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六月と蒼い月  作者: 金時るるの
六月の秘密
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六月の秘密 4

 わたしの手には何枚もの紙切れがあった。そのほとんどに『六月』に関することが書かれている。

 もしかしたら考えすぎかもしれない。でも、この『六月』が自分の事だとしたら? そう考えると、言いようのない気味悪さに纏いつかれる。

 わたしは今、自分が抱いているこの気持ちをクルトに打ち明けるべきか悩んでいた。

 以前、彼に「俺はそんなに信頼に値しないのか」と言われた事が頭をよぎる。彼の事は信じている。信じるに値する大切な人だ。だからこそ、自分が今考えているある種滑稽な予測に、彼を巻き込んで良いものかと考えてしまうのだ。

 何故だろう。こんなふうに思ってしまうのは。今まで散々彼の事を巻き込んできたも同然なのに。

 おぼつかない気持ちを抱えながら、寝室のドアを開ける。

 そこではクルトが本を読んでいたが、わたしの気配に顔を上げた。 


「お前、また妙な事考えてるだろ」


 自分の頭の中を覗かれたみたいで、どきりとした。

 答えられずにいると、クルトが本を机に置いた。


「やっぱりな。これだけ一緒に暮らしてるんだ。流石にわかってきた。今度はなんなんだ? 話してみろよ」


 その言葉に、背中を押されたような気がした。

 引き寄せられるようにクルトに近づくと、わたしは自分の両手をぎゅっと握りしめる。


「わたし、クルトの事、信じてます。でも、その一方で巻き込みたくないって気持ちもあるし、逆に、今抱えてる自分の考えが馬鹿馬鹿しいものなんじゃないかっていう思いもあるんです。もし、クルトが後になって、やっぱり関わりたくないと思うのなら、それでも構いません。だから、わたしの話を聞いてもらえますか?」


 わたしの真剣な様子にクルトは思いがけず驚いたようだったが、暫くして無言で頷いた。






 皆が寝静まった夜更け、わたしは鐘つき塔の階段を上っていた。

 夜は冷える。凍えるような風が吹き抜けて、わたしはマフラーを鼻の辺りまで引き上げる。でも、足を止めるわけにはいかない。なぜなら上にはわたしを待っている人がいるはずなのだから。


 やがて鐘つき塔の上に出た。足音が聞こえたのか、既にそこにいた人物がはっとしたようにこちらを振り返る。

 闇の中に浮かび上がるその顔に、わたしは見覚えがあった。


「あなただったんですね。わたしの事を監視していたのは」

「な、なんなの……なんで君がここに……?」


 声を上げた人物――イザークは当惑したように後ずさる。


「ブランの首輪の手紙を見たんでしょう? 今日、この時間に鐘つき塔の上に来るようにという指示を書いた。あの手紙、わたしが書いたんです」


 面食らったままのイザークを見つめながらわたしは続ける。


「あの猫――ブランに関する噂を聞いた事がありますか? 完璧なフランス語にしか反応しないからミエット先生にしか懐かない。そんな噂を。でも、実際は違ったんです。わたし、つい最近知りました。『青い目の白猫は耳が聞こえない』んだって。あの猫もそうだったんですね。だから誰の声にも反応しなかったんです。あなたはそれを知っていたんじゃありませんか? 普通にしていては懐かないあの猫を使って、誰かと手紙のやり取りをしていたんです」


 正直なところ、自信はなかった。あの猫の首輪に括り付けられた紙切れだって誰かの悪戯かもしれないと思っていた。けれど、わたしの書いた手紙を真に受けて、この場所に現れる人物がいるとすれば、その人物にとっては悪ふざけなどではないはずだ。


「キャットニップというハーブがあるそうですね。学校の温室にも生えています。猫は特にそのハーブを好むとか。ブランが温室へ入りたがるのもそれが目当てだったそうです。あなたは、そのハーブを使ってブランを手なずけていたんじゃありませんか? そして今もわたしがブランの首輪にくくり付けた手紙を見て、ここにやってきた」


 思えば、最初にイザークに会ったときもハーブを使った嫌がらせをされたのだ。そういった知識に長けているのかもしれない。

 わたしは手に持っていた紙を広げて畳み掛ける。


「『六月の動向に変化なし』。聞かせてください。この手紙の意味を。いえ、これだけじゃありません。これを見つけてからも、わたし、キャットニップを使って何度かブランの首輪に括りつけられた手紙を見ました。そのほとんどが『六月』――すなわち、わたしに関することでした。あなたは一体、どんな理由があってわたしを監視しているんですか?」


 暗闇の中、イザークの目に険しいものが宿ったような気がした。

 けれど引くわけにはいかない。わたしは心を奮い立たせて彼と対峙する。

 やがてイザークが唐突に「ふふっ」っと笑い声を上げた。

 困惑するわたしを尻目に、イザークは肩をすくめる。


「あーあ、これまで誰にもばれた事なんてなかったのになあ。君がここまでするなんてね。正直なところ、すぐにぼろを出して、この学校を追い出されるかと思ってた。よく誤魔化したものだよ……女の子の君が」


 その言葉にぎくりとした。


「なんで……そのことを」

「君は忘れちゃったかな? 僕たちはずっと前にも一度会った事があるんだよ。君の育った孤児院の近くで。だから、君の昔の姿を知ってる」


 彼と会った事がある? こんな綺麗な男の子の事、忘れるなんてあるだろうか?


「君と違って、僕は小さい頃から特別な教育を受けていたからね。ちょっと変わった教育法だったけど」


 イザークはそこで少し言葉を切ってこちらを見つめる。


「僕は、小さい頃、女の子の格好をさせられていたのさ。思い出した? あの時、とっておきのハーブティを薦めたのに、君は『まずい』って言って一口飲んだきりだったんだよね。あれは傷ついたなあ」


 わたしの脳裏に、いつか夢で見た光景が蘇った。咳き込むわたしを見ながら楽しそうに笑ったあの女の子。

 でも、あれは夢の中の出来事だったんじゃ……? あの女の子は彫刻から抜け出してきた女の子のはずで……

 けれど、目の前の少年は、あの女の子と同じ色の瞳をしている。


「今まで辛くあたってごめんね。仕方なかったんだ。他のこどもは敵みたいなものだったから。でも、大切なこどもを傷つけるわけにもいかないし。それもあって君の行動を監視してたんだけど……けれど、君がここまでたどり着いてしまったのなら、いい機会だから話してあげる。もしかしたら、もう知ってるかな?この学校は、僕たちにとって試金石みたいなもの。選ばれたこどもだけがこの学校に入学できて、三年間の間になんらかの功績をあげた優秀なものだけが上に行けるんだよ」


 選ばれた子供って……? 上に行ける……? 一体何の話をしているの?

 困惑するわたしを見て、イザークは溜息交じりに囁く。


「やっぱり知らなかったんだね。それもそうか。君は例外的な存在だからね。本当は、君の実の兄がこの学校に入学する予定だったんだけど……ちょっとした不都合があってね。代わりに彼の妹である君が、急遽ここに送り込まれたってわけ」

「実の兄って……どういう意味ですか?」

「そのまんまの意味だよ。知らなかっただろうけど、君には同じ両親から生まれた兄がいたんだよ」


 その言葉にわたしははたと動きを止めた。

 兄? わたしに兄がいた? 血の繋がった本当の兄が?


「知りたい? 君の兄の事」


 戸惑いながらも頷くと、イザークは暫し考えるように唇を手に当てる。


「そうだなあ。僕も少ししか会った事ないから詳しくは言えないけど、やっぱりきょうだいだけあって似てた気がする。目や髪の色なんて特にね」

「あの……その人は、今どこに?」

「死んじゃったよ。病気で」

「え……?」


 あまりにもそっけない言い方に耳を疑った。イザークは更に何かを思い出すように視線を上向ける。


「そういえばそいつ、ちょっと気味の悪い絵を大事にしてたって聞いたっけ。顔が真っ黒に塗り潰された肖像画を」


 それを聞いて、わたしははっとする。


「……まさか、その人の名前って、エミール?」

「驚いたな。なんで知ってるの? もしかして、どこかで会ったことある? 僕と君みたいに」


 イザークは目を瞠った。 

 わたしは混乱した頭で考える。


 まさか、わたしたちがきょうだいだった……?

 でも、それなら、ヴェルナーさんがわたしたち二人の事を「似ている」と言ったのも頷ける。確かにあの人もエミールさんと髪の色が似ていると言っていた。それに、性格も……


 返事をしないわたしがショックを受けているのかと思ったのか、イザークが続ける。


「そんなに悲しまなくてもいいよ。他にもきょうだいは沢山いるから。僕もそのうちのひとりなんだ。もっとも、母親は違うけど」

「え?」


 きょうだいだと名乗った目の前の少年は、妖しく目を細める。


「僕たちのお父様は、表舞台にこそ出ないものの、たいへんな権力を持っていてね。それこそ、この国の命運を左右しかねないくらいの。お父様は優秀な後継者を欲しがってる。その為にいろんな環境で自分の子供を育てる実験をしてるのさ。お父様の力のおこぼれにあずかろうとする側近達の集団――通称『機関』に子供を預けてね。もちろん、機関に属する側近達も競うように熱心にそのこども達を育てるよ。優秀な子に育て上げれば、自分やその跡継ぎが取り立ててもらえるチャンスだからね。でも、お父様は女のこどもにはあんまり興味ないんだ。だから君はおざなりにされてたんだけど、さっきも言ったとおり、君の兄が入学直前に残念な事になっちゃったからね。彼と君の後見人でもある人物が焦ってしまった。それで、性別だろうが年齢だろうが関係なく、君をこの学校に放り込んだってわけ。君がとある犯罪を暴いたって聞きつけて、芽が出ると踏んだのか……でも、詳しい事情を説明してないところを見ると、あわよくば……って感じかもね」

「な、なにそれ……そんなの、おかしいです。自分のこどもをそんな風に育てるなんて……」

「お父様の崇高な思想を理解するのは、君にはまだ難しいかな?」


 イザークは首を傾げると、わたしとの間を詰める。


「ねえ、この機に僕たち、手を組まない? 承諾してくれたら君の性別の事は黙っていてあげるし、今よりいい生活をさせてあげる。もちろん卒業してからも。僕の後見人は、君の後見人より遥かに力があるんだ。君だって、孤児院の連中みたいな最期は遂げたくないでしょ?」

「それって、どういう……」

「わからない? 君が育った孤児院、火事で無くなったんだよね? あれ、機関がやったんだよ。君がこの学校に入学すれば用済みだし、君を通じて機関の存在が外に漏れないようにって。そのために全部燃やしてしまえば手っ取り早いでしょ」


 それを聞いて、わたしは口元を手で覆う。


「なんて――なんてひどいこと」


 そう口にするのが精一杯だった。

 この人達が孤児院を? その為だけに? まさか。そんなの、狂っている。

 なによりも、そんな恐ろしいことを、まるでなんでもないことのように口にするイザークを見て、背中に冷たいものを感じた。

 あまりの衝撃に、思わずよろめきそうになりながらも、なんとか踏みとどまる。


「君も落ちこぼれに認定されたら、同じように処分されちゃうかもしれないんだよ。そんなの嫌でしょ? だからさ……」


 イザークは優しげに微笑む。その笑顔に、彼の言うとおりにすればすべて上手く行のではと錯覚してしまいそうになる。誘惑に負けまいと必死にわたしは後ずさる。

 いやだ、こんなところ。逃げ出したい。いや、逃げなければならない。だから、わたしは、わたしは――

 わたしは考えるときの癖で、左目の下に指をあてる。

 その途端、落ち着きと共に、思考が鮮明になったような気がした。

 少しの間を置いた後、わたしは静かな声で告げる。


「……あなたは、いえ、あなただけじゃない。あなた達の機関とやらも勘違いをしています。わたしは――わたしは、ユーニじゃありません」


 イザークはあしらうように軽く笑う。


「この後に及んで言い逃れする気? 僕を侮らないで。名前だけじゃない。年齢、体格に髪の色、目の色――すべてが君の特徴と一致している。それに、君にはユーニである印として、足に痣があるはずだ。まさか無いとは言わせないよ。調べはついてるんだからね」

「ええ、確かにわたしの足には痣のようなものがあります。けれど、正確にはそれは痣ではなく『火傷の跡』なんです。あなたはさっき幼い頃に会った事があると言いましたけど、わたしは思い出せなかった。それは、あなたが会ったのがわたしではなく、本物の『ユーニ』だったからです」

「ちょっと待ってよ。本物のユーニってなに。それじゃあ君は誰なわけ? 」

「わたしの本当の名前は――アウグステ。八月生まれのアウグステです」


 イザークは黙ったまま不審そうに眉をひそめる。わたしが孤児院で一緒に育ったこどものことまでは知らないんだろう。


「あなたはユーニと会うために、随分と強引に彼女を連れ去ったみたいですね。そのせいで、孤児院ではちょっとした騒ぎになりました。それはそうですよね。大切な支援者からの預かり物だったこどもが一時的に行方不明になってしまったんですから。幸い無事だったものの、これから先もまた同じようなことが起こるかもしれない。それを恐れた教会の人たちは、本物のユーニと外見の似ているわたし――アウグステとを入れ替えたんです。もしかしたら、最初からわたしはユーニのスペアのつもりであの孤児院に引き取られたのかもしれません。あんなに特徴の重なるこどもが、同じ孤児院で育つなんてことは珍しいでしょうから。ともかく、その事件のすぐ後に、わたしは火傷を負いました――それも、教会の人たちによって、焼けた火箸を足に押し付けられて……その結果、わたしはユーニと名乗ることになり、痣を隠した本物のユーニは、アウグステと名乗ることになったんです」

「……まさか」

「たぶん、ある程度成長して、身の安全が保障されるまでは、その入れ替わりを継続するつもりだったんでしょう。けれど、そこで予想外の出来事が起きてしまった。ユーニの兄であるエミールの死です」


 わたしはイザークの顔をじっと見つめながら続ける。


「大切な『お父様』からの預かり物であるこどもをなくした後見人は焦ったんでしょう。挽回するべくエミールの妹をこの学校に送り込むことを考えた。折りよくその妹が、ある事件の真相を暴いたと聞いて、何かしらの才能があると踏んで。けれど教会側も困ったでしょうね。それをしたのは本物のユーニではない、身代わりのこどもだったんですから。だけど、そんな事を後見人に伝えれば、信頼を損ねて寄付を打ち切られてしまうかもしれない。かといって、幼い頃ならまだしも、14歳にまで成長した子供をまた入れ替えるなんて難しいでしょう。だから、教会は入れ替えた事実を隠蔽し、わたしを『ユーニ』のまま、この学校に送り込んだ。だって、わたしと本物のユーニは外見の特徴が同じだったんですから。入れ替えたままでもばれないと思ったんでしょうね」

「馬鹿な……まさか、そんなこと……」


 にわかには信じられないといった様子でイザークは呟く。


「わたしの言うこと、嘘だと思いますか? それなら確かめてみますか? 本物の『ユーニ』と並べて比較して……そんなことできませんよね。全て燃えて無くなってしまったんですから。やったのはあなた達の機関です。あなた達は、自分達の手によって、大切な『お父様のこども』をひとり、この世から葬り去ってしまったんですよ」


 黙り込んで考える素振りを見せるイザークに対し、わたしは畳み掛ける。


「ねえ、イザーク。わたし、気になっていた事があるんです」


 イザークがちらりとこちらを見た。 


「もしかして、あなたもわたしと同じなんじゃありませんか?」

「……どういう意味?」

「女であるわたしがすんなり男子校に入学できたのは、この学校自体があなたの言う『お父様』の息が掛かっているから、というだけでなく、”前例”があったからじゃないでしょうか。おそらく、過去にも女でありながら、この学校に入学した人物がいるのでは? ……わたしは、あなたがその”前例”のひとつではないかと疑っています。つまり――あなたが本当に女なのではないかと」


 イザークはこちらを見たまま瞬きする。


「……何を言い出すんだか。言ったでしょ。僕は小さい頃に女の子の格好をしてただけだよ」

「逆ですよ。あなたは小さい頃は普通に女の子として育てられ、ある程度成長してから男の格好をさせられたんです。つまり、今のわたしと同じ。確かにこれは突拍子も無い推測かもしれません。でも、わたしには引っ掛かっている事があります。いつか林の中の、あのあずまやであなたに会った事がありますよね。ほら、あなたは具合が悪そうに横になっていて……あの時あなたは『頭が痛い』と言いましたけど、わたしには腹部を押さえていたように見えました。それに、あの時飲んだアスピリン……あの薬は頭痛だけではなく、腹痛にも効果があるはず。あの時のあなたは頭痛ではなく、腹痛を抱えていた。そして、その原因は、女性特有の、毎月の身体の変化から来るものだったんじゃありませんか?」


 黙ったままのイザークに、わたしは続ける。


「それだけじゃありません。あの”少女像”の前で会った日。あの日は入浴日だったはずなのに、あなたはあの場所にいた。はたしてあなたが入浴しなかったのは、あの日だけなんでしょうか? もしかしたら、自身の身体を誰かに見られないように、いつも学校での入浴を避けているのでは? あなたが寮の二人部屋を一人で占有しているのも、女性だという事を周囲に知られないようにしているためじゃありませんか? あなたの後見人は随分と力を持っているそうですから、それくらいの便宜は図れるでしょう」

「相変わらず変に妄想が逞しいね。確固とした証拠も無いのに、憶測だけでものを言うのはいい加減にしたら?」

「証拠は――服を脱げば……」

「はあ? 僕にストリップでもしろっていうの? いやだね。絶対にそんな下品なことしないよ」

「勘違いしないでください」


 イザークが訝しげな視線を向ける。


「服を脱ぐのはわたしです」


 わたしは自身の胸のあたりに手を置く。


「わたしが、この身をもって、自分が女だと公にします。男子校に女子がいたとなれば大変な騒ぎになるでしょう。更に、その女子が『自分の他にも性別を偽っている者がいる』と言い出して、あなたの名前を挙げたとしたら? あなたは自身の潔白を証明しなければならない。あなたの後見人でも庇いきれるでしょうか? たとえその場をしのいだとしても、噂はついて回るものですからね。悪い意味で注目されたら、あなたの『お父様』や機関はどう思うか」

「……そんな事したら、君だってただじゃいられないよ。わかってる?」

「構いません。もうどうなったって良いんです。あなたの一族ではないわたしには、もう帰る家も、家族も無いんですから。でも、このままやられっぱなしというのも癪ですからね。たとえ引っ掻き傷程度であろうと、痛みを与えてから退場したいと思うのは自然なことでしょう?」

「君ってやつは……」


 不意にイザークが恐ろしい目つきでこちらを睨むと、片手を振り上げる素振りを見せた。


「やめろ!」


 その時、クルトの叫び声がし、目の前に飛び出した影が視界を遮る。直後に、イザークの身体が投げ出され、床に固いものがぶつかる音がする。目を向けると、そこには一振りのナイフが落ちていた。わたしは素早くそれを拾い上げる。


「もしもの時のために、クルトに隠れていて貰ったんです。でも、あなたがこんな物騒な物まで用意してたなんて」


 本当ならば、クルトの出てくるような事態にならない事が一番だったのだが、こうなってしまった以上は仕方が無い。

 わたしは天井から垂れ下がっているロープに手を伸ばすと腕に巻きつける。


「今度はわたしたち二人を相手にしますか? あなたの秘密を守るために。でも、もしもまた、わたしたちに危害を加えようとすれば、このロープを引きます。そうすれば鐘の音を聞いた職員がすぐにでも駆けつけるでしょう。その時、あなたはどんな言い訳を使いますか? それとも、誰かが到着するより早く、この塔の長い階段を降りきれるかどうか試してみますか?」


 イザークは立ち上がりながらわたしとクルトを交互に睨みつけるが、先ほどのように危害を加えるような素振りは見せない。


「取引しませんか?」


 ロープに手をかけたまま、わたしはささやくような声で告げる。


「わたしを自由にしてください。わたしが本物の『ユーニ』ではなかったこと。本物の『お父様のこども』は機関の手違いによってすでにこの世にないこと。その情報をあなたが独自に得たことにすれば、少しは有利に働くんじゃありませんか? あなたからすれば、『お父様』の後継を争う相手が一人減るし、それに『お父様のこども』ではないわたしが、一族の末席にでも加わる可能性を阻止できたというのなら、あなたも、あなたの後見人も、少なからず評価は上がると思いますけど」


 イザークが低く唸るような声を上げる。わたしは真剣な声で続ける。


「でも、今後あなたがわたしやクルト、それに関わる人たちに少しでも何かしようとするなら、わたしはどんな手を使ってでも、足掻いて足掻いて、わめき散らして、泥にまみれてでも、あなたや機関、それにあなたの『お父様』を破滅させてみせます。絶対に」


 クルトが庇うようにわたしの前で片手を広げる。 


「ユーニを解放しろ。無関係にも関わらず、妙な事に巻き込んだ上に命まで奪おうとして……こいつはおまえ達の玩具なんかじゃないんだ」


 イザークの激しい憎悪の視線を受け、わたしは足が竦みそうになる。

 ――怖い。こんなところ、早く逃げ出したい。けれどわたしは、わたしのために、ここで踏みとどまらなければいけないのだ。それに、わたしはひとりじゃない。クルトだっていてくれる。

 わたしは片手でクルトの上着にぎゅっとしがみつく。

 やがてイザークが声を上げた。


「なんで、君はいつもいつも、そうやって僕に盾突くんだよ……お父様の血を引いてもいないくせに! 君たちみたいな奴らは、大人しく僕たち上の人間に踏みにじられるのがお似合いなんだよ! それなのに、なんで――」


 今までもそうやって叫び、喚いて自分の思い通りにしようとしてきたのかもしれない。その姿は傍若無人の王子様というよりも、まるで思い通りにならない事に対して癇癪を起こす子供のようだった。

 やがてどうやってもままならないと気付いた子供は、唸り声にも似た声を上げてこちらを睨みつける。

 そしてイザークは微かに震える声で呟いた。


「……わかった、その条件をのむよ」

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