5:カレーとナンと焼きリンゴ
買い物を終えて宿に戻り、テーブルに料理を並べていく。
辛口のカレーと甘口のカレー、見た目は殆ど同じなのに辛さは倍も違うというのだから、なんとも恐ろしいものだ。
思わずステラが何度も「こっちはオーランド様の! こっちは私の!」と指差し確認をしてしまった。――オーランドはカレーの中でも辛めのものを頼んだというではないか、これは間違えられない――
カレーに沿えるのは、ナンと呼ばれる平たいパン。
パンと言えばふっくら柔らかなイメージしかなかったステラは、その大きさと平たさに思わず目を丸くさせてしまった。運んでいる最中に潰してしまったのかと思ったほどだ。
「カウンターから焼いているところが見えたが、生地を振り回すように素早く左右に持ち替えて広げるんだ」
「こねるのではなく振り回すんですか? パンを焼いたことはありますが、いかにふっくら柔らかくするかばかり考えていました」
こんな形もあったのかと、ステラがナンを眺めつつ皿に載せる。
……だがここで問題が発生した。
「どうしましょう、お皿からはみ出してしまいます。切りましょうか?」
「いや、それで良いみたいだ。どのテーブルを見てもナンが皿からはみ出ていたし、そういうものらしい」
「なんと、お皿殺しですね」
メイドのステラからしてみれば、皿から料理がはみ出るなど許せるわけがない。
見た目が悪いし、テーブルを汚してしまう。そもそも相手に対しても失礼だ。
だがカレーとナンの組み合わせではこれが正解というではないか。
ならばカルカッタの流儀に従おうと、一回りほど小さな皿にナンを乗せた。四方八方がはみ出ている。
「これがカルカッタ流……。なんだか私、はしたない事をしている気分です」
「あぁ、俺もなんだか落ち着かない。不思議な気分だ」
そんな話をしつつ、他の料理もと並べていく。
副菜にサラダと、オーランドが見繕ってくれたサイドメニュー。辛く下地を着けた鶏肉には焼く際にチーズをたっぷりと乗せており、辛さが和らいでいるという。赤く染まった鶏肉に黄色いチーズがふんだんに盛られ、トロリと端が零れる様は鮮やかで食欲を誘う。
サラダも肉も乱雑に切るのがカルカッタ流らしく、皿に収まらぬナンと言い全体的に豪快で大胆な印象を受ける。
デザートには焼いた林檎。それに飲み物……とあれこれと並べれば中々豪華な夕食ではないか。そのうえふわりとスパイスの香りが鼻をくすぐるので、これは視覚と嗅覚で空腹を覚えてしまう。
「さぁぼっちゃま、召し上がりましょう」
「そうだな。……だけどぼっちゃまと呼ばれていると、どっちが俺のカレーだったか分からなくなってしまいそうだ」
「オーランド様!」
オーランドの言葉に、ステラが慌てて呼び直す。
慌てて「冷めない内に食べましょう!」と急かし、自分のカレーが置かれた席に着いた。もちろん機嫌を損ねたオーランドに皿を入れ替えられない内にである。
必死なその態度にオーランドが笑みを零し、続くように席に着く。
「このナンというのを手でちぎってカレーにつけるんですよね」
「あぁ、そのはずだ。……これは辛い。凄く辛い」
「辛い!? ぼっちゃま大丈夫ですか!?」
先に一口食べたオーランドが発した言葉に、ステラが慌てて水を飲むように促す。
オーランドはわざわざ辛いものを指定して購入したのだというから、ステラからしてみれば自殺行為も同然だ。どれだけ辛いのか想像しただけで汗がでる。
だが当のオーランドはといえば、
「辛いが、手が止まらなくなる。それにこのナンっていうのも程よい堅さで食べ応えがある」
気に入ったのかナンを千切ってはカレーをつけて口に運んで……とご満悦に食べ続けている。
普段は優雅に食事を勧める彼がらしくなくせっせと手を動かしているのは、それほどまでにカレーを気に入ったからか。もしくは、ナンが皿からはみでて肉も野菜も乱雑にカットされた大胆な盛り付けが、気品より食欲を駆り立てるのか。
オーランドのこの食べっぷりに、ステラはきょとんと眼を丸くさせた。
心配したのが空回りだ。
だが無事で何よりと安堵の息を吐き、次いで手元のカレーに視線を向けた。いまだ食べ続けているオーランドに倣い、一口サイズにナンをちぎってカレーを付ける。
「では私も一口……。こ、これは!」
「ステラ、大丈夫か?」
「美味しいです! ほんのりとした辛さが一瞬口に広がるものの、まろやかで、甘みもあります!」
検査の時に食べた辛いカレーとは違い、なるほど確かにこれは甘口だとステラが頷きつつもう一口食べた。
砂糖菓子やクリームのような甘さではなく、確かに味わいの中にスパイスの気配はするし、辛さもある。それでも甘いと感じるのは、辛さをバターやチーズでまろやかにしているからだろうか。
それにオーランドが言った通り、ナンは平たく食べ応えがある。一口サイズに千切ってカレーを付けただけで、まるで絶品料理を頬張ったかのような満足感だ。
「これは手が止まらなくなりますね」
「こっちの鶏肉も甘辛くて良いな。どれも味が濃いがくどさが無い」
「まぁぼっちゃまってば、先程までお皿から出ていたナンがもう小さくなっていますよ」
気付けば、あれだけ皿の上で四方八方飛び出していたナンが今は半分以下になり、大人しく皿の中に納まっているではないか。だがステラの皿もほぼ同様、食べるスピードの差ゆえにまだ少し皿よりナンの方が大きいが、当初の半分程度だろう。
つまりそれほどまでに食が進んでいたということだ。
この食べる速度は優雅とは言い難い。
だがそれが分かっても手が止まらないのだ。程よいスパイスの辛さ、それでいてすぐさま辛さを円やかにしてくれる甘み、ナンの歯ごたえ、どれも絶品で一口また一口と食が進む。
時折はたっぷりとチーズを付けた鶏肉を堪能し、再びカレーに戻る……。
そうして気付けば、大きいと思っていたナンは最後の一欠けらになっていた。器に残っていたルーを掬うようにつけて食べれば、溢れんばかりに盛っていた皿が綺麗さっぱり片付いている。
食べ終えた満腹感と、皿が綺麗になったことへの達成感が胸に湧く。
「あんなに大きかったナンを食べてしまうなんて。思った以上に食が進んでしまいました」
「あぁ、最初にナンを見た時は飽きるかと思ったが、そんな事は無かったな」
「お腹いっぱいで、もう一口も食べられません……」
「ステラ、デザートは」
「食べましょう!」
デザートと聞き、ステラの瞳が輝きだす。
先程までは満腹でこれ以上は食べられないと感じていたが、デザートは別腹である。
満席だったはずの舞台に予備席が設けられるようなものだ。いや、デザートは予備席とは別、VIP席といっても過言ではない。
そう訴えつつデザートに買った焼き林檎を皿によそえば、オーランドが楽しそうに笑った。
「リンゴを焼くなんて想像が出来ませんね」
「あぁ、それに焼いたからか随分と柔らかい」
「私そのままの林檎が好きですから、焼いた林檎を受け入れられるか……美味しい!」
「直ぐに受け入れられたな」
良かった、とオーランドが笑い、自分もと焼き林檎を一口分切り分けると口をつけた。「美味しい」という彼の言葉に、既に三口目を飲み込んだステラが頷いて返す。
林檎はシャクシャクとした歯ごたえとさっぱりとした甘さが魅力だと思ったが、焼くとドロリとした柔らかさと濃い甘さが出てくる。そのうえシナモンと呼ばれる香辛料は香りが強く、より甘さが強調されている。
柔らかく、濃厚に甘く、香りが強く、温かい。
本来の林檎とは真逆の存在ではないか。それでいて林檎の風味は失われていない。むしろ色濃くなっている。
なんとも不思議で、そして美味しい。
「レシピを聞いて、スレダリアで林檎を焼きましょう。きっと皆驚きますね!」
「あぁ、厨房が騒然とするだろうな」
「焼こうとしたらシェフに止められるかもしれません。その時は証言をお願いしますね。これはガードナー家厨房の革命です!」
大袈裟にステラが伝えれば、オーランドが微笑む。
そうしてもう一口食べ、焼き林檎を眺め、目の当たりにするまで想像だにしなかった調理法と味わいに「確かに革命だ」と頷いた。
食事を終えて自室へと向かい、就寝の準備を進める。
じわりと汗を掻く日中と違い、カルカッタの夜は思ったよりも涼しい。
日中の暑さと体に籠もった熱をシャワーで冷まし、窓から入り込む涼やかな風を受ければ特上の心地よさである。暑さで眠れないかと危惧していたが、これは眠れないどころかグッスリと快眠だろう。
ナイトウェアもゆったりとした造りをしており、疲れた体を優しく包んでくれる。
快適に眠り、朝になればまた暑くなる。
これこそカルカッタの魅力なのだろう。
「このおかしな格差さえなければ素敵な国なのに」
不満を呟き、頬を擦う。
入念に顔を洗っても落ちなかった、忌々しいバッテンマーク。この印をつけられた旅行客は出国の際に特殊な薬品で落としてもらうという。
なんという手間だろうか。そこまでして格差を強いて何になるというのか。
「食べ物の好みで国が争うなんて、今まで考えた事もなかったわ……」
切なげに溜息を吐き、ステラはベッドに横になった。