Welcome to our party
”You can check out any time you like, but you can never leave"
By Eagles "Hotel California"
手入れの行き届かず、留まることを知らぬ成長に即して繁茂した雑草は風に吹かれ、あどけなさと無邪気さを全面に押し出して囁くようにように揺れていた。鬱蒼と茂る森林は梢を太陽に向かって懸命に伸ばし、少しでもチップを弾んでもらおうとするボーイのように健気に日差しを受けようとしていた。かさかさに乾いて捲れ上がった皮膚のように、何層にも積み重なった落ち葉は木の根元を覆っていて、戦い抜いた歴戦の強者のように僅かに差し込む日差しは空中の塵を煌々と照らし出し、漂う金の粒は粉々になった水晶のように煌めいていて、神秘的で冒涜し難い神殿に迷い込んだかような幻想を抱かせるほどだった。広い間隔をおいてポツリと立っている極めて広い庭を持つ郊外の邸宅は、何年も前から放棄されたかのように手入れを怠っていて、白い漆喰は剥げ落ち、瓦屋根は台風にでも吹かれたかのように荒んでいた。一つ一つの邸宅は些細な違いこそあれ、同じ人間によって同時進行的に建設されたかのようにその大部分の様相は画一的で、古風な趣味の良い建築だった。そこに住んでいそうな人間の遅くはない結末を体現しているかのような凋落ぶりはまるでこれから死人が一人でて、犯人探しが始まりそうな雰囲気を醸し出していた。未だ砂埃を舞い上げる轍はまるで涸れ川のようで、一筋に伸び、侵食してくる背の高い雑草を意に介せずに島の中心部から岬に至る道を繋いでいた。もうう何年も誰も通っていない取り残されたような寂しさは、広々として遮るもの一つない鳥瞰写真の美しくも桃源郷のように遠く触れ難い儚さをより際立たせていた。
私はくしゃくしゃになるまで何度も見返したパンフレットを改めて見つめた。フォントは無数に走る蜘蛛の糸のような複雑な折り目で判読しにくくなり、魅力を振りまきながらも決して扇動的に陥らない拡大された写真は手の汗で褪せて見えた。しかしその島の美しさはそのような障害でいとも簡単に屈するような弱々しいものではなかった。顔を上げて現実の光景と比べてみて、私はその確信を一層強くした。
太陽を貪欲に吸収している茫洋とした海は、掴めなさそうな煌めきを陽炎のようにゆらゆらと踊らせて、東洋的な艶かしい魅力を何の衒いもなく存分に振りまいていた。陸と海との寒暖差で海から陸に忍び込むように吹く風は、海面を撫で付け、千切りしたかのように細い波を浜辺に運んでいた。崖に打ち寄せる波はその気力の残滓であるかのような白い泡を残し、やがてそれも消えていった。限りなく続く水平線は海の青と空の青とを区切っていて、この島が周囲から孤立した場所であるという現実的認識を強めるよりもむしろ、都市の雑踏を離れて自由になったという感が爽快感を伴って体全体を包んだ。深呼吸を一つして、この鋭く暖かい空気を肺に満たして、大声をあげて走り出したい気分だった。
今ではもはや写真の上でしかその存在を感じられない青春が私の背中を押しているようだった。排気と紫煙に覆われた都市の喧騒に色褪せた若かりし頃の清々しいまでの気力と善意が奔流するように身体中に満ち満ちていて、亀の甲羅のように背中に背負っていた責任や尊厳や規律などが掃討されて、心なしか精神的にも身体的にも負担を感じなくなっていた。むしろ着ている服の方が重く、暑苦しかった。私は周囲を見回した。
水平線のような直線的な広がりではなかったが、わずかな起伏を除いて、平原はなだらかにどこまでも広がっているかのように思えた。私は急速に自分の存在を矮小に感じ、恒久的な平和をのびやかに楽しんでいる自然を目の前にして少々気恥ずかしい思いでいた。現実的な、言い換えれば社会に毒された、そんな人間に育ってしまった私は我が母なる大地の偉大さとその神聖さに諭されているかのようで、自分という存在が揺らいでいたのだ。私のような薬瓶に浸かっていたかのような人間が果たしてこの大いなる自然の庇護を受けていいものだろうか。私にはどこまでも煙たい沈鬱な都市の空気がお似合いではないのか。身動きが取れずに、お得意先の態度を伺って頭を下げるような機械部品のような生活以外を考えてはいけないのではないだろうか。
とその時、私を乗せて来てくれたフェリーの操縦士が桟橋に降り立ち、私に対して声をかけてきた。トランプの女帝のようなそっけない声だった。
「お客さん、本当にここで降りてもいいのかえ?」
私は驚いて振り返った。胡乱な目つきで私を眺めていた男は、ひどい訛りのある言葉で質問をもう一度繰り返した。
「う、うん。もちろん。そのためにわざわざ休暇を取ってきたんだからね」
「へえそうですかえ」
男は質問をしたものの、答えには大して興味がないようだった。職務上の規則として顧客から確認の現地を取っておきたいというだけの理由であるのは間違いなかった。
長い船上の暮らしから小麦色に焼けた肌は、活発で健康そうであったが、その始終不機嫌そうな顔と酒と煙草でしわがれた声を聞けば、彼らから連想するものは不快な印象でしかなかった。顎の線はキリッとしていて鋭かったが、それが彼の顔のパーツのうちで唯一描写に値した。弛んだ頬には常にウイスキーが回っているかのように赤みがさし、潰されたかのように広い鼻の下の髭は捨て犬の毛のように薄汚れていた。目はとろんとしていて判然とせず、額の線は一日ごとに増えていくかのようだった。潮風に傷んだ肌と髪の毛はがさがさと乾燥していてやすりのようだった。血液の半分以上がアルコールでできている人間だった。
フェリーは安く譲り受けたものらしく、所々錆びついて、剥がれ落ちていて、発進するときに金属的な気味の悪い音が鳴った。いつ壊れるかわからない恐怖から、私は船旅の最中、事あるごとに案じていたが、その心配は最終的には杞憂に終わった。だが、帰れるかどうかはまた別の話だ。
私は珈琲を零したかのような汚れが目立つ薄汚いベットが並んでいる部屋を思い出した。天井に垂れ下がっているランプはどこか不気味に思え、まるで何かの儀式を覗き見しているかのような不気味さがあった。おそらく前の客のものであろう汗と油をバターのように塗りたくった枕と固いベットに体を預けて約一週間。肩と腰が夜になると喧しく叩かれているかのように痛んだ。甲板に寝た方がまだ寝心地がいいに違いなかったが、夜になるとそれなりに冷えるという大酒飲みの助言は真に迫っていたので、選択の余地はなかった。一種隔離された狭い空間で彼と一緒にいるのはあまり喜ばしい事でなかったが、彼も私のことが好きでないらしく積極的に話しかけて来ようとはしなかった。私は水平線を眇めて、いつか見えるだろう島の景色に思いを馳せていた。これからの休暇を考えれば船上の生活は我慢できるものであった。私が過ごした船上の生活は、どこまでも平面的で断片的で無機質な鳩の餌のような食事と変わることのない光景が全てだったのだ。
白鳥が空中で弧を描いて悠々と飛んでいる背景は、壊れかけのフェリーにも、すでに壊れた男にも似つかわしくなかったが、私にとっては福音であるかのように神々しく見えた。私は彼を麦わら帽子を片手で押さえて、こちらに微笑みを向けるワンピース姿の少女だと想像してみたが、彼の男子便所のような雰囲気はそれを妨げた。
「わかっているとは思いますが、次の便は一ヶ月後ですからぜ。あなたが何を言おうとそれは変わりませんし、あなたが何も言わなくても変えるつもりはありませんぜ」
「そう念押しされなくてもわかっているよ。ただそういうからには一ヶ月後には必ずきてもらわなければ困るよ」
「私をどう思っているでせえ?」
「酒飲み」
彼は苦笑して見せたが、それはただ醜いだけだった。彼は酒のせいで哀れで退廃的な雰囲気があり、どこか同情したくなるところがないでもないが、酒がなければただの醜い男だった。だがそんな彼でも今の私は抱擁してあげられるほどの余裕があった。優しい巨人にでもなった気分だった。
「間違ってはないですがねえ」
「ともかく、私を送ってくれてありがとう。きっと道中はお互い不満を溜め込んでいただろうけれど、この優しさに満ちた景観に免じて許し合おうじゃないか」
私たちは握手を交わした後、気恥ずかしげにお互いを見つめた。じっとみているとこれでなかなか愛嬌のあるやつなのではないかと思った。
「それじゃ旦那、達者で」
「うん、君も」
そうして我々は別れた。彼はこちらを振り返ることはなかったし、私はフェリーが去っていくのを見つめていたけれど、それは決して彼をみているわけではなかった。彼はもはや私にとって意味はなく、彼にとって私にはもはや価値がないのだった。我々が昼夜を共にした相手はもはや記憶上で空白と化し、あと一時間もすれば次に会っても誰かは判別できなくなるであろう。それは多少の誇張があるが、少なくともお互いに白紙の透明存在であることは認識を共有しているに違いない。私はたっぷり十分間その場に立ち尽くした。そうして、くるりと振り返って、一歩を踏み出した。あまりにも頼りなく、それでいて期待と希望に満ちた一歩だった。