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1. 起

 この4月に東京デビューしたばかりの大学生、あずま 遼一りょういちは本日、見てはならないものを見てしまった。


 ことが起こったのは深夜、寝静まった住宅街。若い女性がひとり、人気のない舗道を歩いている。

 そこにひたひたと忍び寄る怪しい男(もちろん自分ではない)。二人の距離はだんだんと縮まり、ついに男の魔手が女性に向かって伸びる。


 危ない!と思った瞬間、女性がくるりと振り向いて、この世の終わりのような絶叫をあげた。


「もつぁれらぁぁぁ・・・・・・!」



 あれ、何か思っていた展開と違う。



 遼一は内心首を傾げたが、これは事件のほんの序の口に過ぎなかった。


 男は一瞬固まったのち、女性のどこか異様な気配を察知し、少し後退する。

 そこからは、完全に彼女の独壇場となった。


「どおぉぉぉして買ってきてくれないのぉぉ・・・!待ってたのにぃぃ・・・!」


 いきなりの、おどろおどろしい恨み節がさく裂する。対する男は身に覚えがなかったようで、おろおろと狼狽えるばかり。

 ユラユラと体を大きく前後させながら男ににじり寄る女は、どこからどう見ても精神が異常であった。


「許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さないぃぃ!!!!!ヒャヒャヒャヒャヒャ!!!」


 奇声をあげて迫りくるキチガイにすっかり怖気づいた男は、小さく悲鳴を上げて遼一がいる方向とは逆へ逃げていった。



 男がいなくなったことで、今まで彼の影になって見えなかった、女の全貌が電灯に照らされ浮かび上がる。


 極限まで見開かれ、ギョロギョロと動く血走った眼。左右非対称に吊り上がり、歯をむき出しにして嗤う大きな口。さながら旅人に襲い掛かる山姥のごとしである。


 その凄まじい形相が、なんと男の姿が消えると憑き物が落ちたようにすうっと真顔に戻っていき・・・



 遼一がちょっといいなと思っていた女の子、同学部・同学年の北野きたの たからになった。



 *****************************************



 希望に満ち溢れている者にも、震える子羊にも、朝は平等にやってくる。


 昨夜、ベッドにもぐりこんだ直後こそ『北野こわい北野こわい明日大学いきたくない・・・』と震えあがった遼一であったが、そもそも彼女とは大学と学部と学年を除いては、性格も容姿も友人層も何一つ被るところがないので、同じ授業を取ってはいても接する機会はほぼない。これに気づいてからはわりとすぐ眠れた。


 北野 宝と言えば、顔良し、スタイル良し、性格良しの非の打ち所がない美少女である。

 まあ少女と呼ぶには若干無理がある年齢ではあるが、守ってあげたくなる可愛らしさと無邪気な笑顔で、数々の男性(特に夢見がちな童貞)のハートをノックダウンしてきた。

 彼らにとって宝は永遠のピュア、永遠の美少女なのである。成績はそんなに良くないところもまた高ポイントである。


 対する遼一は、クラスに1人はいる陰気な眼鏡である。

 身長がそこそこあるのが救いだが、ひょろ長く、腹筋の代わりにあばらが割れている。ウォーリーに似ているが、存在感がないので探しても見つからない。

 唯一のチャームポイントである黒縁眼鏡に恥じぬよう、成績だけは上位を死守している。


 二人の接点は、全くない。悲しいくらいない。

 遼一も、昨日の夕方まではその事実をつらく受け止めていたものだが、あの豹変ぶりを見た今となっては、あの不気味な女を視界に入れることさえ軽い恐怖である。可愛いバラには棘どころではない。完璧にトラウマである。


 幸い、オーラのなさが功を奏してか、宝は遼一が現場を目撃したことに気づかなかった。

 こちらから何かアクションを起こさない限り、彼女の方から寄ってくることはまずないはず。よし大丈夫だ。いつも通り大学に行って、いつも通り友人とつるみ、いつも通り授業を受けて帰ってくればいい。


 昨夜、ベッドで丸まって考えたのとまったく同じことを再びしつこく自分に言い聞かせ、遼一は絶対防御領域(自分のアパート)から一歩外に踏み出した。そして向かいのアパートの5階に、サマンサタバサの新作バッグとごみ袋を抱えた美少女を見つける。当然遼一にはブランド名などわからず、なんか高そうなカバンだなと思うだけだ。


 しかし重要なのはその持ち主である。


『いる・・・美少女の皮をかぶった狂人が・・・めっちゃ近くに・・・』


 別に、美少女と狂人は両立しうるのだが、遼一の脳内ではあくまでカワイイ=正義で、異論は認められない。


 美少女あらため狂人はエレベーターに乗り、ゴミを捨ててお行儀よくカラス除けネットを被せると、駅の方角へ歩いていく。

 ゴミを捨てるということは、すなわちそこで生活しているということだ。さらに、遼一も入居検討したことがあるので知っているが、お向かいは学生向けのワンルームマンションである。

 宝はあのマンションの一室で、一人暮らししている可能性が非常に高い。


『昨日までの俺だったら・・・いや、昨日あの現場を見さえしなければ、むしろラッキーと思っていられたのに・・・』


 過去形の仮定法ほど空しいものはない。とりあえず必要最低限の元気やる気勇気をかき集め、遼一もとぼとぼと慣れてきた通学路を進むのだが、歩幅が違うのか、宝にすぐに追いついてしまう。

 追い抜いて気づかれるのも怖いし、良い迂回路も思いつかないので、一定の距離を空けつつペースを合わせるしかない。


 どうにか駅のホームまで着き、宝が並んでいる列からきっちり3両空けてやっと人心地ついたのも束の間、なんと狂人は電車のドアが開くと同時に、わざわざ列を変えて遼一と同じ車両に乗り込んできた。二人の距離は、およそサラリーマン3人分まで縮まる。


『こいつ、まさか・・・!俺の思考を読んで嫌がらせしてきているのか・・・!?』


 中二病的な疑心暗鬼にとりつかれた遼一は、電車が動き始めてからも片時も宝から目を離せずにいる。

 彼奴め、実はこちらの視線に気づいていて、今この瞬間にもバッと振り向き、あのぞっとする笑みを浮かべるのではないか。


 恐る恐るの注視をやめられないまましばらく電車に揺られているうちに、ふと、彼女が忙しなく身じろぎしているのに気づく。いま流行りのながらエクササイズというやつか?小尻効果か?と思うが早いか、彼女の花のかんばせが、だんだんと鬼婆に変わってゆく。


『え、まさかほんとにやっちゃう?ここ電車の中だけどほんとにやっちゃう!?』


 そしてついに悪魔の毒手が後ろにいた恰幅のいいおじさんに伸び、あの惨劇が繰り返される・・・!


「この人痴漢です!!!」




 あれ、何か思ってた展開と違う。


 宝は項垂れるおじさんをがっしりと捕まえ、次の駅で勇ましくしょっぴいていった。



 *****************************************



 結局、宝は1限の授業には現れず、2限目の途中から出席してきた。おそらく警察への事情聴取などで時間を食ってしまったのだろう。


 昼休みのカフェテリアで、遼一は性懲りもなく宝の観察を続けていた。こわい!やめて!でも見ちゃう!の典型例である。毒を食らわば皿までである。

 あちらからは遼一が見えず、こちらからはばっちり相手をチェックできる絶好の座り位置で、きつねうどんを啜りながら狂人の一挙手一投足に目を光らせる。

 普段、遼一は節約のため、弁当男子仲間と空き教室で食事をとるのだが、昨日のハプニングのせいで、本日はとてもおかず作りどころではなかった。というわけで、ぼっち飯ならぬぼっちうどん体験中である。


「宝、1限どうしたの?寝坊~?」


 マルタイの友人1号、西口 みなみが話を振っている。がっつりA定食のカキフライにソースをかけているが、遼一はポン酢派である。


「ううん、実は、電車で痴漢に遭っちゃって」


「えっ、大丈夫!?大変だったね・・・」


「私、なぜか痴漢に遭いやすくって・・・実はここ数日、ずっと常習犯に追い回されてたんだよね。すっごくしつこくて、こっちが車両変えても着いてくるの。でも今日、ついに捕まえて警察に引き渡してきたよ!」


 恥じらうどころか誇らしげにニヤリと笑い、大口を開けてパスタを食す宝。

 ちなみに、本日の洋麺はナスとベーコンのトマトパスタである。女性に人気の、あの白くまるっとしたチーズも入っている。


『やっぱりモツァレラ好きなんだ・・・』


 溶けたチーズとナスを搦めて幸せそうに頬ばる愛くるしい姿に、ふっとあの『もつぁれらぁぁぁ・・・・・・!』の地獄の悪鬼が重なって切なくなる。


「満員電車の中で痴漢!って叫ぶの?それって勇気いらない?」


「うーん、まあ少し恥ずかしいけど、人気のないところで遭うよりは全然マシだよ」


「えっ、夜道とかでってこと?すごく危険じゃん!どうやって逃げるの?」


 まさに遼一が聞きたい話題になってきた。西口 みなみ、ナイスアシストである。


 すでにうどんのネギまで完食した遼一に、複数の学生が早く席を譲れとジト目を寄越してきているが、ここは気づかないフリである。


「あのね、逃げても、もし追いかけられたら怖いでしょ。だから、逆に相手の方が逃げるようにするの」


「どういうこと?相手をやっつけるの?」


「ううん、力では敵わないから、ホラー映画みたいに相手を怖がらすの」



 ほう、それであの『もつぁれらぁぁぁ・・・・・・!』ですか。

 あの凄い声と顔と体の動き、とても演技とは思えなかったけど演技なんですか。


 すっかり騙されて骨の髄までビビらされて、遼一は腹立たしいようなほっとするような、複雑な心境である。


『ようは、美少女の皮を被った狂人の皮を被った美少女だったというわけだな』


 まだ少し(だいぶ)頭が混乱しているが、そろそろ3限も始まる。


 遼一はうどんのトレイを返却台にのせ、宝とみなみの視界に入らないようにこっそり迂回して食堂を出ると、次の一般教養の教室へ向かっていった。



 *****************************************



 ことの真相を知ってから、遼一の脳内で宝の株は一気に上がった。というより元に戻った。


 痴漢を撃退する瞬間の見た目は鬼婆そのものでも、その中身はヘンタイに負けまいと頑張るけなげな美少女なのである。さらに撃退後は、見た目も美少女に戻る(ココ重要)。そんな美少女が、自分の超ご近所さんなのである(ココさらに重要)。


 これはもう、ヘンタイに狙われやすい彼女を陰ながら守れという、天の啓示ではなかろうか。


「ぱるみじゃああぁぁぁのおおぉぉぉ・・・・・・!」


 今日も今日とて、遼一は現在進行形で宝を見守っている。正確には、見ているだけで守ってはいないのだが、一応ヘンタイの顔をズームアップした動画を撮っていて、万が一宝がヘンタイに屈することがあれば、お助けマンとして華麗に参上する気満々である。

 隠し撮りするのは気が咎めるが、遼一は空手白帯のモヤシなので、有事の際には物的証拠を盾に取って平和的解決を計る必要がある。


 ちなみに、すでに宝の痴漢撃退現場に5回居合わせてきたが、どうも彼女はモツァレラだけでなくチーズ全般が好きなようだ。


「どこへやったのぉぉ・・・許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さないぃぃ!!!!!ヒィィィィヒッ・・・ヒッ・・・ヒィィィィィ!!!」


 今日の鬼婆はだいぶ調子が良いようで、過去最高のイキっぷりである。口元だけでなく嗤い声まで引き攣っている。

 ヘンタイは凄まじすぎる淑女豹変に恐れをなし、震える足を叱咤して暗がりの中、命からがら逃げていった。


 本日、これにて一件落着。遼一は止めていた息をほっと吐いて、つい無意識に、カメラの録画停止ボタンを押してしまった。『あ、まずい!』と後悔してももう遅い。ピッと軽やかな電子音が静寂に響きわたり、鬼婆がぐるりと遼一のいる方に振り向いた。


「りぃぃこったぁぁ・・・ぁぁぁ?東くん?なんで・・・!?」



 全くロマンチックじゃないボーイミーツガールのはじまりである。


 遼一は、しどろもどりになりながら必死で状況を説明した。たまたま家がご近所なこと。たまたま痴漢現場を見てしまったこと。何かのためにいちおう動画を撮ったこと。決してストーカーではないこと。神に誓ってストーカーではないこと。三割がた嘘である。


 対する宝の方も、かなり動揺していた。

 遼一にとってラッキーなことにストーカーのくだりは完全スルーで、彼がことの一部始終を目撃してさらに動画も撮ったという事実を知るや否や、あれはあくまで痴漢撃退のためのパフォーマンスなのだと何度も言葉を変えて力説してきた。


「あのね、人気がないところだと助けも呼べないし、私護身術なんかも身に着けてないし、必要に迫られてこういう変わった手段をとっただけなの!高校まで演劇部だったからちょっとリアルだけど、全部お芝居なの!本心じゃないの!」


 明日、もし大学で『妖怪チーズ婆』なんて二つ名が広まっていたりしたら生きていけないので、彼女も必死である。


「うん、わかったよ・・・心配しなくても、誰も北野さんの本性があんなだなんて思ったりしないよ」


 これがもし一度目の遭遇の直後だったら、遼一もそんなにすんなりと納得できていなかったかもしれない。

 しかし彼はすでにカフェテリアで宝のポリシーを聴取しており、その後も何度か現場経験を積んで、『確かにこの部分はちょっと嘘くさいかも』などと冷静に評価をつけるくらいの余裕も出てきている。宝の不安をなだめるくらい朝飯前である。


 そんな裏事情を知らない宝は、自分の目をまっすぐ見つめ、ビビる素振りもない遼一にいたく感激した。

 どうやら彼女には過去になにがしかのトラウマがありそうである。


「ほんとに・・・信じてくれるの?ありがとう!あの、できればこのことは・・・」


「うん、誰にも言わないから安心して」


「ありがとう。それで、その動画なんだけど・・・」


「もちろんデータを消すよ。一緒に確認してもらえる?」


 打てば響く遼一の受け答えに、宝はさらに顔を明るくさせる。そして遼一がスマホの画面を操作し始める前に、ちょっともじもじしながらこう言った。


「できれば、消去する前にその動画もらえないかな・・・自分が演技してるところ、きちんとチェックしたことなくて・・・」


 つまり今後のクオリティ向上に役立てたいと。匠の技にさらに磨きをかけたいと、そういうことである。必要に迫られて仕方なくという割には、なかなか熱心なことである。


 しかし遼一にとってはそんなことは最早どうでもよく、重要なのは、



『連絡先ゲットのフラグ来たああああ!』



 という一点に尽きた。

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