2:辛い格差
「思い出した。あの料理はカレー、カルカッタの主食であり名産だ」
本で読んだ、と話すオーランドに、隣を歩くステラがハンカチで右頬を拭いながら「随分と攻撃的な食べ物でしたね」と不満げに返す。
次いでポシェットから手鏡を取り出して覗き込み……溜息を吐いた。
いまだステラの右頬には大きな『×』マークが描かれており、ハンカチで拭っても濡らしてみても消えるどころか薄くすらならないのだ。こんなものをワンピースにつけられたらと思うとゾッとする。
「前に客人から聞いたんだが、カルカッタはカレー主義、というより辛さ至上主義。ここ数十年で辛さをもとにした格差社会にまでなっているらしい」
「なるほど、それで辛いものが食べられない私には烙印が……。酷い話です」
右頬を軽くペチンと叩きながらステラが不満を訴える。
曰くこの×マークは『辛い者が食べられない者』を示す烙印。特殊な顔料のため消すことは出来ず、隠すことも許されない。
出国の際には消して貰えるらしいが、たとえ旅行客といえどもカルカッタ滞在中は烙印を背負い続けなければならないという。
まるで犯罪者のような扱いではないか。それも『辛いものが食べられない』等という判断基準なのだから、これは食への冒涜だ。スレダリアの細身少食信仰にうんざりとしていたが、カルカッタに比べればマシである。
「カルカッタは灼熱の素敵な国だと聞いていましたが、まさかこんな失礼な国だなんて。スレダリアに戻ったら皆に伝えなくてはいけませんね」
そうステラが訴えつつ、周囲の様子を窺った。
赤褐色の煉瓦を貴重とした家造りはカルカッタの特徴とも言えるだろう。町並みが赤で統一されたその景色は圧巻と言え、カラっとした暑さと相まって灼熱の国と言われている。暑さで汗をかくがそれによる不快感は無く、汗を拭えば爽快感さえ味わえる。
もしも何もなければ、この灼熱の光景に見惚れ、そして暑さすらも受け入れていただろう。自国スレダリアは寒暖の差が無くカルカッタほど暑くなる事はないため、暑さで汗を掻くのもまた新鮮だ。
だが頬にバッテンマークを負い、先程のオーランドの話を聞き、どうにも落ち着かない。なにせ辛いものが食べられないステラはカルカッタでは下層に位置する。
さすがに危険な目にまでは合わないだろうが、それでも初めて訪れる国でこの扱いなのだから、不安になるのも仕方あるまい。
「それならカルカッタには一泊だけして、明日の朝には出国しよう。カルカッタは辛い食べ物が好まれるんだ、ステラの目的もここじゃ果たせないだろ」
「そうですね、この国ではあまり美味しいものは食べられそうにありません。……いえ、私の目的は結婚相手探しです!」
はたと我に返ってステラが慌てて訂正する。
またも目的を見失いかけていたが、ステラの目的は結婚相手探し。スレダリアには居ない、肉付きが良くても食いしん坊でも愛してくれる男性を探しに世界に旅立ったのだ。
美味しいものはついでである。あくまで旅のおまけ。
「結婚相手を探しつつ、世界の美味しいものを食べるんです。優先順位は結婚相手です! スレダリアにはいない、食いしん坊でも良いと言ってくれる男性です!」
「……ステラが気付いてないだけで、スレダリアにだって居るんだが」
「あらぼっちゃま、何か仰いましたか?」
「……いや、何でもない。それより、ステラの目的が結婚相手探しだとしてもカルカッタでは困難だろう」
「そうですね。この国では私は身分が低いようですから、辛いものが好きな殿方に見初められても格差を強いられるかもしれません。食の好みが夫婦の亀裂を生むなんて悲しすぎます」
「俺はカレーは美味しく食べたが、辛いものが特別好きなわけじゃないからな!」
慌ててフォローを入れてくるオーランドに、ステラはきょとんと眼を丸くさせて彼を見上げた。
突然どうしたのか。だが確かに、先程の検査でオーランドはカレーを好んでいた。それどころかもっと食べたそうにしていた。おかげで彼の頬にはバッテンのマークは印されていない。
「ぼっちゃま、どうなさいました?」
「い、いや、……俺とステラの間に好みの違いがあると勘違いされたらと思って。ほら、勘違いしていたら今後の旅に支障が出るかもしれないだろ?」
「まぁ大丈夫ですよ。私が何年ガードナー家にお仕えしていると思っているんですか? ぼっちゃまの好みは熟知しております」
「そうか……。俺の好みは熟知してるんだな。なのにどうして伝わらないのか……」
「何か仰いました?」
「何でもない。それよりステラ、今日の宿を……」
今日の宿を決めてしまおう、そう言いかけたオーランドが足を止めた。
つられてステラも足を止め、彼の視線の先を追う。
そこに居たのは、店先で佇む女性。年はステラよりいくつか上だろうか。傍らには五歳程度の少女が立っており、怯えるように女性にぴったりとくっついている。
何かを話しているのか、店の中から男が半身乗り出してきた。恰幅の良い男だ。
疑問を抱きつつオーランドとステラが近付けば、女性が「お願いします」と懇願の言葉を男に対して告げた。
「娘はここで扱っている咳止めしかきかないんです。どうか売ってください」
「あんたもしつこいな。他のお客さんの迷惑になるから帰ってくれ」
「そんな……。お金は倍払いますから!」
「甘口派にものを売ったらうちの評判に関わる。子供に酷い真似なんてしたくないんだ、頼むからさっさと帰ってくれ」
懇願する女性に対し、男は頑として拒否の姿勢を見せている。だがどこか困ったような表情をしており、早く帰ってくれと女性を急かしている。
これ以上粘るなら強硬手段に出ざるを得ない、だがそれはしたくない……と、そう言いたげだ。
これには堪らずステラが仲裁に入った。オーランドも同様、女性とステラを庇うように男の前に立った。
「何が原因か知らないが、女性相手になんて物言いだ。金は払うと言っているんだから、咳止めぐらい売ってやれば良いじゃないか」
「あんた旅の人か? 国の事情が分からないなら口を挟まないでくれ。そっちのお嬢さんは甘口派だろ? 余計なことをすると旅行客と言えども痛い目を見るぞ」
「俺が居るんだ、ステラをそんな目に合わせるものか」
はっきりとオーランドが断言する。
そんな彼に庇われつつ、ステラは女性を支えるように腕をとった。彼女の足元では少女が隠れるように寄り添っており、その表情には怯えの色さえ見える。
時折苦しげにケホケホと咳込んでおり、こんな少女に咳止めを売らないとは非道な話ではないか。
ステラがしゃがみこみ、少女の目線に合わせると共に肩を撫でてやり「ぼっちゃまが……オーランド様が来たから大丈夫よ」と宥めてやった。
しかし甘口派とはどういうことか。
もしかしてこれかしら……とステラが己の頬を軽く撫でた。
見れば、女性の頬にも同じようにバッテンマークが印されている。それどころか少女の頬にも。どちらもステラと同じものだ。
辛いものが食べられないだけで頬に印をつけられ、咳止めすら売ってもらえない……。
「カルカッタ……なんて恐ろしい国なのかしら……」
思わずステラが呟けば、オーランドも理解したのか「それなら」と上着から財布を取り出した。
「俺が咳止めを買おう。俺が買ったものを俺がどうしようが、店主には関係ないだろう」
「そ、そうか……。そうしてくれるなら問題は無い」
今包んでくる、と男がさっさと店へと戻っていく。どことなく安堵したような表情で、それどころか品物を渡す際にはオーランドに対して「すまないな」と謝罪の言葉すら口にしてきた。
その様子に、ステラの胸に疑問が湧く。
男は咳止めを女性に売るまいとしていた。あれはどれだけ頼んでも折れたりしなかっただろう。食い下がれば強硬手段に出ていたかもしれない。
だが拒否する表情にはどこか苦悶の色があり、オーランドが代理購入を名乗り出るとあっさりと品を売ってくれた。今ではオーランドの対応を喜んでいるようにさえ見えるのだ。
カルカッタは辛さ至上主義の格差社会。
それゆえに女性が迫害を受けているのだとしたら、男の態度は中途半端ではないか。
あれではまるで、誰かに迫害を強要させられているようだ。
「どういう事かしら……」
ステラが呟けば、女性が「あの……」と小さく声を掛けてきた。
不安そうな表情ながらにじっとこちらを見つめてくる。ステラの頬を見て、次いでオーランドへと視線を向ける。きっと彼の頬を確認しているのだろう。
「ご迷惑をお掛けして申し訳ございません」
「大事なくて良かったです。ねぇぼっちゃま」
「ステラ、ぼっちゃまは……いや今は後回しだ。それより、俺達はこの国について詳しくないんだ。よければ教えてくれないだろうか」
オーランドが頼めば、女性が頷いて返した。