画家と家族
ヴェルナー視点です
何度か瞬きを繰り返し、目の前のカンバスに描かれたものをぼんやりと認識した時、集中力が途切れがちになっているのを自覚した。
こうなっては仕方ない。気分転換にコーヒーでも飲もうと部屋の外に出る。
その時、ドアの半開きになった隣の部屋から話し声が聞こえた。
暗い子ども部屋では、どうやら彼女が娘のルイーゼを寝かしつけているようだ。囁くような優しげな声が聞こえる。
残念なことに娘の顔は認識できないが、どうやら外見の特徴は俺によく似ているらしい。無愛想なところまで似なければ良いのだが……
「ねえ、お母さん。どうしてお母さんは、毎日お父さんとあたしの似顔絵を描くの?」
娘の声だ。いつも思うが、年齢の割に落ち着いた喋り方をしている。
「それはね、お父さんに見せるためなの。毎日のお父さんの顔とルイーゼの顔を知ってもらうの」
「顔なら普通に見ればいいのに」
そう考えるのは自然なことだろう。
娘の問いを受けて、彼女は暫し思案する様子を見せる。
「お父さんはね、なんていうか……ちょっと目が悪くて、ルイーゼの顔も、お父さん自身の顔もよく見えないの。だからわたしが二人の顔を描いて、それをお父さんに見せるの。こんな顔してるんだよって」
本当のことを打ち明けても良いのだが、娘が事実を理解できる年齢になるまで伏せていようという彼女の提案で、そういうことになっている。
「そうなの……目が……」
娘は束の間何かを考え込むように黙ったが
「わかったわ。それなら明日からあたしも描く。お父さんの絵」
「ほんと? きっとお父さんも喜んでくれるよ」
「それと、お母さんの似顔絵も」
「わたしも?」
「だって、お父さん、目が悪いのよね。それならお母さんの顔だってわからないはずだわ。そんなのかわいそう。お母さん、とってもきれいなのに。お父さんはそれも知らないのかしら。損してるわ」
知っている。毎日顔に触れているうちに、彼女の顔だちが整っている事には気づいていた。きっとかなりの美人なのだろうと。それは別にしても、彼女の顔に興味がないといえば嘘だった。触れる事で得られる情報だけではもどかしいという気持ちもある。
だから娘の提案には心が躍った。たとえ子供らしさが存分に表れた個性的な絵でも嬉しい。しかも彼女だけでなく俺の絵までも描いてくれるというのだから。
先ほどまでの疲労感が嘘のように消えて、俺は思わず笑みをこぼした。
部屋の中ではお喋りが終わったのか、何かの歌が聞こえてきた。子守唄かと思ったが、歌詞はない。しかしそのメロディには聞き覚えがあった。彼女が時々口ずさむウインナ・ワルツの曲だ。
それを聞いて、初めて彼女と踊った時の事を思い出した。
俺は少し緊張していて、手が少し冷たかった。それを気取られまいとして周囲にまで気が回らず、棚にぶつかりそうになったっけ。
後になって「性別を確かめるために踊ったのか」と彼女に問われたが、うまく答えることができなかった。
本当は、あのとき彼女の手を取ったのは、彼女と踊りたいと思ったからだ。
けれど、それを正直に打ち明ける勇気がなかった。あの時は俺が一方的に彼女に好意を寄せているだけだと思っていたから。それを伝えて拒絶されるのが怖かった。彼女のような存在は他になく、再びそれを失いたくなかった。
だから、咄嗟に言葉を濁してしまったのだ。
それにあの直後に、俺と彼女の関係を大きく変える出来事があって、尚更伝える機会を逃してしまった。
けれど、それを今更伝えたところで彼女も困惑するだろう。あの問いの答えはずっと俺の胸のうちにしまっておく事になりそうだ。
先ほどまで聞こえていたメロディが途切れた。きっと娘が眠ったんだろう。
俺はそっとドアを押し開ける。部屋の外からの灯りが大きく差し込んだのに彼女が気づいて、こちらを振り向く。
「エルンスト。仕事は終わったの?」
「一息入れようと思って」
ベッドに屈みこみ、寝入ったルイーゼの髪をそっと撫でると、柔らかな髪の感触が手に伝わる。俺と同じ色の髪の毛。
天使のようだと思った。
顔は分からずともこの世界で何よりも愛しい天使。
それを与えてくれたのは、隣でベッドを覗き込んでいる彼女だ。
それだけじゃない。何もかもを諦めかけていた俺に希望を与えてくれて、傍で支えてくれた。
ルイーゼから手を離すと、今度は彼女のほうに手を伸ばす。
指の背で頬を撫でると、彼女はくすぐったそうに首をすくめた。
「ルイーゼが起きちゃいます。そろそろ行きましょう。コーヒー淹れますね」
小声で囁く彼女が俺の手をとり立ち上がらせる。
俺達は物音を立てないようにルイーゼの部屋を後にした。
コーヒーを飲みながら、ふと、以前彼女が俺に言ったことを思い出した。俺に肖像画を描いてもらわないか。彼女はそう言ったはずだ。
俺だけじゃなく、家族みんなの肖像画を描いてもらうのはどうだろう。それなら彼女やルイーゼの正確な顔もわかる。幸い、俺の絵も最近は買い取ってもらえる事が増えたし、それくらいの余裕はあるはずた。
そこまで考えて、ふと思い直す。
いや、俺には毎日素晴らしい似顔絵を描いてくれる相手がいるじゃないか。それも二人も。
それで充分、いや、過ぎるくらいに幸せだ。
明日からの新たな楽しみに、密かに笑みを漏らしながら、コーヒーのカップに口を付けた。




