6:灼熱の国の女王
翌朝、急かすように扉を叩く音でステラは目を覚ました。
時計を見ればまだ起きるには少し早いが、だからこそ何かあったのだと察してベッドから降りる。扉に身を寄せて「どなたですか?」と声を掛ければ、返ってきたのはオーランドの声だ。
彼ならば「おはようステラ、起きたか?」と穏やかに朝の挨拶を告げてくれるはずなのだが、今朝に限ってはしきりに扉を叩き「ステラ、大変だ」と急かしてくる。
よっぽどの事ではないか。ステラが慌てて上着を羽織り、扉を開けた。
「どうなさいました、ぼっちゃま」
「ぼっちゃまでは……いや、今はそんな事を言っている場合じゃない。アニスが連れていかれたらしい」
「まぁ、どうして!?」
ステラが思わず声をあげれば、オーランドの足元からメイヤがひょこと顔を覗かせた。
見て分かるほどに怯えており、小さく呟かれた「ママ……」という声は聞いているだけで胸が痛くなる。目元が潤んで赤くなり、今すぐに泣き出してしまいそうだ。
ステラがしゃがみこんでメイヤの肩を擦れば、縋るように抱き着いてきた。子供らしい細い手が必死にステラの服を掴む。
「朝、ママが……怖い人達に……。ママが、昨日のお兄さんとお姉さんのところに行きなさいって……。お願い、ママを助けて……」
スンスンと鼻を啜りながらにメイヤが必死で説明をする。
どうやら朝方アニス達のもとに国の警備が訪れたらしく、その際アニスはメイヤを家の裏口から逃がしたのだという。
ステラ達を頼るように告げたのは匿ってくれると信じたからだろう。それに、仮にメイヤを捕まえようと警備が動いても、旅行客には無理強いは出来ないはずだ。
「メイヤちゃん、もう大丈夫よ。怖かったでしょう。よく頑張ったね」
泣くのを堪えて震えるメイヤに、ステラがたまらなくなり彼女をぎゅうと抱きしめた。
母を連れていかれ、一人でホテルに来るまでにどれだけ不安だったか……。立ち止まり泣きじゃくってもおかしくないのに、彼女は母の言葉を信じ、そしてステラ達の助けを求めてこのホテルまで来たのだ。
その信頼を、勇気を、裏切るなど出来るわけがない。何があっても守ってみせると決意すれば、抱きしめる腕に力が入る。
「ステラ、王宮に行こう。何が起こっているか分からないが、少なくとも旅行客には危害は加えないだろう」
「はい、参りましょう。食事は人を笑顔にさせるもの、食が理由で幼い子供が泣くなど許せません」
「ガードナー家を名乗れば王宮にいけるはずだ。家名を盾にするのは気が引けるが、この状況下なら遠慮なく使わせて貰おう」
どうやらオーランドもこの事態には腹を立てているようで、彼の口調は厳しさを感じさせる。普段の穏やかなものとは違い表情も険しく見える。勇ましく、なんて男らしいのか。
ステラもまた彼の勇ましさに倣うように気持ちを奮い立たせ、「直ぐに準備をしてまいります」と一度部屋へと戻った。
締めかけた扉の隙間から、メイヤが小さく呟いた「ママを助けて……」というか細い懇願の声が聞こえてくる。青ざめた彼女の頬には今もバッテンマークが印されており、その光景のなんと腹立たしいことか。
手早く準備を整え王宮へと向かえば、当然だが警備に止められる。とりわけステラとメイヤの頬にはバッテンマークが印されているのだから、警備の対応が厳しくなるのも――不服だが――当然だ。
だがそれに対し、オーランドが冷ややかに割って入った。
「俺の連れに無礼を働くな」
彼らしからぬ厳しい口調。表情は険しく、威圧的に警備を睨みつける。
これには警備も警戒の標的をオーランドへと変えたが、凛とした態度で彼が名乗れば一転して慌てて頭を下げた。
ガードナー家の名前は海を渡った灼熱の国でも通用する。それもオーランドの頬には何のマークも無いのだ。
警備が横暴な態度を取れるわけがなく、恭しく頭を下げて「ご案内します」と歩き出した。ステラがほっと安堵の息を吐き、不安そうに自分にしがみつくメイヤの頭を撫でた。
警備員に連れられ、調度品で飾られた王宮内を歩く。
赤を基調としている城内はカルカッタらしく、とりわけ通路に敷かれた赤い絨毯は歩くのが惜しいほど豪華だ。
まるで真っ赤な海を歩いているようで、こんな事態でなければゆっくりと進んで堪能していただろう。
「でもこんなにあっさり入れるなんて。さすがぼっちゃま……。いえ、辛口派のオーランド様」
「その褒め方は今は皮肉にしかならないな」
先程まで険しい表情をしていたオーランドが、ステラの冗談に苦笑を浮かべる。
だがすぐさま表情を戻してしまったのは、警備が足を止めたからだ。
豪華な王宮内で、とりわけ造りの良い扉。奥では女王クロリエと、そして『今朝捕えられた女性』が居るのだという。
ステラがごくりと生唾を飲んだ。
緊急事態だと慌ててここまで来てしまったが、策もなければ、事態の理解すらしていない。そもそもこの扉の向こうで捕らえられている女性というのが本当にアニスかどうかも分からないのだ。
もしや無謀な行動をしているのでは? 一国の女王に無礼を働いて罪に問われたら……と、今更な不安が過ぎる。
だがそんなステラの不安を他所に、オーランドは真っすぐに扉を見つめ、それどころか己の拳で扉をノックした。
中から返事が聞こえ、ゆっくりと扉が開かれる。
室内は赤で統一された厳かな造りをしており、入室を躊躇われるほどの重苦しい空気が漂っていた。
部屋の中央にアニスの姿があり、ステラは小さく息を呑んだ。居てよかった、とは思えない。なにせ彼女は身体的な捕縛こそされていないが屈強な男に左右を囲まれており、そして正面には一人の女性が立っている。
老年ながらに品の良い美しさを感じさせる。突然の来訪者に驚きつつも厳しく睨み付けてくる瞳、佇まいから相応の身分だと……否、彼女こそが女王クロリエだと分かる。
真っ赤な口紅を塗られた唇に目が行く。睨み付けてくる瞳の鋭さは吹き抜ける熱風のように容赦がない。
彼女がこの国を治める女王。フロランの母親。メイヤの祖母。
……そしてこの辛さ至上主義の原因。
「謁見の申し出を許した覚えはありませんが」
「スレダリアのオーランド・ガードナーと申します。突然の訪問をお許しください」
「いったい何の用かしら」
「知人が捕縛されたと聞き、急ぎ駆けつけました」
オーランドの視線がアニスへと向けられる。
青ざめていた彼女は困惑の表情を浮かべつつ、オーランドとステラ……そしてステラの足元にしがみつくメイヤへと視線を向けた。
きっと今すぐに駆けつけ抱きしめたいのだろう。もちろんメイヤとて今すぐに母の元へ駆け寄りたいに決まっている。それが分かってもステラはメイヤの肩に手を添え、「まだ少し待っていて」と小声で告げた。
「この女は身分を弁えず、あろうことか我が息子フロランを誑かしました。それは罰せられるべきこと。ですが私は恩情を与えようと彼女を呼んだだけです」
「……恩情?」
「えぇ、今一度己の身分を省みる機会を与えようと」
女王が赤い唇で弧を描いた。灼熱の地においてゾクリと冷たいものが背を走るような、美しいが冷えついた笑みだ。
それとほぼ同時に扉が開き、一人の使いが恭しく頭を下げて入室してきた。
カラカラと音をたてて押すワゴンには、深皿に盛られたスープ……。
ではない、カレーだ。
片方はまるで炎のように赤く、これは尋常ではない辛さだと一目で分かる。
それどころかふわりと漂う香りすらも辛く、ステラが慌てて鼻を押さえた。匂いを嗅いだだけで鼻腔から喉まで焼かれそうだ。慌てて鞄からハンカチを取り出し、足元で震えるメイヤに渡す。
これには流石にオーランドも頬を引きつらせ、「まさか……」と呟いた。
「このカレーは特注の辛さ、我が王族しか食べられる者はおりません。辛い物こそ至高、辛い物を食べられる一族こそ上に立つ者。もしこの女が我が息子であり王子の伴侶だと言うのなら、これを食べられるはずです」
「そんな、馬鹿げている。貴方は食べ物の辛さで息子の幸せに口を挟むというのか」
「息子の幸せを願うからこそ、不釣り合いな者と添い遂げるなど許せないのです。夫亡き今、息子も、そしてこの国も、私が守ります」
「守る手段がこの格差か。食べ物の好みで人を縛り付けていったい何を守れる」
「ここはカルカッタ、従うべきはカルカッタの基準です。ガードナー家と言えども貴方はただの旅客、あれこれ言われる筋合いはありません」
きっぱりと言い捨て、女王が手配をするようにとメイドに告げる。
皿に盛ろうとするメイドの手が震えている。薄手の手袋をつけているのは肌に触れまいとしているか。それほどまでなのかと考えれば、ステラの背筋に寒気が走る。
「安心なさい。辛ければもう一枚の皿に甘口のカレーをよそっています。特注の、カレーなどとは呼べないような甘口のカレーです。無理だと認めてそちらを食べればいいんです」
それがまるで優しさだと言いたげにクロリエが告げる。だがアニスが辛口のカレーを拒否して甘口を食べれば、フロランには釣り合わないと断言するのだろう。彼女の望みはそれだ。
つまりアニスには辛口カレーを食べるしか道はない。だがあのカレーは特注、それも王族しか食べられない辛さ。
甘口派からしてみればもはや恐怖と言える。アニスは青ざめ、それでも目の前のカレーを食べるためにスプーンへと手を伸ばした。
だが食べられるわけがない。ステラが彼女を案じ、制止しようとし……、
「そこまでだ!」
勢いよく開かれた扉の音と、そして怒声に、ビクリと体を震わせて出かけた言葉を飲み込んだ。