第一章4 『少女の素顔』
「立てる?」
女神様が見かけによらず可愛らしい声で僕に話しかけてきた。白くて綺麗な手が僕に差し出される。
「えっ……?」
一瞬、何をされているのか解らなかった。
「ほらっ」
女神様が伸ばした手を僕の顔の前で小刻みに動かした。
「あ、ありがとうございます……」
僕は女神様の手を掴んで立ち上がった。意外にも女神様の手はほんのり温かかった。
「さっきはごめんなさい。悪気は無かったの」
「え、えっと、何の事でしょうか?」
「君にいきなりアイススピアーを打ってしまったから。でも、君もいきなり手を伸ばして近づいたりしちゃ駄目だよ。誤解されちゃうよ」
「は、はい。わかりました。これからは気を付けます、女神様!」
よくわからないけど、女神様は僕を殺そうとしたわけでは無いのか。良かった……。
「ちょっと待って、女神様って私の事? やめてよ、私はただの転校生よ」
「で、ですが……」
「堅苦しい言葉も禁止! えっと、そっか……まだ名乗って無かったよね。私の名前は朝比奈汐里」
「えっと、あさひ――」
「汐里で良いわ。それで、君は?」
「あ、はい! か、柏木玲生です」
「そっか。よろしくね、玲生くん」
「よ、よろしく、あさ、あ、えっと、汐里さん」
「うん!」
汐里さんは屈託の無い笑顔を浮かべた。女神様だと思って怖れていたのが嘘のようで、自然と僕も打ち解けていった。
*
霧島先生に言われたとおり、僕は汐里さんに校内を一通り案内することにした。六朝高校は校舎が広いうえに複雑だから、全ての場所を案内するには時間がかかるけど、僕も聞きたいことがたくさんあったから逆に都合が良かった。
「それで、玲生くん達は何であんなに慌ててたの?」
僕が話しかけるより先に汐里さんに質問されてしまった。
「えっと、それは……」
殺されると思って逃げようとしたなんて恥ずかしくて言えないな。落ち着いて話してみればただの超絶美少女だもんな……
「一緒にいた二人はどこに行っちゃったの? あの二人はその、くらすめいと、なの?」
僕が返答に困って口をつぐんでいると、汐里さんは立て続けに質問を重ねてきた。
ていうか、そうだ! 仁のやつ友達を一人残して逃げやがって! 絶対許さないからな! 中指を顔の前に立てて、「ふっ、お前の犠牲は無駄にはしない」と呟く仁の姿が思い浮かんだ。頭の中で仁を滅多刺しにして心を落ち着かせてから、汐里さんの質問に答えた。
「男の方は時枝仁。僕のクラスメイトです。仁は女性恐怖症でね、幼なじみの宮坂さんとしか会話出来ないんだ。だから汐里さんを見て慌てて逃げたんだと思うよ。あっ、一緒にいた女子が宮坂さんね」
ふっ、ざまあみろだ仁。これで汐里さんの中で仁の印象は最悪になっただろう。僕は内心でほくそ笑んだ。
「そっか、やっぱり私って恐いんだ…… 研究所でもいつも怖がられてたし……」
あれ? なんか僕まずい事言った? 汐里さんがうつむきながら呟くのを聞いて僕は慌ててフォローした。
「いやいや、違うよ! 仁は女性だったら誰でも苦手なんだよ。 汐里さんみたいな可愛い女の子を怖がるなんてほんとどうかしてるよね!」
はぁー、嘘なんてつくもんじゃ無いな。僕は小さく息をついた。
あれ? 急に隣から足音が聞こえなくなったので後ろを振り返ると、なぜか汐里さんが足を止めて顔を赤らめていた。
「え、そ、そんなの早すぎるよ…… まだ出会ったばかりなのに……」
汐里さんは何かを呟きながら胸の前でもじもじと両手を絡ませた。
「えっ、どうかしたの?」
僕が近付こうとすると、汐里さんはさらに動揺して顔を赤らめた。
「め、目を瞑って」
「え、えっと……」
「早く!」
「は、はい!」
何がなんだかさっぱりわからないけど、僕は言われるがままに目を瞑った。数秒の間が経って、もう目を開けてもいいかなと思った時、突然僕の頬がひんやりとした手に包み込まれて、次の瞬間、僕の唇に柔らかい何かが押し付けられた。
「◎▲◇?!」
驚いて目を開けると汐里さんの顔が僕の目の前にあり、互いの唇が触れ合っていた。
「はっ?! えぇ?!」
顔の温度が猛烈な勢いで上昇していく。もしかして、僕は今キスされている? 汐里さんは僕の事が好きなのか? いやいや、ちょっと待て落ち着け童貞、そんなわけ無いでしょ。僕たち今日初めて出会ったばかりだし。いや、そうとも限らないぞ。もしかしたら昔どこかで会っていて…… って、そんな事どうでもいいよ! とりあえず、僕は今すごくいけない事をしている気がする。
僕は無我夢中で汐里さんの手から脱出しようとした。
「ちょ、ちょっと! そんなに動かないでよ。私だって恥ずかしいのよ」
汐里さんが僕の頬を両手で挟み込んだまま、拗ねたような表情で僕の顔を覗きこんでくる。
ヤバい。これ以上はほんとにまずい。理性が抑えきれなくなりそうだ。
僕は強引に汐里さんの手を振り払い、素早く距離を取った。
「あっ……」
汐里さんが悲しそうな顔をして僕の方を見ている。
ちょっと待って、なんか僕が悪いみたいじゃないか! ……いや、もしかしたらほんとに僕が悪いのか? あー、もう! 頭がこんがらがってきた!
「ひどいよ玲生くん…… 私、初めてだったのに……」
汐里さんが咎めるように僕を見つめてくる。
僕のファーストキスも豪快に奪われたんだけど?! と、とりあえずこのままじゃまずい。
「え、えっと、何で突然僕にキスしたんですか?」
「何でって、どういう事?」
……どうやら、僕と汐里さんの間には致命的なすれ違いがあるらしい。
「いや、出会ったばかりの男性にいきなりキスするのはどう考えてもおかしいですよ」
「え? だって、男の人って、女性に可愛いって言ったらキスするんでしょ?」
汐里さんは両手の指を絡ませて、はにかみながらそう言った。
「……はっ?」
僕の中の時間が凍結した。頭が理解することを拒んでいる。
えっと、うん。聞き間違えだよな。
「ちょっと待って、よく聞こえなかった。もう一度言ってもらっていい?」
「えっ、だから、男の人に可愛いって言われたらキスするんでしょ?」
あっ、これ駄目なやつだ。
「じ、冗談だよね?」
藁にもすがる思いで確認した。
「冗談なんかじゃ無いよ! わ、私、真剣だったのに……」
汐里さんは穢れの無い綺麗な青い瞳に涙を滲ませて僕を睨んだ。
あー、もう勘弁してよー! 意味わからないよ! この子を女神様なんて呼んでいた自分を殴りたいよ!
僕は頭を抱えてしゃがみこんだ。
「えっ、大丈夫?」
汐里さんが手をパタパタして慌てている。
僕に気を使うくらいなら、自分の頭を心配して欲しいんだけど……
「うーん、あんまり大丈夫じゃないかも」
僕の苦笑いを見て、汐里さんから悲しみのオーラが溢れだした。
「そっか…… やっぱり嫌だったよね…… 私って恐ろしいから……」
何でそうなるの?! これ絶対僕悪くないよね?!
「いやいやいや! ぜんっぜん嫌じゃないよ! むしろご馳走さまだよ! でもさ、やっぱり合ったばかりの人にいきなりキスするのはおかしいと思うんだ」
「えっ、そうなの?!」
汐里さんは驚愕の表情を浮かべた。
えー…… 高校生として、この反応はさすがにヤバいんじゃないかな。まるでずっと城の中で生活していたお姫様みたいだ。過保護な皇族に変な知識をたくさん教え込まれたのかな。
「リーラからそう聞いたのに……」
おっと、犯人確定しちゃいました。リーラさん、あなたを美少女洗脳罪で逮捕します。って、ふざけてる場合じゃないな。とりあえず今の状態のお姫様を、この学校に入学させるのは危険すぎる。なんとか一般常識くらいは教えてあげないと……
って、そうか! ほんとにどこかの国のお姫様なのかもしれない。それなら、真っ白な髪も青い瞳も納得出来なくはないな。
「えっと汐里さん。君ってもしかしてどこかの国のお姫様?」
「えっ、違うよ? ただの転校生よ?」
ぐはっ! 僕の渾身の推理が…… いや、まだ諦めるのは早いぞ。 お姫様じゃなくて、金持ちの貴族のお嬢様かもしれない。
「もしかして、リーラさんって君のご親族さん? それともメイドだっ――」
「ぜんぜん違うよ。リーラは私の監察医なの。研究所で唯一私に優しく接してくれた大事な人なの」
くがぁ! ……そうだよな、朝比奈汐里ってどう考えても日本の名前だもんな。僕が馬鹿だったよ……
って、ん? 今何て言った? 監察医? 研究所? なんの事だろう。
「じゃあ、汐里さんはどこの高校から転校してきたの?」
「……」
僕はただ興味本意で聞いてみただけだったが、すぐに質問したことを後悔した。汐里さんから重苦しい緊張感と暑い夏にそぐわない冷気が溢れだしたからだ。
「超能力研究所よ」
「えっ?」
「あの忌々しい外道な研究所から一人で脱出してきたの」
汐里さんが廊下の壁を手のひらで叩いた瞬間、汐里さんを中心に強烈な冷気が吹き荒れ、半径一メートル位の範囲がピキピキと凍っていった。