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俺は安全靴のつま先でタバコの灰を落とすと、「今月いっぱいで、いなくなっちまうのか・・・」と呟く。答えを聞くまでもないことだったが、大介は無言でうなずくと、「だがバイトは引っ越すギリギリまで続けようと思う。・・・家で引越しの準備なんかしてたら、親父と殴り合いになっちまいそうだからな」俺にはそれが、大介が出来る精いっぱいの抵抗のように思えた。
ヤツはまた足元の石を拾い上げて投げた。今度は外れて、音も立てずに草むらに消える。
「あと半月もねえのか・・・」俺は石が消えた草むらを、ぼんやり眺めながら呟く。「ああ、そんで北海道なんかに行っちまったら、一生この町には戻って来られないような気がするよ・・・」大介の声が少し変だったので、ヤツの横顔を見つめた。充血した目に涙が盛り上がっていた。
翌日から俺たちは、バイトが終われば家には寄らずに、スクーターを飛ばして河川敷に駆けつけた。そして西の稜線に日が落ちるまで、他愛のないことを話しては大笑いしていた。話題の中心は、俺たちがツルむようになった中学から現在までの思い出やエピソード、当日のお互いのバイト現場の話、免許を取ったら買いたいバイクの話。
俺たちは互いに将来のことなど頭になく、関心のあることはもっぱら目先のことだけだった。タイムリミットを意識しながら、未来のことなど口にしたら互いに淋しくなるだけだから、目を逸らしていたのかもしれないが。
そんな状況の中、ちょっとした異変が起こった。俺たちが河川敷に集合するようになって3日後のことだ。
彼方の稜線に日が落ちて、さっきまで盛んだったヒグラシの合唱も淋しくなり、あたりも薄暗くなった頃、俺たちはいつもの居場所である丸太から、腰を上げようとしていた。「おい誠、あれ誰だ?」大介が俺の肩を叩いて、河岸の方を指差す。
俺はタバコをもみ消した足元から目を上げると、大介が指差す先に視線を移した。玉石がごろごろしている水際を歩いている人影が見えた。白いワンピース姿の女のようで、ひらひらしたスカートから延びた細い両脚をたどたどしく運んでいる。あまり長くない黒髪がさらさらと揺れているが、おぼつかない足元に目線を注いでいるので、表情までは見えない。
俺と大介は無言のまま、しばらく人影を目で追っていた。やがて女は顔を上げ、雑木林の丸太に座っている俺たちに気づいた。ほんの短かい時間、互いに見つめたまま止まっていたが、女はちょこんと頭を下げた。つられて俺たちも小さく会釈する。どう見ても若い、というか自分たちと同世代に見えたが、この町では見たことのない顔だった。
俺たちはいつのまにか立ち上がっていて、「あれ、知ってるか?」と大介が聞いてくる。「いや、見たことねえヤツだ」俺は返した。そして俺たちは無意識に河岸に向かって、若い女はこっちに向かって歩く。互いの顔がはっきり認識できる距離まで近づいた時、双方が立ち止まった。
「こんにちは」若い女はそう言うと、屈託のない笑顔を見せた。・・・俺は心臓の鼓動が少しだけ早くなったのを感じた。
さらさらの真っ直ぐな黒髪、色白の小さい顔、白いワンピースに白いサンダル、小柄な背丈のその女は、やはり俺たちと同じぐらいの歳に見えた。「この町の子じゃないよな?」大介が見下ろす角度で話しかける。女はこくりとうなずくと、「夏休みで、親戚の家に遊びに来てるの」快活そうな声で大介に答えたあと、俺の方にも首を向けた。・・・また心臓の鼓動が高鳴った。
「俺は大介、こいつは誠。工業高校の二年だよ」大介は普段と何ら変わらぬ口調で話を続ける。俺もヤツもまだ、まともな交際をしたことはなかったが、大介は知らない女に話しかけることに少しも抵抗がない。ふたりで街にいる時もいつもそうだった。そして女の方も大抵大介の方に話しかけた。
俺は女を前にすると何を話していいかわからないので、いつも黙ってしまう。別に気が小さい人間じゃないのだが、女と話すことが苦手だった。でもこういう時はいつも大介の積極性が眩しく見える。
「私はりえ、理科の理に恵み。私も高校二年なんだ」そう言うと理恵は、白い歯をのぞかせる。俺には理恵も大介同様に積極的な人間に思えた。
それから俺たちは丸太のところへ行き、大介が地べたに座り込んだので、俺と理恵は丸太に腰を下ろした。ちょうど正三角形のような位置で、お互いのことを話しはじめる。と言っても俺は聞かれたことにうなずいたり短かく答える程度で、なかなか普段通りにはならず、俺の説明が足りない時は大介が補足してくれた。
あたりがすっかり暗くなってから、「じゃあ、そろそろ帰るね」と、理恵が腰を上げる。両手を後ろについた姿勢で理恵を見上げた大介は、「俺たちは多分、明日もここに来てるよ」と、くわえタバコのまま言った。理恵はまた白い歯を見せて手を挙げると、雑木林の小径に消えていった。
「東京の子か、あいつは」大介はさっきまでの話を思い返すように呟いた。俺は黙ったままハイライトに火を点ける。「誠はなんで話さねえの?・・・ああいう女は嫌いか?」大介は何気なく言った。途端に俺の心臓はドキンと早鐘を打ちはじめる。動揺を悟られまいと、俺はあわてて伸びをするフリをしてみせた。
「俺は女と話すのが苦手なの、昔から知ってんだろ?・・・別に好きでも嫌いでもねえよ、あの女」俺はそう言いながら暗がりに煙を吹きあげたが、大介には嘘をついた。自分でもよく判らないが、理恵のことをひと目で好きになっちまったような気がしている。
大介は「ほう」とあくびまじりの声を上げると、「そうか?俺はかわいい部類に入ると思ったぜ、あの女」と続けた。『理恵』という名前を知った今でも、俺たちはそう呼ぶのがなんとなく恥ずかしいような気がしていた。
セルを回してスクーターのエンジンを掛けると、ヘッドライトを点灯させた。俺も大介もヘルメットはちゃちな半帽タイプだ。高額のちゃんとした物は、憧れの400ccを手に入れてからでいい。お互いに手を挙げると、それぞれの帰路へと走り出した。生ぬるい風を頬に感じながら、俺の脳裏には理恵の白い歯と声が離れずに渦巻いている。