03:旅する猫
早朝、まだ早い時間。店も開いてはおらず……というわけでもなく、まだ日が昇って直ぐだというのに並ぶ店の殆どが開いていた。
曰く、砂漠に発つ客は早朝に、そして砂漠から戻ってくる客は遅い時間が殆どなのだという。更に日中はこの町に一泊する客が店を見て回る。そのどれもが見逃せない大事な客である。
つまり殆どの店が早朝から夜まで開けているのだ。
なんて働き者なのだろうか……とステラが感動を覚える。もっとも、土地柄なのか食事をしながらだったり店の奥で昼寝をしたりと、接客態度はかなり豪快ではあるが。
そんな店を眺めながらジェラートを食べる。
ひんやりと冷たく、甘く塩気があり、とても美味しい。
だが暑さのせいで溶けやすく、手に着く前にと垂れかけた部分をペロリと舐めれば、ほぼ同じタイミングでオーランドが店から出てきた。
「ピンク色の塩なんて珍しいな。日持ちがきくし、容器も洒落ていたし、土産物に丁度いい。絵葉書とあわせてガードナー家に送るよう手配を……。おかしいな、俺はさっき、塩漬け肉を挟んだパンを食べるステラに見送られて店に入ったんだが……」
「こ、これはその……! 塩漬け肉を挟んだパンを食べ終えたら、横からデザートはどうだと声を掛けられてしまったので……!」
「もう一度店に入って戻ってきたら、また別のものを食べてるかもな」
「ぼっちゃまってば!」
からかわれ、ステラが頬を赤くさせてオーランドを咎める。
だが彼が「道中食べようと思って」と小さな小袋に入ったお菓子を取り出せば、怒りもどこへやら一瞬にしてそちらへ興味が沸いてしまうのだ。
それを誤魔化すために、目深に被った布をより深く引っ張った。
これから向かう砂漠は視界一面に広がる砂の海だ。
真上から降り注ぐ日の光を遮るものはなく、風が吹けば細かな砂が舞い上がる。細かな装飾品のついた服で横断すれば、多量の砂を持ち帰る事になるだろう。
ゆえに立ち寄った店で服装の相談をしたところ、大きな一枚布で作られたワンピースを案内された。これなら砂を簡単に払い落とせる。
それと、帽子代わりに頭部に巻き付ける長い布。これを巻き付け、口元まで覆うのが砂漠越えのスタイルらしい。
「布を頭に巻くなんて、と思いましたが、これはこれでお洒落ですね」
ワインレッドの銀と白の刺繍が施された布を頭部に巻き、肩口に巻き付けた布の裾をいじりながらステラが上機嫌で話す。柔らかな布は肌に優しく寄り添い、細かな刺繍は囲むように美しい花を描いている。
自分の赤髪とワインレッドの布は相性が良く、昨夜ホテルの部屋で巻いて姿見を見てみたところ「悪くない」と自画自賛してしまったほどだ。これに薄赤色の一枚布で出来たワンピースを纏い、灼熱の砂漠を越える。まるで自分自身が吹き抜ける炎になった気分だ。
そんなステラの上機嫌が映ったのか、隣を歩くオーランドも満更でも無さそうに頭部を覆う布に触れた。彼は濃紺の布で統一しており、黒い髪と瞳がより深い色合いを見せている。
「珍しい柄の布が多いな。砂漠を越えたら、何枚か買ってこの服と一緒にスレダリアに送ろう。ステラ、母さんに買う服を見立ててくれるか?」
「えぇ、もちろんです。ワンピースはゆったりと着れるので、部屋着にも良いかもしれませんね」
きっと喜んでくれるだろう。
メイド仲間のエリー達にも送ろうか。手先の器用な子なら、装飾品をつけてドレス風に仕立て直すかもしれない。
ガードナー家夫人に送るのならあの色を、エリーに送るのならあの柄を、ほかには……と、スレダリアを懐かしみ話に花を咲かせつつ、ひらりと布を翻しながら町の中を歩いていった。
そうして町の外れと向かえば、バイク屋の店員が既に出発の準備を終えて待っていた。
彼の隣にはサイドカー付きのバイク。乗る前にと手渡されたゴーグルは重々しく、ステラは赤い髪を引っかけないようにと慎重に装着した。
ゴーグルは初めてだ。それどころか今までメガネだって掛けた事がない。視界の端に枠が見えてなんとも不思議な感覚である。
だが頑丈な割にはさほど重くもなく、これならば突風に煽られて砂粒がぶつかったところで傷一つ着かないだろう。試しに指で突いてみても、コンと軽い音だけが聞こえてくる。
サイドカーも端から見るよりも広く、足下に水や荷物を詰めてもまだ余裕がある。そのうえオーランドがふかふかのクッションを手配しておいてくれたので座り心地も悪くない。
ステラが腰を下ろして一息吐けば、オーランドも続くようにバイクに跨がった。
体躯の良い彼と重々しいバイクは相性が良く、様になっている。
そのうえ皮手袋をはめてゴーグルをつければ、なんだかステラには別人のように見えてしまう。今まで何度も彼を「ぼっちゃまは男らしくなりましたね」と誉めていたが、それとは何だか違う。
くすぐったいような、なんだか気恥ずかしいような、不思議な感覚が胸に湧いた。
「ステラ、準備は良いか?」
「は、はい。参りましょう!」
「よし、出発だ」
オーランドの声と共に、バイクからブンと唸るような音が鳴り出す。
微弱な振動が伝わり、ステラが周囲を見回す。だが振動やエンジン音の発信源を見つけるより先に、バイクがスゥと走り出した。
風がステラの赤髪を揺らす。
それを押さえつつ背後を振り返れば、店主が気付いて手を振ってくれた。
歩くよりも随分と早く小さくなっていくその姿に、ステラもまた大きく手を降って返した。
話に聞いていた通り、砂漠には見渡す限り砂しかない。まさに砂の海だ。
そこをバイクでただひたすらに走る。
当然ながら道はなく、今ならば突然グルリと方向転換しても何にもぶつからず、咎められることもないだろう。蛇行しながら走ったって問題はない。
目印になる物も無く、時折砂が山を作ってはいるものの、それだって強めの風が吹くとサァと崩れてしまう。
何もないのだ。山があっても風で消え、また別の場所に山が出来る。延々と続く砂の海と、吹き抜ける風だけが広がっている。
「ぼっちゃま、道は……道なんてありませんが、道は分かるんですか?」
風の吹き抜ける音とバイクのエンジン音に負けないようステラが普段より声をあげて問えば、ハンドルを握っていたオーランドがひょいと片手を離しーーその瞬間、ステラは小さく「まぁ、片手運転」と呟いたーー次いでコンコンとハンドルの中央を指で叩いた。
細かな計測器がいくつか設置されていた場所だ。その中の一つ。
「方位計だ。道はないから、方角さえ分かれば進める」
オーランドが楽しそうに笑う。
方位計だけの旅、それもバイクを運転して……。どうやらこの非日常な旅は彼の好みなようで、何もない砂漠を見つめる瞳が輝いているのがゴーグル越しでも分かる。
ガードナー家の自室で落ち着いて読書をしている時の表情とも、友人達と愛馬の話をしている時とも違う。家名とは全く別のところで、ただ純粋にオーランド・ガードナーが楽しんでいるのだ。
それを見ているとステラもなんだか楽しくなり、赤髪を風に揺らしながら広大な砂漠を見つめた。
どこまで見渡しても建物はおろか木すら生えていない。ひたすらに砂の大地が続いている。
距離感がおかしくなりそうだ。時折遠くにポツリポツリと旅人らしき姿があるが、こうも何もない砂の海上ではどれだけ離れているのか分からない。
広大な砂漠を前に、随分と自分はちっぽけな存在なのだと思い知らされるばかりだ。
(私一人で旅していたら、きっと不安と寂しさでくじけていたわ。ぼっちゃまが一緒にいてくれてよかった)
二人旅で良かった、とステラが小さく安堵し、次いでオーランドを見上げた。
重々しいバイクを平然と乗りこなす彼は普段より勇ましく見える。
「ぼっちゃま……いえ、オーランド様!」
「どうした?」
「格好良いですね!」
ステラが風に負けぬように声を大きくして告げれば、オーランドがきょとんと目を丸くさせた。
そうして眼前を見つめたまま、ふっと瞳を細めて笑う。
「そうだろ! バイクは格好良いよな!」
嬉しそうに話すオーランドに、今度はステラが目を丸くさせてしまった。
(あら、ぼっちゃまの事を言ったのに伝わらなかったわ)
もう一度言い直すべきか、それとも砂漠を抜けてから改めて言うべきか。
そんなことをステラが考えていると、オーランドが何かに気付き、ゆっくりとバイクを止めた。
「ぼっちゃま、どうなさいました?」
「あそこに居るのは獣人だろうか」
オーランドが遠くを見つめる。
それを追うようにステラも視線を向けた。随分と先、それもかなり左にそれた場所、今までは大きな砂の山に隠れて見えなかったようだが確かに人の姿がある。
……いや、人の姿、というのはおかしいか。
子供のように小柄で、腰元から細いしっぽを揺らす姿は人ではない。獣人だ。
「私、獣人というのは初めて見ました」
「俺もだ。ここいらはでは珍しくないらしいが、徒歩でこの砂漠を渡るつもりなんだろうか」
「まぁ、徒歩でですか? そんなこと可能なのでしょうか」
「無理ではないと思うが、かなりきついだろうな。声を掛けてみようか」
オーランドがハンドルを操作し緩やかに進路を左にとる。
そうしてしばらく走れば、獣人の姿がはっきりと目視出来るようになった。
頭部にはぴょんと立った三角耳、腰元からは細長い尻尾。衣服を纏いリュックサックを背負い、ゴーグルをつけて……と身なりは人間と同じだ。だが二足歩行で歩いてはいるものの、やはり体のつくりは大きな猫に近い。茶や黒が入りまじった、いわゆる錆色だ。
初めて見る獣人に緊張しているのか、オーランドが少しばかり上擦った声色で「失礼」と声をかけた。
三角耳をぴょこんと揺らして獣人がこちらを向けば、首もとの赤いスカーフがふわりと揺れる。お洒落だろうか。立派な髭にアーモンドのような瞳がオーランドとステラをとらえた。やはり猫だ。
「突然声をかけて申し訳ない。砂漠を歩いて越えるつもりか?」
「越えはしませんが砂漠の途中にある町まで。夜は休んで、五日ぐらいで町に着く予定です」
「五日も歩き通し……。らくだやバイクは借りなかったのか?」
「我々用のは全部借りられておりまして。人間用のは足が着かニャいんですよ」
「そ、それは……失礼な事を言ってしまった……のか?」
「お気にニャさらず。旅をしていればよくあることです」
ニャフフと猫の獣人が笑う。その声色と落ち着いた口調からすると、人間でいえば二十半ばの青年ぐらいだろうか。だが瞳を細めて笑む姿はなんとも愛らしい。
そんな彼の話を聞き、オーランドがチラとステラへと視線を向けてきた。言わんとしていることを察し、ステラも頷いて返す。
ずりとサイドカーの後方に詰めれば、成人男性は無理でも獣人一人ぐらいなら入れるスペースが出来る。
「旅の方、もし良ければ乗っていかないか?」
「よろしいんですか?」
「あぁ、せっかく出会ったんだ」
オーランドが答えれば、赤いスカーフの獣人が嬉しそうに微笑んだ。
次いでぶるりと体を振るわせて体中の毛についた砂を振り払う。ぱさぱさと砂が落ちていくあたり、かなり長いこと砂漠を歩いていたのだろう。
そうして彼は「失礼」とステラに告げ、サイドカーに乗ってきた。ステラが後ろに、彼は前に、狭くなったが入れない事はない。
問題ないと判断し、オーランドが「行こう」と告げて再びバイクを走らせた。
「旅の方、お名前は何とおっしゃるんですか?」
「我々旅の者には名前はありません。お好きに呼んでください」
「まぁ、名前が無いなんて不便ではありませんか?」
「案外どうにでもニャるもんです。行った先々で好きに呼ばれ、行った場所の数だけ呼び名が増える。次はどんな名前で呼ばれるのか楽しみなくらいですよ」
「そうなんですね。それもまた旅人……いえ、旅猫らしい。私達は『旅猫さん』とお呼びしてもよろしいでしょうか」
「えぇ、もちろんです」
ニャフニャフと旅猫が嬉しそうに笑う。
風が彼の錆色の毛をふわりと揺らし、まるで大きなぬいぐるみを前にしているかのようではないか。
思わずステラが彼の頭に触れようとし……はたと我に返った。
いくら猫のように愛らしくふわふわしていたとしても、彼は立派な獣人。それも人間で言うのなら成人に値するだろう。
サイドカーに二人乗りしているゆえに密着はしているが、みだりに触れていいわけがない。ステラだって他人に不用意に触れたら不快感を、それどころか恐怖だって感じるだろう。
……だけど。
とステラが目の前の誘惑に必死で抗っていると、旅猫の尻尾がゆらりと揺れてステラの手元にポスンと落ちた。
「触りたければ、尻尾をどうぞ」
「まぁ、気付いてらしたんですか? お恥ずかしい」
「お気にニャさらず。獣人を触りたいという人間の方は少ニャくありません。とりわけ我々のようニャ猫型の獣人を好む人は多く、これで結構得をしているんですよ」
「得、ですか?」
ステラが彼の尻尾を触りながら――なんという柔らかな毛並みだろうか。時々パサと砂が落ちるのは砂漠ならではである――問えば、旅猫がニャフフと笑った。
「えぇ、猫好きの気の良い方に奢ってもらえたり、荷物を持ってもらったり。あとは、サイドカーに乗せてもらったり」
今のようにね、と笑う旅猫に、彼の尻尾を撫でていたステラも思わず笑ってしまった。
確かに、彼の外観はたとえ中身が成人同等であろうと猫のように愛らしい。それでいて愛らしい外観を得だと考えるほど、彼は大人なのだ。