01:食いしん坊メイド
ガードナー家に仕えるメイドのステラの朝は、あたたかな湯気をあげる紅茶から始まる。
ポチャンと角砂糖を二つ落とし、お茶請けにはドライフルーツの乗ったクッキー。寝起きのぼんやりとした思考を甘いものが覚醒させてくれる。眠気と布団への未練を紅茶と共に飲み込めば、意識はもう仕事モードだ。
手早く身形を整え、赤い髪を三つ編みにまとめ、メイド服を纏う。その間にもクッキーを一枚サクリと食べ、最後の仕上げにと姿見の前で身嗜みのチェック。ヘッドドレスは曲がっていないか、メイド服とエプロンに皺や汚れは無いか、くるりと一度回って念入りに確認する。
メイドは清潔感が大事だ。だらしないメイドがいては屋敷の品位を損ね、主人の評判さえ落としかねない。
部屋を出てすれ違う者達と挨拶を交わし、夜間の勤めを終えた者を労いながら食堂へ向かう。
しっかり食べねばメイドの勤めは果たせない。どんなに眠い朝でもしっかり食べる、これがステラのモットーだ。
今朝のメニューは歯応えのある肉厚なベーコンと、ぷっくりと黄身の膨らんだ目玉焼き。それと焼きたてのクロワッサン。もちろん健康のためサラダも忘れない。
そのうえ食後にはパティシエ試作のケーキ。甘さ控え目なケーキが砂糖二つ溶かした甘い紅茶によく合う。
そうして食事を終えたステラが向かうのは、ガードナー家の子息であるオーランドの部屋。
ノックをして扉を開ければ、既に彼は着替えを終えてソファーで本を読んでいた。黒髪黒目の端正な顔つき、普段は勇ましく、本を読んでいる時は知的さを漂わせる。
「おはようございます、ぼっちゃま」
「おはよう、ステラ。ところで、いつも言ってるがぼっちゃまは止めてくれないかな」
もう大人なんだし、と告げてくるオーランドに、ステラは謝罪と共に頭を下げた。
もっとも、謝罪こそしたが顔を上げると共に、
「では朝食の用意を致しますね、ぼっちゃま」
と言ってしまうのだ。「あら」とステラが慌ててぱたと口元を押さえる。
だが十年彼に仕え、そしてその年月彼を「ぼっちゃま」と呼んでいたのだ。これを直すのは難しい話である。
再びステラが謝罪すれば、オーランドが諦め半分といった表情で肩を竦めて「善処してくれ」と告げてきた。そうして用意された朝食をとるためにテーブルにつく。
「ステラ、一緒にどうだ?」
「まぁ、よろしいんですか?」
オーランドの誘いに、ステラがパッと表情を明るくさせた。次いでティーワゴンからマフィンと紅茶を用意する。
ちゃっかりと自分用の軽食を用意しているのは、このやりとりがいつもの事、毎朝彼と共に食事をしているからだ。
「おはようございます、ぼっちゃま」から始まり、彼に「ぼっちゃまと呼ばないでくれ」と窘められ、そして食事に誘われて共にテーブルを囲む……。
ここまでがステラの朝の日課とさえ言えるだろう。
「優しいぼっちゃまに仕えられて、私は幸せで胸もお腹もいっぱいです」
「だからぼっちゃまと呼ばないでくれ」
「あら」
またしても、とステラがわざとらしく口元を押さえれば、オーランドが楽しそうに笑った。
その顔はどこか幼さを残しており、ステラにとってはやはりぼっちゃまなのだ。
もとより、ステラとオーランドの間には三歳の年齢差がある。そのうえステラは彼が六歳の頃から世話役をしており、当時は身長だってステラの方が高かった。
ステラにとってオーランドは仕えるべき主人であり、そして守るべき弟のような愛しい存在でもあるのだ。
そう話せば、オーランドが釈然としないと言いたげに表情をしかめた。「年齢差なんて埋めようがない」という彼の呟きは、どこか拗ねているように聞こえる。
「ぼっちゃま……いえ、オーランド様どうなさいましたか?」
「ステラ、俺はもう十六歳だ。社交界デビューもとっくに済ませたし、ステラと出会った六歳の時より比べるまでもなく背も大きくなった」
「そうですねぇ、同じ年頃のご子息様と並んでも一番背が高いですものね」
「跡取りには申し分ないと言われている。父さんが生涯現役をモットーに掲げてなければ、もう跡を継いでいてもおかしくない」
「旦那様は活力に満ちておりますからねぇ」
「同年代の男より男らしくなった、もう立派な男だ。だからステラ……!」
意を決したと言わんばかりに、ガタッと勢いよくオーランドが立ち上がる。
だがその瞬間、ほぼ同じタイミングでステラが、
「ぼっちゃまはピーマンも食べられるようになりましたものねぇ」
と間延びした声をあげた。
次いで再び呼び違えてしまった事に気付き「あら」と口元を押さえ、砂糖菓子を一つ取り出してそっと彼のティートレーに添えた。詫びの品である。
ピンクの花を型取った愛らしい砂糖菓子。「これでどうかお許しください」という深い謝罪の言葉に、オーランドがしばし硬直し……ストンと腰を下ろした。
「そうだな……ピーマンか、懐かしい……」
「夏祭りにどうしても行きたいと仰って、旦那様がピーマンを食べられるようになったらと条件を付けたんですよね」
「あぁ、ピーマン一つにつきステラが祭に十分付き合ってくれるという条件でな。おかげで山のようにピーマンを食べ、気付いたら克服してた」
「本当にぼっちゃまはたくさんピーマンを食べられて、夜の花火も見ましたね」
懐かしい、とステラが表情を綻ばせる。
対してオーランドが苦虫を噛み潰したような表情を浮かべたのは、この作戦は使えると両親やメイド長が判断し、それ以降やたらとステラを餌に苦手なものを克服させられたからだ。
おかげでピーマンをはじめ苦手な食べ物はなくなり、それどころか苦手だった水泳も出来るようになった。もちろん、嫌いな分野の勉強もしたし当時まだ興味の薄かった家業の手伝いもさせられた。
あれもこれも、ステラの名前を出されるとオーランドは拒否出来ないのだ。おかげで今では万能とさえ言われている。
だというのにステラは「ぼっちゃま……オーランド様はお祭りが好きなんですね」と、この状態である。
「……あぁ、好きだな。大好きだ」
「いつも私を誘ってくださって、おかげで楽しい思い出がいっぱいです」
かつてのお祭りを思い出してステラが嬉しそうに微笑むが、そこに色恋めいたものはいっさい無い。オーランドがガクリと肩を落とす。
対してステラはいまだ思い出に耽り、ついつい二つ目のマフィンを完食してしまった。記憶を辿るには脳を使う、脳を使えば甘いものが食べたくなる、その結果だ。
そうしてはたと我に返り、慌てて時計を見上げた。
「まぁこんな時間、仕事に戻らせて頂きますね」
「午後は贈答品の整理をしたいから、時間があれば手伝ってくれ」
「かしこまりました。では失礼致します」
手早く食器を片付け、紅茶を一杯淹れ直してティーワゴンと共に退室する。
その際オーランドに呼び止められ、ステラは足を止めると共に首を傾げた。
「どうなさいました? クッキーをお持ち致しましょうか?」
「いやお茶請けがほしいわけじゃない。……その、今年の夏祭りもステラを誘うから、予定を空けておいてくれ」
オーランドに告げられ、ステラが表情を明るくさせた。「かしこまりました」と返す声が弾んでしまう。
それと同時に思い出されるのは、祭の前のひと騒動。苦手なものを克服しようと奮闘するオーランドと、それを見守り応援する屋敷の者達……。ガードナー家の風物詩だ。
「今年は何を克服されるんですか?」
クスクスと笑いながらステラが尋ねる。
「ぼっちゃま」と呼びこそしているが、オーランドはもう立派な大人だ。社交界デビューを果たして随分経つし、デビューの時だって誰もが感嘆の吐息を漏らすほどの振る舞いを見せていた。家業の手伝いも、私生活も、克服すべき点など見受けられない。
だからこそあえてステラが冗談交じりに問えば、オーランドが大袈裟に肩を竦めた。
「今年こそ土壇場で怖気づく性格を克服すべきだな」
「まぁ、ぼっちゃま……オーランド様はそんな怖気づくような性格ではありませんよ。勇気のあるお方です」
「ある一点に関してはそうでもないんだよなぁ……。まぁとにかく、今日の午後は手伝いを頼む」
頭を掻きながら告げてくるオーランドに、ステラは恭しく頭を下げて返事をする。
そうして部屋を出て、扉を閉めると共に首を傾げた。
「ある一点とは何かしら?」
ピーマンを嫌い水泳を苦手としていた幼い頃ならまだしも、今のオーランドは逞しい青年だ。同年代の子息よりも内面も外見も立派に育っている。
長く彼の成長を見守っていたが、怖気づくところなどここ数年見ていない。
去年ステラが虫を見つけて悲鳴をあげた時も駆けつけてくれたし、一昨年酷い台風がきて屋敷が停電になった時もステラの悲鳴を聞きつけて来てくれた。停電に怯えるメイド達を宥め、復旧までの指示を出す、その姿は落ち着き払っており見る者に頼りがいを感じさせ、暗闇への不安など一瞬にして吹き飛んでしまったのだ。
だというのに彼は自らを「怖気づく性格」と言っていた。いったい何に対して怖気づくというのか。
(ぼっちゃまのことなら知り尽くしていると思っていたのに……)
そんなことを考えつつ、ステラはティーワゴンを押しながら仕事へと戻っていった。
「今年こそいけると思う?」
「いや、きっと今年も無理じゃないかしら」
というメイド仲間達の声は、あいにくとステラの耳には届かなかった。