05:魚のような速さで遠泳中
「凄いな、本当に真っ暗だ」
「何もないですねぇ」
穏やかに言葉を交わしながら、二人揃って窓の外を覗く。
場所は変わって船内のティーサロン。
美味しい夕食を堪能し、ステラが意気揚々とオーランドを連れてこのサロンに足を踏み入れたのだ。もちろん「ぼっちゃまが誘ってくださったので、私の食べ過ぎはぼっちゃまのせいですよ」という言い訳も忘れない。
ティーサロンはレストランほど格調高い雰囲気はなく、スレダリアにある喫茶店を彷彿とさせる。ふわりと紅茶の香りが漂い、それについ引かれて立ち寄ってしまうような店構えだ。
そんな店内の窓辺の席に二人で座り、紅茶を飲みつつ流れていく景色を眺める。既に日は落ち周囲は暗く、街灯も何もない海はただの暗闇だ。覗き込めば白い波が船の速度を訴えるように流れていくが、それ以外に視界に映るものはない。
目につくものは満天の星と月だけ。だがそれが逆に二人には珍しかった。
「周囲に明かりがないから、月と星が普段よりもはっきりと見えますね。こんなに真っ暗な中で空を見るのは初めてです」
紅茶を片手に、ステラが窓越しに夜の空を見上げた。
真っ暗な海面は境目なく夜空に溶けている。星と月が浮かび、なにものにも邪魔されることなく輝く様に思わず吐息が漏れた。
「普段よりも月も星も大きく見えますね。周囲が暗いからでしょうか」
「そうだな。街灯も何もない本当の夜の暗さだ」
「これが夜の暗さ……。以前にスレダリアで停電が起こった際、これほど暗くなるのかと驚きましたが、今思うと非常灯がついて足元は見えていましたものね。今の海の暗さは比べものになりません」
「あの時にこれほど暗かったら誰も動けなかったな。真っ暗なガードナー家にステラの悲鳴だけがずっと響いていたかも」
その光景を想像したのか、オーランドが小さく笑みをこぼす。
対してステラは自身が笑われていると不満もあらわに、「そんなに叫んだりはしません」と訴えた。といっても、以前に停電が起こった際にステラが誰よりも甲高く叫んだのは事実であり、そのことを掘り返されると反論出来なくなってしまう。
これは否定するより別の話に変えた方が先だろう、そうステラが判断し何か話題を変える切っ掛けは無いかと周囲を見回していると「ご一緒してもいいかしら」と背後から声を掛けられた。
振り返れば、濃紺のドレスに身を包んで穏やかに微笑むカルテア。
隣に立つのは彼の夫だろう。妻と揃えた濃紺のスーツを纏い、白髪の髪が渋さを感じさせるロマンスグレーの紳士だ。
二人の登場に、ステラが嬉しくなって立ち上がる。なんて素敵な助け舟だろうか。
「マダム、是非一緒に話をしましょう!」
「ありがとう。若い子と話をするのも船旅の楽しみの一つなの。ねぇあなた、さっき話していたお嬢さんよ」
「ぼっちゃま……オーランド様、こちらが先程お話したカルテア様です」
ステラとカルテアが互いに連れを紹介し合う。
オーランドが立ち上がり、カルテアの夫へ挨拶をすると共に片手を差し出した。
カルテアの夫の名は、マルド・ルテンバール。その名を聞き、オーランドが驚いたと言いたげに彼の名を口にした。ステラも同様に「まぁ」と小さく声を上げてカルテアを見る。
ルテンバール家と言えば、大陸を一つ挟んだ先で繁栄する家だ。スレダリアでも名が知れ渡っている、それほどの名家である。
「さすが世界中を回るセントレイア号、まさかルテンバール家の方と会えるなんて」
「船の旅はこれがあるから面白い。スレダリアのガードナー家の話は我が国でも聞いている。是非これを機に親交を」
「光栄です」
途端に身分に合った挨拶を交わす二人に、ステラがほぅと吐息を漏らした。こういった社交の場でのオーランドの対応は礼儀正しく落ち着きがあり、まさに名家嫡男の立ち振る舞いだ。
その姿は堂に入っており、ガードナー家当主を名乗ってもおかしくないだろう。
だがカルテアは彼らのやりとりが不満なのか、メニューを見ながらまったくと言いたげな表情を浮かべた。
「男って直ぐに真面目な話をしたがるのよね」
「まぁマダムってば」
「良いのよ。仕事だの疲れるだの言っても、結局は真面目な話が好きなんだから。女がすぐに綺麗なものと甘いスイーツの話をするようにね」
クスクスと笑い、カルテアが片手をあげて給仕を呼ぶ。
彼女が頼んだのは紅茶とタルト。これは自分の分だろう。次いでマルドに確認することもなくコーヒーとマフィンを注文するのは、なんとも長年連れ添った夫婦らしい。
給仕がステラに視線を向けてくる。「お客様は?」と視線で問われ、思わずチョコレートケーキを一つ注文してしまった。
「オーランド様は何か召し上がりますか? お飲み物は?」
「いや、俺は平気だ。ステラ、ケーキは一つで良いのか? さっき三種類のケーキで悩んでいたじゃないか」
「だ、大丈夫ですよ! もう、恥ずかしい話をしないでくださいな」
オーランドに茶化され、ステラがテーブルに置かれたままの皿を慌てて給仕に渡した。デザート用のフォークがそえられただけの空の皿。
このティーサロンに来た際、紅茶と共にシフォンケーキを注文をしたのだ。チョコレートケーキと紅茶ケーキとシフォンケーキで悩み、決断の末にシフォンケーキを注文した。
それを食べ終えての先程の注文……。二つ目だということがバレてしまい、ステラの頬がほんのりと赤くなる。夕食を食べた直後だというのにこの食欲。
「ですが、私は今海を渡っているんです。お腹が空いて甘いものが食べたくなって当然です」
「ステラは座ってるだけじゃないか?」
「いいえ、海を渡っています。それも魚のような速さで。ですから疲れた体には美味しいチョコレートケーキが必要なんです」
そう言い切れば、オーランドが窓の外を覗き込んで「なるほどすごい速さだ」と苦笑を漏らした。
確かにステラの言う通り、魚のような速さで海を進んでいる。波をあげ、白い泡を後方へと押し流しながら。
……もちろん、セントレイア号が、だが。
このやりとりに、カルテアが楽しげに笑いだした。コロコロと上品な笑い方はさすが名家夫人だが、目元をハンカチで拭っているあたり本当に楽しかったのだろう。
「同じ年代の人と腰を据えて話をするのもいいけれど、若い人たちの話は笑いに溢れていて楽しいわ。だから私、若い人達が乗り込むといつも探して話しかけるの。ねぇあなた」
「あぁ、最近では船員が『夫人好みの若者が乗ってきましたよ』と教えてくれるんだ。それを聞いた妻の嬉しそうな表情と言ったら無い」
「まぁ、そんなに長くこの船に?」
「一室を買い取ってこの船に住んでいるんだ」
愛おしそうに船内を眺めながら話すマルドの言葉に、ステラとオーランドが顔を見合わせた。
乗船時に船員から聞いた『この船で生活している夫婦』というのが、まさかマルドとカルテアの事だったなんて……。
聞けば一年の殆どをセントレイア号で過ごし、母国の港についた時だけ降りるのだという。それだって家族への顔見せ程度で、数日は母国で過ごすものの直ぐにセントレイア号を追いかけて乗り込むのだという。
その際、船に戻ってきた夫婦を船員達が「おかえりなさい」と出迎えるのだからよっぽどだ。
家督は息子に譲り、船の上で夫婦寄り添って隠居生活。なんて素敵な話だろうか。
「陸地の旅行は自分達で移動しなきゃいけないでしょ。でも船なら世界中に運んでくれるし、待っているだけで新しい人達と出会えるの」
上機嫌にカルテアが話す。
その話にステラは焦がれるように吐息を漏らし、「スレダリアの話を聞かせて」と彼女に強請られて話し出した。