01:飴を手渡せる距離
時には真っすぐ、かと思えば大きく蛇行し、ナンシーの足跡は随分と荒い。そのうえ、遮るもの一つ無い砂漠だというのに影すら見せない速さなのだ、乗っている者を振り落とそうとする気概が足跡からでもひしひしと伝わってくる。
自分だったらひとたまりもないだろう……。ステラがナンシーに振り落とされて砂漠に転がる己の姿を想像する。英雄にはなれそうにない。
「かなり蛇行しているが、方向はこっちで間違いなさそうだ」
ナンシーの足跡とバイクの方位磁針、そして眼前に広がる砂漠を見比べながらオーランドが話す。曰く、ナンシーはあっちこっちと蛇行はしているもののオアシスを目指しているのだという。
言われてステラも改めて砂漠を眺めるが、道もなければ看板も無い。方向を見失うどころかそもそも今向かっている方向も分からない。
これでは、運転も確認も、全てオーランド任せではないか。
世話になってばかり……と申し訳なさを抱き、ステラがオーランドを見上げた。
ゴーグル越しに砂漠を見つめる頼りになる立派な青年。革手袋をはめてグリップを握る手も大きく、眼差しも大人びている。そこに幼い少年の面影はない。
(なんだか、ぼっちゃまが遠くにいってしまったみたい……)
そう考えれば、ステラの胸に寂しさが湧く。
だが目の前に革手袋で覆った手を差し出されれば寂しさに耽る事も出来ず、パチンと目を瞬かせた。オーランドの手だ。
何かを求めるような手の動きに、再びステラがオーランドを見上げた。
「ステラ、飴を取ってくれるか?」
「は、はい」
ステラが足元の鞄から飴を入れたポーチを取り出し、一つ包装紙を解いてオーランドの手の平に置いた。
彼は前方を見たままだ。それでも手の中に飴が置かれた事は分かったのだろう、落とさないようにとゆっくりと手が閉じられる。
……と、同時に、逃げ損ねたステラの人差し指がぎゅっと掴まれた。
「ん?」
「まぁぼっちゃま、私の手まで食べるんですか?」
「ス、ステラの指!? すまない、運転に集中してて……!」
「いえ、大丈夫です。何から何までお任せしているんですもの、指の一本ぐらい差し上げます!」
「物騒な覚悟をしないでくれ!」
ステラの冗談に、オーランドが慌てて声をあげる。
だが彼も冗談だと分かっているのだろう、一息吐くと、まったくと言いたげに苦笑を浮かべた。ゴーグル越しに彼の目が細められるのが見える。
そんな彼の笑みと、先程彼に握られた己の指を交互に見つめ、ステラもまた笑みを零した。
オーランドの手は大きく、軽く握られただけなのにステラの指は彼の手の中にすっぽりと収まってしまった。立派な男の手だ。いや、立派なのは手だけではない、見た目も中身も、オーランドは立派な青年だ。
だけど……。
(飴を渡せる距離に……それどころか飴と一緒に指を食べられかねない距離に居るんだもの、遠くにいってなんかいないわ)
そうステラが己に言い聞かせる。
オーランドは立派な青年になった。だが以前から変わらず近くにいる。
手を差し出せば掴めるほどに、今まさに、再び目の前に革の手袋が差し出されるように……。
「ぼっちゃま、どうなさいました?」
「ぼっちゃまではないが、飴を貰いたい」
「飴ですか? 先程お渡ししたのは落としてしまいましたか?」
「いや、あれは……噛んでしまった」
つい……と呟き、オーランドがムグと口ごもる。
それを聞き、ステラはきょとんと目を丸くさせた後、ふっと小さく噴き出して笑ってしまった。
「ぼっちゃまは昔から飴を噛んでしまっていましたね。皆静かに舐めているのに、ぼっちゃまだけガリガリと音を立てて」
「……ぼっちゃまって呼ばないでくれ、と言いたいところだが今は何も言わないでおこう。それに、普段は気を付けるようにしてるんだ。だが他の事に集中しているとどうにも」
気恥ずかしそうな表情でオーランドが己の癖を話す。その表情は立派な青年のものだが、それでもどこか幼少時を彷彿とさせる。
思い返せば、今までも幾度となく「あらぼっちゃま、もう飴を食べてしまったんですか?」と尋ねていた。そのたびに彼はばつが悪そうな顔をして「噛んでしまった」と告げるのだ。飴は舐めるものと分かっていても、口に入れると無意識に噛んでしまうのだという。
当時を思い出しながら、ステラが再び飴を一つ包装紙から取り出した。オーランドの手に置く際に「次の飴も用意しておきますね」と告げるのはちょっとした悪戯心だ。
「いつでも飴をお渡し出来るようにしておきますから、存分に噛んでください」
「もう噛まない、大丈夫だ。……あ、ほら、ステラ、前を見てみろ!」
「前ですか? もしや噛まれた飴の怨念が……!」
ステラが冗談を言いつつオーランドに言われるまま前方へと視線をやり……きょとんと目を丸くさせた。
延々と続くはずの砂漠。
そこに緑が生い茂っている。
まるで砂色のキャンバスに緑の絵の具を垂らしたかのようで、幻覚と言われても納得しそうな光景だ。
木々が生い茂っているのだが、『生い茂る』というよりも、場違いにぽんと出現してしまったように見える。
「凄いな、あれがオアシスか」
「本当にあるんですね。なんだか不思議……。近付いたらホワンと消えてしまいそう」
「それは蜃気楼だな。実際に触れてみれば本物かどうか分かるはずだ。行ってみよう」
目的地を見つけたからか、オアシスの光景に見惚れたからか、オーランドが意気込むようにバイクのエンジンをヴンと唸らせる。
速度を上げれば頬にあたる風が強くなり、自然とステラの期待も高まっていった。
そうしてオアシスへと到着し、手近な場所でバイクを停止させる。
といっても停める場所が決まっているわけではない。適当な場所を見つけるだけだ。
旅猫曰く、オアシスには管理人が居り、バイクをどこに停めるかについても管理人に聞けばいいらしい。何事もまずは足を踏み入れてから、そうニャフニャフと旅猫が笑って話していた。
「しかし、木々は見慣れているから砂漠の方が見慣れないはずなのに、今は緑が不自然に見えるな」
「私もです。なんだかキツネに化かされている気分。……まさか、らくだに!? 化かしのナンシー!?」
ステラが慌てて己の頬を軽くつねる。
だがつねったところで頬にジンワリと痛みが走るだけで、当然ながら目の前のオアシスも消えやしない。吹き抜ける風に生い茂る葉を揺らすだけである。
どれだけ不自然であろうと、目を疑う光景であろうと、やはり砂の海のど真ん中に緑が溢れているのだ。
「良かった、どうやら化かされたわけではないみたいですね。……あら、何か聞こえませんか?」
ふとステラが騒々しい音を聞きつけ、探るように周囲を伺った。
その視線の先、オアシスの影から現れたのは、荒々しく動き回るらくだ……と、その首元にしがみつく一人の青年。
砂漠前の町であった青年と、振り落としのナンシーである。
「よぉ、お二人さっ……また会った……じゃぁな!」
再会の挨拶もろくに終わらぬうちに別れを告げ、青年がナンシーと共に去っていく。
荒れ狂い走るその姿はまさに振り落としのナンシーだ。あれを乗りこなせば確かに英雄とされるだろう。
「お気をつけてくださいねぇー!」
「期待してるからなぁー!」
ステラとオーランドが去っていく彼に手を振る。
青年も振り返りこそしないが――きっと振り返れば落ちると分かっているのだろう――高らかに片手を上げて返してくれた。
そうして改めてオアシスへと向き直る。
緑が溢れており、風が吹くと草木が揺れる。スレダリア国でも見覚えのあるその光景は、それでも一帯が砂漠のこの地では不思議でしかない。自然あふれる光景から一部だけ切り取り、砂漠の中に置いたかのようだ。
オーランドが物珍しそうに周囲を見回し草花に触れ、ステラは念のためにともう一度己の頬をつねった。やはりジワリと痛むだけでオアシスは消えない。
「砂漠の真ん中にこんな場所が……。いまだに信じられませんね」
「あぁ、だが作り物じゃなく全て本物だ。奥には湖があって人がいるらしいから行ってみよう」
オーランドに促され、ステラが彼と並んでオアシスの奥へと進む。
自然が溢れてはいるが踏み慣らされた道があり、歩くことに不便はない。人が行き来した跡も残っており、それを辿るようにしばらく進むと楽し気な話し声が聞こえてきた。
そんな声に惹かれて歩き、開けた場所へと出て、
「まぁ……」
とステラが思わず小さな声をあげた。