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唇を触れ合わせたまま、俺は薄く目を開けた。理恵の肩からは体温が俺の掌に伝わり、唇から俺の心臓の鼓動が理恵に伝わっている気がする。ゆっくりと顔を遠ざけていく、輪郭が見える距離で止めると、理恵はゆるやかに瞼を開けてトロンとした眼差しを向けた。肩にかけた俺の掌はいつの間にか汗ばんでいる。
「ふふ」と笑いながら理恵の両目がキョロキョロ動いて、いたずらっぽい目つきが俺の顔を眺める。シャンプーかなにかの匂いは、すぐそばで滞留している。じっとりした手を外して身体を河岸の方に向けると、となりで理恵もそうしたようだった。俺は高鳴りが静まるまでそうしていると、タバコに火を点けた。ヒグラシは鳴き飽きたのか、周りはいつの間にか静まり返っていた。俺たちはその静寂にまぎれるようにしばらく黙っていた。
『湯島通れば 思い出す お蔦主税の 心意気』
ささやくような声で、理恵が急に歌いだした。横顔を見ると、河岸のどこか一点を見つめているようだった。「なに、その古そうな歌」俺は聴いたことのないメロディーと節回しだったが、歌詞からも古い感じがした。
「湯島の白梅っていうの、・・・私ね、おばあちゃん子だったから、そんな古い歌ばかり聴いては歌ってたの、小さい頃」理恵はまだ河岸をみつめたままだ。「ふうん、誰の歌なの?」俺は短かくなったタバコをペール缶に放り込む。
「いろんな人が歌ってるの、・・・ね、明日レコード持ってこようか。長野の家のどこかにあるはずだから」理恵はくるりとこっちを向くと、なぜか嬉しそうな顔をした。俺は『長野の家』という呼び方が、いかにも遠いところに住んでる人の言い方だなと思った。
「うん、じゃあ聴いてみるか」俺は特別聴いてみたいとも思わなかったが、断る理由もないし、なにより理恵の嬉しそうな顔を変える必要もないと思った。
あたりはすっかり暗くなっていて、結局いつもと同じ頃に「じゃあ、帰るね」と、理恵は帰っていった。俺は小径を遠ざかる後ろ姿を見送っていると、最後はスーッと闇に融けていくように見えなくなった。紺色のワンピースだからだろうかと思いながら、雑木林を抜ける。
ひとりになると急に現実の世界に引き戻されたように、ため息が出た。理恵に好かれていることを知り、キスまでした喜びと、多分理恵のことを好きな大介を裏切ることになった申し訳なさ。そのふたつの事実がさざ波のように何度も押し寄せてくる。理恵のいたずらっぽい目つきと、大介の真剣な眼差しが交互に頭をよぎって、少し息苦しくなった。
複雑な気持ちを抱えたまま、家にたどり着くと、茶の間の電話が目につく。(大介に電話しようか)手を延ばしかけたがやめた。何を話していいか思い浮かばないし、現在の自分自身が最低の卑怯者に思えたからだ。
翌朝、俺はいつもの時間にバイト先の建設会社事務所へ到着する。事務所の横はダンプやトラックの車庫と、資材倉庫になっている。駐輪場へスクーターを停めると、早出の現場の連中がトラックに資材を積んでいた。あたりはディーゼルエンジンの排煙と、材料が荷台にぶつかる騒音が立ちこめている。
事務所入り口のタイムカードを挿して外へ出ようとしていると、「樫沢君」と呼び止められた。現場の人夫や機械の段取り担当の部長だった。「おはようございます」と振り返ると、「悪いんだけど、今日はいつもの現場じゃなくて、ちょっと遠い現場に行ってもらいたんだ。人手が足りなくなっちまってね」と言った。
俺はそれに従い、人夫用のキャラバンに乗り込んだ。「おう、バイトの兄ちゃん、今日はここから30キロ離れた現場だぞ」となりに座っている白ヒゲの人夫のおっさんが話しかけてくる。朝っぱらから酒臭い息を吐いていた。
朝と同じ席に座ると、午後5時ちょうどにキャラバンは現場を出た。この暑い時期に舗装仕事だったので、かなり堪えた。到着時180℃のアスファルト合材をスコップですくっては、指示されたところへ運ぶ。ダンプから払ったアスファルトの山を散らすのが一番きつかった。昼休みには汗が搾れるほどのTシャツを着替えた。
俺が席でぐったりしていると、朝っぱらから酒臭かった白ヒゲのおっさんが、リュックからカップの焼酎を取り出して飲みはじめている。俺と同じ作業をしていたにも関わらず、大して堪えている様子もなかった。美味そうにカップを口に運んでいる。
「おいバイトの兄ちゃん、くたびれたか?」おっさんが聞いてきたので、俺は無言でうなずくと、おっさんはヤニで汚れた隙間だらけの歯をむきだして、しわがれ声で笑った。「仕事はな、コツなんだよ。なにがコツかというと、いかに仕事しているように見せて、いかに手を抜くか。それが誰の目にもばれねえようになれば、楽なもんさ」おっさんはそう言うと、最後のひと口を呷って『わかば』をくわえた。
俺は車窓から外を眺める、だいぶ暮れてきている。(この分じゃ町に着いた頃には、暗いだろうな。・・・大介はもう河川敷に着いてる頃かな。・・・そういや理恵は、湯島のなんとかってレコード持ってくんのかな)ぼんやり考えていると、となりからいがらっぽい煙が流れてきたので、窓を少し開けた。
会社にたどり着いてキャラバンを下りると、俺は挨拶もそこそこに駐輪場に行き、スクーターを滑り出させた。すっかり暗くなっているのでヘッドライトを点ける。外灯の明るい橋のたもとを通り過ぎる時、大量に舞っている馬鹿でかい蛾が、危うく顔に衝突しそうになった。
河川敷への坂道を下りると、大介の赤いスクーターが見えてなぜかホッとした。心の片隅に詫びたい気持ちがこびりついているのだ。スクーターを停め雑木林を抜ける。「わりい、遅くなった」と声をかけると、丸太に腰かけている大介が、ひとりで振り向いた。
(あれ、理恵は?)俺は周囲を見回した。




