01:セント・レイア号
暗い闇夜の中では客船の全貌は見えず、明かりだけが遠目にゆらゆらと揺れる。
今夜は雨こそ降っていないが薄雲が夜空を覆い、月も星も普段よりはかなく朧気だ。そのためなおのこと客船の明かりだけが目に付き、その美しさにステラは思わず感嘆の吐息を漏らした。
まるでダイヤモンドのネックレスだ。海という漆黒のドレスを纏い、客船の明かりというダイヤモンドが連なって揺れる。
綺麗、と思わずステラが呟けば、隣に座っていたオーランドも頷いた。
スレダリアにも港はあるが、夜でも街灯がそこかしこに灯り、酒場は夜間でも賑わっている。波の音も暗がりに浮かぶ明かりも、これほど落ち着いて堪能出来る事はないだろう。
だが今いるこの港も人気がなく鬱蒼としているわけではなく、やわらかな明かりの街頭は距離を置いて設けられているし、客船の到着を待つ者は手元の明かりを頼りに業務に励んでいる。
落ち着いて夜の海を眺めるには適した暗さだが、反面、働くには不便でしかないだろう。
街灯の少なさをオーランドが問えば、乗船券を確認していた者が苦笑しつつ「これが売りなんです」と教えてくれた。
曰く、薄暗い夜の港はカップルが静かに過ごすのに最適で、人気のデートスポットだという。
「だからベンチも等間隔に置いてあるんですね。確かに、落ち着いて語らうのに最適です」
「特に今夜は客船が来ますからね。乗船しないお客様も見学にいらっしゃっています」
穏やかに話し「よい旅を」と去っていく係の男性に、ステラとオーランドが揃って感謝の言葉を返す。
そうしてふぅと一息吐き、ステラはそっとオーランドに身を寄せた。彼に身を預けるようにもたれかかれば、屈強な体が強張ったのが分かる。
「ステラ……」
「船が着くまでの間、こうしていてもよろしいでしょうか」
「あぁ、もちろんだ」
オーランドの腕がゆっくりと動き、もたれ掛かるステラを揺らさないよう気遣いつつ触れてくる。
ステラの腰に、そっと添えるように。抱きしめるでもなく、引き寄せるでもない。それでも彼の大きな手が腰に触れれば、じんわりと暖かさが伝わってくる。
その温かさはステラの胸にまで届いた。恥ずかしくて嬉しくて、胸が痛いほどに高鳴っているのに安堵感が湧く。なんて不思議な感覚だろうか。
(早く客船に乗ってマダムに会いたいのに、ずっとこのままで居たい……)
相反する気持ちに胸の内を焦がしつつ夜の海を眺めていれば、焦らすように近付いていた客船が港に停まった。
船員達に出迎えられ、部屋まで案内してもらう。
最初に乗ったとき同様に豪華な部屋だ。リビングルームには大きなソファーが置かれ、バルコニーに出ればいつでも広大な海が堪能できる。キッチンもあり、これならば数泊どころか長期滞在しても不便はない。
そしてなにより、大きなベッドが一つ置かれた寝室……。
そう、ベッドは一つなのだ。もとよりそういった作りの部屋なのだから当然と言えば当然。
大人二人でも余裕をもって眠れるベッドに、枕が二つ……。
その光景にステラとオーランドがしばし呆然としてしまう。
だが直後にはっと我に返ると、ステラは慌てて寝室の扉を閉めた。オーランドもわざとらしく「トランクはどこに置こうか」と背を向ける。
「さ、さっそく船の中を見て回りましょう! ねぇぼっちゃま!」
「あぁ、そ、そうだな! 以前と変わってるところがあるかもしれないしな!」
上擦った声で、互いに明後日な方向を向きつつ話す。
そうして極力寝室の方へは視線をやらないようにし、些か不自然な会話をしながら部屋を後にした。
一つのベッドでどう眠るかは決まっていないのだが、今それを話し合えるわけがない。
問題からそそくさと逃げ、客船内を見てまわる。
大きな変化こそないものの、窓辺の装飾や通路に飾られた花は変わっており、懐かしさと新鮮さが入り交じる。
といってもこの船に乗ったのは思い出すほど昔の事ではない。実際の日数にすれば短いものだ。
だが大事なのは数字としての日数ではなく密度である。この旅は様々な出会いと発見があり、密度でいえば特上の旅と言えるだろう。
そしてその旅の始まりがこの客船だった。
当時のことを思い出し、ステラは隣を歩くオーランドの手にそっと己の手を重ねた。彼が嬉しそうに微笑んで握り返してくれる。
「この船に乗った時、私はまだオーランド様の気持ちに気付きすらしていませんでした。さぞや不安にさせてしまいましたよね」
「不安に?」
「私、オーランド様に想われているとは考えもせず、理想の殿方を探すことばかり話して……。話して……。す、少しくらい話していましたよね?」
どれだけステラが記憶を引っ繰り返しても、当初の目的を既に忘れて食べ物の話ばかりしていた記憶しか出てこない。
とりわけ窓辺のティーサロンを通れば尚の事。ここで食べたチョコレートケーキは美味しかった……と思い出と共に味まで蘇るのだ。それどころかグゥとお腹まで呼応しかけてしまう。
だが異性の思い出と言えば、カルテアの夫であるマルドを初めとする客船内で親しく話した者達ぐらいか。彼等は親切で素敵だったが、ステラが当初の目的としていた異性には当てはまらない。
そもそも、その異性との思い出にだって、談笑中に食べた美味しいお菓子が思い出されるのだ。
この船が旅の出発だというのに、これは食いしん坊にも程がある。
「私は異性を探す事ばかり考えて、オーランド様を不安にしてしまった。という事に致しましょう」
「ステラ、ティーサロンのメニューに季節のタルトが追加されてるぞ」
「まぁ、リンゴのタルト! 前に食べたケーキをもう一度食べるか、季節のタルトを食べるか迷ってしまいます。いっそ、全て……。も、もう、ぼっちゃま、話をそらさないでください!」
まんまとオーランドの口車に乗って食いしん坊ぶりを発揮してしまい、我に返ったステラが不満を訴えた。
こんな意地悪な人とは手を繋いでいられない。だがステラが不満を抱いて手を放そうとする事もお見通しだったのだろう、オーランドはしっかりと手を繋いでいて逃がす気は無いようだ。いくらステラが顔をしかめても愛でるように見つめてくるだけ。
まったく……とステラが小さく呟いた。もっとも、己のその声にも甘さを感じてしまうのだが。
そうして雑談交じりに手を繋ぎながら船内を歩いていると「ステラ!」と声が聞こえてきた。