7:王子のクーデータ
扉を開けて入ってきたのはフロランだ。それと彼の背後には十数人の男達の姿。
服装を見るに警備でも王宮関係者でもないだろう、それどころか皆頬にバッテンマークがついている。
「フロラン、部屋で大人しくしているように言い渡したはずです! これはどういう事ですか!」
「クーデターです、母上。……いえ、不当な格差で民を苦しめる女王クロリエ」
「そんな……。なぜ貴方が……!」
「カルカッタの辛さ至上主義は今日で終わりです。カルカッタでは、今後一切の辛い食べ物を禁止します」
母親の問いかけにも答えず、フロランが厳しく言い捨てる。
次いで彼はアニスの元へと駆けよると、案じるようにその肩に触れた。
「アニス、遅くなってすまない」
「フロラン……」
「もう大丈夫だ。カルカッタでは辛い物を禁止する。君にもメイヤにも、もう二度と苦労はさせない」
フロランの言葉に、アニスは困惑したまま彼を見つめる。理解が追い付いていないのだろう。
そんな二人を眺めてオーランドが安堵の息を吐いた。ステラが見上げれば、先程まで険しかった彼の表情が既に落ち着きを見せている。
良かったと小さく口にし穏やかに笑う彼の表情を見つめていると、ふとステラの胸に疑問が湧き上がった。
(カルカッタでは辛い物が禁止される。これで格差もなくなるわ。……でも本当にこれで良いのかしら)
胸の内になんとも言えぬ靄が残り、ステラは己の胸元をぎゅっと掴んだ。
ふわりと漂うカレーの香りを嗅げば、昨夜の夕飯の光景が脳裏を過ぎる。
辛いカレーを「辛い」と言いながらオーランドは食べていた。ステラなら一口も食べられないような辛さだろうが、それでも彼は美味しいと感じたのだ。
ステラは食べられない辛いカレー。
だが彼が美味しい物を美味しいと思うことは否定しない。
美味しいものを食べるのは大好きだが、それと同じくらい、美味しいものを美味しそうに食べるオーランドを見るのが大好きなのだ。
「これでひと段落だな」
「ぼっちゃま……」
「これからカルカッタは変わるだろう。きっと今より良い国になるだろう」
「……違います! こんなの間違っています!」
ステラが声をあげ、カレーの乗ったワゴンへと駆け寄った。
二枚の深皿には二種類のカレーが盛られている。片方は特注の甘口カレー、黄色かかったカレーにはチーズが浮かんでおり、まろやかなのが見て分かる。
対してもう片方は王族しか食べられないという辛口カレー。真っ赤で、見ているだけで額に汗が滲む。
目の前にすれば違いは歴然だ。
女王クロリエはこの辛口カレーをアニスに食べさせようとしていた。彼女が苦しむ姿を見て、甘口カレーに逃げたらフロランには釣り合わないと切り捨てるつもりだったのだ。
そんなクロリエにフロランは反旗を翻した。息子として、王子として、アニスの夫として、メイヤの父として……。すべてをもって辛い物を禁止し格差をなくそうと考えたのだ。
立派な考え、行動力もさすがだ。
だが、それが正解だとは思えない。
「女王様もフロラン様も間違えています。食べ物に格差がないように、美味しいという喜びにも格差なんて無いんです!」
「ステラ……」
「美味しいものを美味しく食べる、ただそれだけなんです。どちらかを無くして解決なんて間違えています!」
声を荒らげ、ステラが辛口カレーの入っていた皿を手にする。
勢いのまま辛口カレーをぶちまけ……などせず、甘口カレーに混ぜた。どろりとした粘度の高いカレーが甘口カレーの上にのしかかり、スプーンで混ざれば次第に境目を失う。
これには誰もが言葉を失った。
シンと静まり、そして香辛料の香りを含む空気が漂う。
それを破ったのは「なんてことを!」という女王クロリエの声だ。
王族しか食べられない辛口カレー。辛さ至上主義の象徴たるそれを、よりにもよって甘口カレーに混ぜられたのだ。無礼なとステラを咎める声には敵意さえ感じられる。
だがステラはその声に臆すことなく、キッと彼女を睨み付けることで返した。
怯んではいけない、頬のバッテンマークが何だというのか。
ここで戦わねば、美味しいものを求めて世界を旅するなど夢のまた夢だ。
「辛口だの甘口だのと辛さを決めるなら、それならいっそ混ぜて無くしてしまえばいいんです! そうすれば格差なんて……!」
「いただきまーす!」
「格差なんて無くなって……メイヤちゃん!? いつの間にここに!? 食べちゃだめよ!」
いつのまにやらメイヤがワゴンの隣にちょこんと座っており、ステラの制止も聞かず、混ざったカレーをスプーンで掬ってパクンと口に含んだ。
ぎょっとしてステラが止める。これにはアニスやフロランも娘の名を叫ぶように呼んだ。
だが当のメイヤは周囲の心配に気付く様子も無く、辛いのかふぅと一息吐いたものの、すぐさま表情を綻ばせて「おいしい!」と明るい声をあげた。頬を押さえて美味だと訴える仕草は愛らしく、そこには辛さに苦悶する様子はない。
これにはステラも目を丸くさせ……つつも、メイヤに近付くと彼女の隣にしゃがみこんだ。
「……メイヤちゃん、そのカレー美味しいの?」
「うん! 辛くて、でも甘くて、すっごく美味しい!」
「なら私も一口……。こ、これは……!」
メイヤからスプーンを受け取り、ステラも一口食べ……そして息を飲んだ。
この展開に、唖然としていたオーランド達もはたと我に返り、一人また一人とステラ達に近付いてくる。フロランがメイヤの頭を撫で、アニスが辛くは無いのかと娘を案じる。
だがメイヤは嬉しそうに「おいしいよ!」と答えるだけだ。ステラも彼女につられて「美味しいんです!」と声をあげ、オーランドにスプーンを差し出した。
「ぼっちゃま、このカレーとても美味しいです。食べた瞬間に湧き上がる辛さ、それを後からくる甘さが緩和して、双方が味を引き立てています」
「それほどなのか、どれ……。ん、確かにこれは美味いな。辛口の辛さもあるが、それでいてまろやかだ。後味がまろやかになるからこそ、また辛さを味わいたくなるな」
「これが辛口の美味しさなら、私も辛口の良さが分かります。ぼっと口の中に広がる辛さ、体の中から燃やされじわりと汗を掻く熱……。辛口派は体の内側から味わっているのですね」
「あぁ、俺も甘口の良さを理解した。まろやかな味わいでありつつもスパイスの香りと辛さはしっかりと残っている。辛いが甘い、濃厚でまろやか、一口で対比を味わえるのは癖になる」
ステラとオーランドが感動しつつ褒め称えれば、それほどなのかとアニスとフロランも混ざったカレーを口にする。
二人が目を丸くさせて顔を見合わせた。その表情は、口にこそしないが「美味しい」と言っているようなものだ。
そんな両親の反応を見て、メイヤが自分もまた一口食べようとし……ふとスプーンを持つ手を止めた。彼女の視線が向かうのは、この場の空気にいまだ動けずにいるクロリエだ。
じっと見つめたのち、メイヤが混ざったカレーの皿を持ったまま彼女の元へと向かった。
「……もしかして、おばあちゃま?」
「お、おばあちゃま……私が……?」
「ママがいつも言ってたの、おばあちゃまはパパと同じ髪の色で、とっても綺麗な人だって。ねぇ、おばあちゃまもこれ食べて!」
メイヤが混ざったカレーをスプーンで掬ってクロリエへと差し出す。
それも自ら食べさせてあげようとしているのか、柄は自分で握ったまま。
これにはクロリエも困惑の色を強くし、しばらく迷った後に答えを求めるようにフロランへと視線を向けた。今のクロリエには威圧感や厳しさはなく、ただ一人の女性、それも孫にどう対応してい良いのか分からずにいる祖母でしかない。
「貴女の孫ですよ、母上」
「私の……でも、こんな……」
「どうか食べてあげてください。きっと美味しいはずだ」
フロランに促され、クロリエが恐る恐るメイヤに合わせるように屈んだ。
品の良い仕草で髪を耳にかけ、小さな手が差し出してくるスプーンにゆっくりと口をつける。そんなクロリエを見上げ、メイヤが輝かんばかりに笑顔を浮かべた。
「ね、おばあちゃま! 美味しいでしょ!」
笑顔で問いかけてくるメイヤをクロリエが見つめ……、
「えぇ、本当に美味しいわ。まるであの人と一緒に食べたカレーのよう……」
そう瞳を細めて答えると、細くしなやかな指でメイヤの頬を……そこに印されているバッテンマークを撫でた。