ミャエンバッハの森 2
ミャエンバッハは神の森だという。
だが、ピルムにはその森全体が何か悪い気を発しているように見えてならなかった。
ピルムは瞬きをし、深呼吸をし、背伸びをしてみたけれど、まったくその印象は変わらない。
葉と葉がふれあうざわざわという音。地面から漂ってくる青くささ。それらは森の姿として正しいもの、神がつくりたもうた大地のあるべき姿のはずなのだが、ピルムはどうしてもこの森の雰囲気になじめなかった。
「ピルム、大丈夫か?」
ゴッズが肩に手をおいてくれる。ゴッズの手は頼りがいがあり、ごつごつしていて、温かかった。
「ゴッズ、もう帰ってくれない?」
ゴッズは急に悲しげな顔になった。ピルムは慌てて言いなおす。
「そうじゃないんだ。このままだと決心が鈍る。ただでさえこの森に飲みこまれてしまいそうなのに。ゴッズがいると僕は絶対にゴッズの優しさに甘えてしまう」
「でも、俺は……」
「行けよ!」
ピルムは叫んだ。
「行け! 行ってしまえ」
ゴッズはおずおずと馬をつないでいた大木のもとに戻った。ゴッズはピルムが森へ入り、見えなくなってしまうまで寂しそうに手を振っていたが、ピルムがそれに気づくことはなかった。
この先入るべからず。
ミャエンバッハの森に書かれてあるこの立て札をピルムは見たことがある気がした。
もしかすると、いなくなった両親に連れられてきたのかもしれない。それとも長老に連れてこられたのか。
ピルムはどうしても思い出すことができなかった。
ただ、ここに入ってはならないということは強く憶えていた。記憶というよりも感覚に刻みつけられていた。
ピルムは恐る恐るその立て札を通り越した。
鳥の鳴き声が急に大きくなった。先ほどから感じていた不気味な感覚もさらに鋭くなった。
ピルムはあたりを警戒しながら一歩一歩進んでいく。
道らしきものはあるものの、丈の高い草に覆い隠されてまったく先が見えなかった。
ピルムは長老からもらった剣を抜いた。
その剣で行く手をさえぎる草むらをなぎ払いながら、道を作っていく。
そのとき、ピルムの顔の前に何か緑色のものが飛び出してきた。
「ひっ!」
ピルムは思わずのけぞる。
「……なんだ、蛙か」
ピルムはほっと胸をなで下ろしたが、蛙のこちらを見すえる目にぎょっとした。
その目は血のように真っ赤な色をしていた。蛙はピルムの周りをぴょんぴょん跳び回ると、グワェ、グワェという身体が凍りつくような声で鳴いた。
「あっちへ行け!」
ピルムはがむしゃらに剣を振り回した。蛙はとくに慌てることもなくゆっくりと草むらの中へ消えた。
ピルムはまだこの森に入ってから数十歩ほどしか進んでいなかったが、背中にびっしょりと汗をかいていた。この森を早く出て行くことで頭がいっぱいになっていた。
ピルムは森のあちこちで、草むらが動き、枝葉が騒ぎ、地面が揺れ動く、そのたびごとに使い慣れていない剣を構えなければならなかった。
ピルムはゴッズを追い返したことを後悔し始めた。
ゴッズがいてくれたら、バグニダッドがいてくれたら、長老がいてくれたら、せめてマーシャがいてくれたら、どんなにか気持ちが楽になるだろう。
だが、かたわらにその誰もがいないことを思い出すと、肌に貼りついている恐怖がいちだんと強くなるのだった。
突然、うなり声が聞こえた。
ピルムは剣を鞘から抜き、正面に向かって構えた。
だが、どうやらうなり声は別の方向から聞こえてくるらしい。
ピルムは自分の身体を回転させながら、未知の敵への攻撃に備えた。
汗がしたたり落ちて、乾いた地面を点々と濡らした。
一秒、十秒、一分。
何も起こらないまま時間が過ぎていく。
いつの間にかうなり声らしきものも消えていた。
「なんだ、そら耳か」
ピルムはだらりと剣を降ろした。
その刹那、大きな咆哮が響いた。
ピルムは後ろを振り返る。
大きな、真っ黒の物体がこちらへ飛びかかってくる。
「う、うわあ……」
ピルムは尻もちをついた。
その姿勢から相手を見上げる。
それは犬だった。
恐ろしく巨大な犬だった。その大きさはピルムの身体の二倍をゆうに越えていた。
倒れたまま、震える手でどうにか剣先をその巨大な犬の鼻先に向けた。
犬の目は、先ほどのカエルと同じように赤く、爛爛と燃えていた。
その吐き出す息は、嵐が吹くように、むき出しの牙はナイフのように鋭かった。
「なんだ、あの犬は。どうしてあんな姿をしてるんだ」
ピルムは誰ともなしに問いかけた。
「妖化しているのだ」
「え?」
隣に見知らぬ男が立っていた。
「地が穢されると、生きとし生けるものは病み、心まで冒され、妖しに取りこまれる。取りこまれた生き物は心を奪われ、凶暴になり、最後には身体までもが禍々《まがまが》しく変態してしまう。これを妖化という」
「あなたは……」
男は年のころ四十ばかり。目は虚ろで、ひげや眉毛には白いものが混じっていた。男が纏う一つなぎの服は、薄汚れており、ところどころ穴があいていた。なによりも男は森の中だというのに裸足のままだった。その両足の腱のあたりに何かの植物の蔓がこともなげに結わえられていた。
「今はお互い名乗りをあげている場合ではなかろう」
男の言うとおり、「妖化」した犬は絶えずこちらを鋭くにらんでいた。今にもピルムの喉笛に食らいつかんとばかりに身構え、低いうなり声をあげている。
「あんな化け物をどうやって追い払うんです?」
「追い払うのではない。こちらが気配を絶つのだ。相手を変えるより、こちらが変わる方がたやすい。私についてきなさい」
男はまっすぐに大犬のところに突き進むと、そのままその脇を通り抜けていく。
「私のうしろについていれば大丈夫だ。あまり離れすぎないように。それから騒いでもだめだ。できるだけ静かにしていなさい。それだけでいい」
男は再びピルムの前に戻ってくると、ついてくるようにうながした。
ピルムは小さくうなずき、おそるおそる男のあとに従った。
犬のうなり声はおさまっていた。巨大な犬はきょろきょろとあたりを見回していたが、しばらくするとあきらめて立ち去っていった。
ピルムは立て続けに起こる出来事にあっけにとられていたが、男の歩みが意外に速いので、あわてて駆け足でそのあとを追った。
藪を踏みわけていくごとに、鴉ほどに巨大な蝙蝠が空を覆い尽くし、ピルムの背丈と同じほどの蜘蛛に驚かされ、人一人はゆうに飲みこめそうな大蛇が二人の前を横切ったが、男は顔色一つ変えることなく奥へ奥へと進んでいく。
ピルムは気を失ってしまいそうになったが、男がまったく足をとめようとしないので、唇を噛みながら、地面を踏みしめた。
「天領であるミャエンバッハの森でさえこのありさまとはな」
男は歩きながらつぶやいた。それはピルムに向かっていったようにも聞こえたし、独り言のようにも聞こえた。
「天領?」
「神は御身の五体を海に捧げられ、初めに五つの地を作られた。この五地を特に天領という。天領は特に神に近い地であるがゆえに神聖であり、邪気をよせつけない。このミャエンバッハの森もその天領の一つだ。おまえの生まれたマヤエ村はその入り口にあたる。村の東方に祠があるのも神のまします森を守るためなのだ」
「あなたは僕を知ってるんですか?」
ピルムは男に聞いたが、答えが返ってくることはなかった。