は間違いなくカボチャだ。カボチャの濃厚な味、香り、これを間違えるわけがない。
だが冷たい。
スープとは温かく湯気をあげているものとばかり思いこんでいたステラは、目を丸くさせたままスープをもう一口すすった。やはり冷たい。
これは温かかったものがさめてしまったのではない。あえて冷たくした、そんな冷たさだ。
オーランドも驚いたように目を丸くさせている。
「冷たいな」
「ぼっちゃまのスープもやっぱり冷たいですね。私のだけ温めるところを冷たくしてしまったのかと思いました」
「冷製スープとあるから、元々冷たいスープなんだろう。だが冷たくすることで飲み易さがあるな。カボチャのスープは味が濃いから、冷たい方がさっぱりして良いかもしれない」
どうやらカボチャのスープに関しては温かいものよりも冷たい方が好みらしく、オーランドが一口二口と飲み進める。
ステラもそれに対して同感だと頷いた。
温かなカボチャのスープは心も体もほっこりとさせるが、濃厚な味とトロリとした喉越しでボリュームがある。対してこの冷たいカボチャスープはさっぱりとしており、味は濃厚だが喉越しは軽い。
そうして気付けばスープを飲み終わり、給仕が皿を片付けていく。
「次はどんな料理が出てくるんでしょうか」
「冷たいスープは驚いたな。次も驚かされるかもしれない」
「私、胸がドキドキしてきました。胸が……あら、ペンダントトップが」
高鳴りを訴えるように胸元に手を添えたものの、谷間にペンダントトップが落ちている事に気付いて引き抜いた。スポンとペンダントトップが抜ける瞬間、丸みを帯びたステラの胸元が揺れる。
その瞬間、オーランドがグッと口ごもると共に顔を背けた。ゴホゴホとせき込む彼を、ステラが「大丈夫ですか?」と案じる。
「ぼっちゃま、どうなさいました?」
「だからぼっちゃまは止めてくれと……。大丈夫だ、少し、その、驚いてしまって」
「そうですね。冷たいスープなんて飲んだことがありませんでしたし、驚きましたね」
そうステラが先程のスープを思い出しながら話せば、再びコホンと咳払いをしたオーランドがどこか上擦った声で「冷製スープのせいだ」と賛同してきた。
なぜか顔を赤くさせ「スープのせいだからな」と念を押してくる。
(それほどまでに冷たいスープに驚いたのかしら。でも気にいったのなら、あとで船員さんにお願いしてレシピを教えてもらいましょう)
ガードナー家でも冷製スープを作れるようになれば、オーランドもきっと喜ぶはずだ。なにせ咳きこむほどの衝撃を受け、そのうえ今も「冷たくて驚いた」としきりに話している。
スープを冷たくするなんてガードナー家のシェフ達も驚くに違いない。厨房に衝撃が走る光景を、そして嬉しそうに冷製スープを飲むオーランドを想像し、ステラが暖かな笑みをこぼした。
次いでその暖かな笑みに期待の色が混ざるのは、先程スープの器を持っていった給仕が、新たな料理を手に戻ってきたからだ。