第一章6 『優先順位』
少し時間が巻き戻ります。
「はぁっ、はぁっ……」
高校棟の廊下を、仁は無我夢中で走っていた。
「――ま、待って時枝くん」
何なんだあれは。超能力者って何なんだ。
見た瞬間に本能が訴えかけてきた。あの少女は危険だ。関わってはいけないと。とりあえずどこか遠くへ逃げなくては。仁は階段を全力で駆け降りた。
「待ってよ、時枝くん!」
2階の躍り場で握っていた手を強引に振りほどかれた。振り返ると、宮坂が珍しく怒った顔をしていた。
「何で柏木くんを見捨てたの!」
「はっ、何の事だ? って、おい……嘘だろ?」
蒼に言われて初めて、玲生がいないという事に気付いた。視界が真っ暗になった。
「あ、あのときならまだ助けられたかもしれないのに!」
まさか……そんな。俺は玲生を……大切な友人を……
「わ、私やっぱり助けに行く!」
「待て、それは駄目だ」
仁は、廊下を引き返そうとした蒼の腕をかろうじて掴んだ。
「離してよ!」
蒼は仁の手を振り切ろうとして暴れたが、仁はしっかり握って離さない。
……それだけは駄目だ。蒼だけはなんとしても守るんだ。――楓さんとの約束だから。
蒼はしばらくすると抵抗するのをやめてうなだれた。
「どうして私はまた誰かを失うの…… 超能力って何なの…… お姉ちゃん……」
お姉ちゃん…… 蒼の呟きが頭の中で反響する。
蒼の姉の楓さんは、二年前に家族にも事情を話さないまま、突然姿を消してしまった。
楓さんが失踪した前日の夕方、仁はメールで楓さんに呼び出された。
(ねえ仁くん。蒼を守ってあげてくれる?)
(えっ、突然何ですか。……まあ、別にいいですけど)
(そっかぁ、よかったー これで私も安心して……)
(どうしたんですか?)
(ううん。何でもない。それじゃあ私はもう帰るね。お休みー)
(え、もう? あっ、お、お休みなさい)
楓さんと会ったのはそれが最後だった。
仁はそれからずっと、楓さんとの約束を忠実に守っている。
「どうして助けに行かないの? 柏木くんは親友なんでしょ? いつも楽しそうに話していたじゃない!」
蒼の言葉が胸に深く突き刺さった。それでも…… 仁は蒼の目の前で手を広げて立ち塞がった。
「ああ、俺にとってはな。でも蒼は怜生となんの関わりも無いだろ」
「っつ! 最低! 時枝くんなんて知らない」
蒼は仁の頬を叩くと、廊下を逆の方向に走り出した
仁は広げていた手を下ろして、その場にしゃがみこんだ。
これでいいんだ……
これで…… すまん、玲生…… 本当にすまん。
でもこれで俺は宮坂を――
「きゃあ!」
突然、蒼の悲鳴が聞こえた。そして次の瞬間、どさりと鈍い音をたてて宮坂の身体が仁の目の前に転がってきた。
「えっ……?」
何が起こったのかわからなかった。
「蒼……?」
おそるおそる、宮坂の身体に手を伸ばした。強めに肩を揺すってみたが、何の反応もなかった。背中を冷たい汗が流れた。
「おい、蒼!」
蒼の口に耳を当て、呼吸を確かめようとした時、ゾクリと背筋が凍るような嫌な感覚を覚えた。反射的に顔を上げると、フードを被った男が右手を突き出しながら歩いて来ていた。
「あれー、情報と違うな。ガキはいないんじゃ無かったっけ? まあ、邪魔なやつは殺しちゃっても良いよな。」
男がニヤニヤと笑いながらそう言うのを聞いて、仁の頭は怒りで沸騰した。
「よくも…… よくも蒼を!」
……誰だか知らないけど、絶対に許さない。頭の形が変形するまで殴って、蒼を傷付けた事を後悔させてやる。
体が勝手に動いた。一直線に男の元へ走り出す。しかし、仁が走ってくるのを見ても、男はニヤニヤと笑いながら廊下を歩いていた。
「死ねぇぇええ!!!」
五メートルの距離まで近付いた仁は拳を振り上げた。しかし、男が不敵な笑みを浮かべた次の瞬間、仁の体は宙を舞い、数十メートル先の地面に叩きつけられた。
「がはっ!」
体中の酸素が叩き出され、仁は呻き声をあげた。すぐには起き上がれそうにも無かった。
「ふはははは! 能力も使えないただのガキが調子に乗ってんじゃねーよ」
男は廊下に仰向けに倒れこんだ仁を一瞥すると、倒れている蒼の前まで歩いて行き、顔を覗きこんだ。
「あれ? この子、よく見たら意外と可愛いじゃん。せっかくだから少し味見しちゃおっかな」
男はじゅるりと汚い音をたてて舌なめずりした。
「――や、めろ」
叫ぼうとしたが掠れた声しか出なかった。助けに行きたいのに体が動かない。
男がゆっくりと蒼の服に手を伸ばした。
次の瞬間――
突然、視界が黒く染まった。
何も見えない。何も聞こえない。まるで無限の宇宙に放り出されたような感覚だった。
不意に体を誰かに持ち上げられた。叫び声をあげたはずなのに、何故か声にならなかった。仁はそのまま何処かへ運ばれていき、直後、仁は光の中に飛び出した。
「はぁっ、はぁ」
仁は大きく息を吸いこんだ。暗闇の中で、自然と息を止めてしまっていたようだ。
「おい時枝、怪我は無いか?」
なぜか、頭上から霧島先生の声が聞こえた。不思議に思って顔を上げると、霧島先生の端整な顔が至近距離に存在した。体の温度が急激に上昇していく。仁は霧島先生から離れようとしたが、脚が空をきってうまくいかなかった。
「おい、あまり暴れると放り投げるぞ」
そう言われてからやっと、仁はお姫さま抱っこをされている事に気付いた。
「あの、俺は大丈夫なんでもうおろして下さい! そ、それより蒼を!」
仁の必死な訴えを聞いて、霧島先生は俺を廊下の隅に静かに下ろした。そして、憎々しげな表情でフードを被った男の方へ向き直った。
「ちっ、勘の鋭いやつめ」
廊下の壁には霧島先生が投げたナイフが斜めに突き刺さっていた。
「いやー、危ない危ない。響子ちゃんは気配が無いから恐いなぁ。それにしても、響子ちゃんは生徒想いなんだね。俺、感動しちゃったよ。でもいくら響子ちゃんでも、ガキを抱えたまま俺から逃げるのは無理なんじゃないの?」
「おい、クズ野郎。 他の生徒にも危害を加えたのか」
霧島先生は男の質問には答えず、そう聞いた。
「えー、ガキが他にもいたのかよー 面倒くさいなー ていうか、クズ野郎ってひどくない? やっぱりお仕置きが必要だね」
男の言葉を聞いて、霧島先生は小さく安堵のため息をついた。
「そうか。それならとっととコイツをぶちのめさないとな」
「んー? でも響子ちゃんじゃ俺に勝てないでしょ?」
「そうかもな。私だけならな」
「はっ? どういう…… あぁ?」
霧島先生の後ろに漂っていた闇がざわめくように揺れたかと思うと、一瞬のうちに霧散し、後には蒼を両手で抱えた一人の茶髪の女性が残されていた。
「久し振りねぇ、南雲くん。あなたぁいつ見ても気持ち悪いわねぇ」
白浜先生は蒼を仁の隣に優しく下ろすと、男の方に向き直った。
「まあ、それはともかくぅ、
私の生徒を傷付けて、ただですむと思うなよ?」
いつもは優しい白浜先生の表情がガラリと変わり、猛烈な殺気が溢れだした。白浜先生が左手を握り締めると、龍のように激しい赤い炎が拳を覆った。霧島先生の両手にも、いつの間にか白銀のナイフが握られていた。
「えー、めんどくさいなー。でも、これは僕もちょっと本気を出さないといけないみたいだね」
男はポケットから黒い手袋を取り出して両手にはめると、顔からヘラヘラとした笑みが消えた。
次の瞬間、男の起こした爆発音を引き金に、激しい戦闘が始まった。