プロローグ 『少女の逃亡』
蒸し風呂の中にいるように息苦しくて暑い夏の夜。両側に樹木が立ち並んだ薄暗い道を、一人の少女が息を切らせながら懸命に駆けていた。辺りに人影はなく、蝉の泣き声が辺り一面に響き渡っていた。
「はぁ、はぁ」
少女はぶかぶかの黒いコートを頭から羽織り、左手で胸の前にある裾を押さえていた。
「っぁあ!」
突然、すぐ近くで爆発が起き、少女は爆風で真横に三メートルほど吹き飛んだ。
「ふはははっ」
男の高笑いが闇のなかで不気味に響きわたり、少女が怯えたように後ろを振り返った。
暗くて顔はよく見えないが、灰色のスーツを着た170センチくらいの男が、右手を突き出しながらゆっくりと近づいて来ていた。
「まさか、この俺から逃げられるとでも思ったのか?」
「……!」
少女は無言で右手を伸ばし、白い氷の槍を男に向けて放った。とてつもない速度で打ち出された槍は、しかし、男の元にたどり着く前に、爆発によって撃ち落とされてしまった。
少女の顔がたちまち絶望に変わる。
「だからぁ、その槍は俺には効かないんだって」
男は笑いながら、さらに少女との距離を詰めていった。
少女はよろめきながら立ち上がると、左足を引きずりながら走り出した。
男が伸ばした右手の先の人差し指をピクリと動かすと、再び、少女のすぐ右側で爆発が起き、少女は地面に倒れこんだ。少女はうめき声をあげたものの、すぐに立ち上がると、後ろを振り返らずにまた走り出した。
「えー、まだ逃げるの? 面倒くさいなー まあ、じっくり追い詰めて、諦めるのを待つのも悪くないか」
男はニヤニヤと笑いながら、何度も何度も爆発を繰り返した。
*
「っぁあ!」
今度は頭のすぐ左で爆発が起こった。私は吹き飛ばされて、地面に頭を強く叩きつけられた。身体中が打ち付けられて、とてつもない痛みを感じる。もう力尽きてここで眠ってしまいたい。それでも何とか手で地面を押して立ち上がる。……もう、あの研究所には戻りたくない。私は後ろを振り返り、手を突きだしながら歩いて近づいてくる男を睨み付けた。
「へぇー、なかなか頑張るねー でももうそろそろ捕まってよ。もたもたしてると俺も怒られちゃうからさー」
身体はとっくに限界を越えていて、痛みに悲鳴をあげている。左足も思うように動かない。もうこれ以上、走って逃げるのは無理だ。ここであの男を倒すしかない。
「おっ、やっと捕まってくれる気になったかな?」
男がさらに近づいて来る。もう10メートル程の距離しかない。
私の槍が効かない事はもうわかっている。至近距離から打つことが出来れば…… いや、きっとあの男の爆発の方が早いから無理だ…… 考えて! あの男にも何か弱点あるはず! 今まであの男はどんな風に爆発させていた? あの男が爆発させる瞬間はまだ見てないけど、よく考えてみればずっと右手を前に突き出していたような気がする。今だってそう。もしかしたら、右手を伸ばしていないと爆発させられないのかもしれない。それなら……
「おっ、なんだよ? そんなに見つめられると照れちゃうぞ」
男はニヤニヤしながら、右手で頭をボリボリと掻いた。
いまだっ!
素早く右手から氷の槍を出現させて男に放つ。狙いは右肩。右手が使えなくなれば、もう爆発させられなくなるはず。肩なら万が一にも殺してしまうことは無いだろう。
白い槍が一直線に男の元に向かっていき、右肩に吸い込まれる……
そう思った瞬間、爆発音と同時に男の身体が右に大きく吹き飛んだ。
「危ない危ない。ちょっと油断したわ」
パンパンとスーツに付いた埃を払い、男は何事も無かったかのように立ち上がった。
「嘘…… 手を曲げてるときでも、爆発を使えるの……?」
頭の中で考えた事が、自然と声になって出ていた。
「ふはははっ。違う違う。確かに俺は、手を伸ばした先にしか爆発を起こせないよ。それに気付いた事は誉めてやる。でもな、考えなかったのか? 俺は左手もずっと伸ばしていたぜ?」
「……!」
完全に盲点だった。確かにあの男の左手は、だらりと地面に伸びていた。私は右手からしか槍を出せないから、能力というのはみんなそういうものだと思っていた。
「じゃあ、種明かしも済んだことだし、もう捕まってくれるよな?」
男は相変わらずニヤニヤと気持ちの悪い笑みを浮かべながら私に迫ってきた。もう5メートルほどの距離しかない。
「それにしても…… 君、可愛いね。研究所に連れて帰る前に、少しくらい味見しても怒られないかな?」
男がペロリと舌なめずりをした。 よだれが男の頬を伝い、地面にボチャッと落ちた。
「ひっ!」
嫌っ……! 男の豹変で頭が真っ白になった。無我夢中で男に槍を放ったが、当然のように空中で撃ち落とされてしまう。嫌っ! 眼から涙が零れた。
「ひゃああ! これはほんとに上玉だ!」
男が嬉々とした表情で私に手を伸ばした。
……次の瞬間、
「うぉぉぁあ!」
突然男の身体が後ろに吹き飛び、10メートルくらい後ろの空間に出現した黒い穴の中に、吸い込まれていった。涙を拭いながら身体を起こして、男が吸い込まれた方を見ると、すぐに穴は閉じて、後ろから白髪のおじいさんが、杖をつきながらゆっくりと歩いて来た。
「ひょっひょっひょ。怪我は無いかね? って、聞くのも野暮かねぇ」
お爺さんの優しい声を聞いた途端に、忘れていた身体の痛みが戻ってきた。急に意識が遠のいていく。
「キミ、儂の学校に来るかね?」
朦朧とする意識の中で、最後にお爺さんのそんな言葉を聞いた気がした。