六月と歪んだ少女像 1
白いリンゴを両手で包み込むようにして、わたしは学校の敷地内にある小径を歩いていた。
足を踏み出すたびに、マフラーに結びつけた鈴が鳴る。
ヴェルナーさんがわたしの事を判別できるようにと買ってくれた鈴。あの人のいない今では、もうそれを身に付ける必要なんて無いはずなのに、何故だかわたしはその鈴を取り外すことができないままだった。
あれからわたしは、ヴェルナーさんの残していった白いリンゴをぼんやりと眺めて過ごす事が多くなった。けれど、そうしていると、クルトがやたらとお菓子を持ってきたり、お茶を勧めてきたりするので、なんだか申し訳なくて、今日は部屋を出てきたのだ。
どこかにゆっくりとリンゴを眺められる場所はないものか。林の中のあの石造りのあずまやは、この季節は冷えびえとしていて、長居するには辛い。
そんなことを考えていると、鐘が3回鳴った。
そうか。今日は入浴日だったっけ。まあ、わたしには関係のない事だけれど。
その時ふと思いついた。
そうだ。鐘つき塔の上から学校の敷地内を眺めてみよう。高いところからなら、誰にも邪魔されない静かな場所が見つかるかも。
早速鐘つき塔へと足を向ける。石造りの高い塔の入り口は扉がなく、アーチ状の穴が開いているだけだ。中に入ると、壁に沿って螺旋状に設置された階段が上まで続いている。
ぐるぐると回りながら上へ上へと進んでいくと、鐘つき場に出た。
胸くらいの高さの石壁に囲まれたスペースは、思っていたより広く感じる。頭上を見上げると、三角屋根の下のうす暗い場所に、大きな鐘がいくつかぶら下がっているのがぼんやりと見える。そこから鐘を鳴らすための太いロープが垂れ下がっていた。
誰もいない塔の上から学校の敷地を見下ろす。風が冷たいが、眺めは良い。
その景色に嘆息していると、校舎から少し離れたところに何か光るものが見えた。
なんだろうと目を凝らすが、反射した日光でぼんやりとしてよく見えない。
唐突に興味が湧いてきて、そこに行ってみることにした。
光の正体は、ブロンズでできた少女像だった。像が日光を反射していたのだ。等身大で作られたであろうその少女は、幼い顔付きをしていて、背丈はわたしよりも小さい。
こんなところにこんなものがあったなんて知らなかった。
男子校に少女の像という取り合わせがなんだか不思議だが、一体どういう経緯でここに置かれる事になったんだろう。
ふと、少女の指の隙間に一匹の蜘蛛の姿が見えた。巣を作ろうとしているのか、すでに何本かの細い糸が張っている。
蜘蛛にも事情があるだろうが、少女の像が蜘蛛の巣まみれになるのも忍びない。足元から適当に落ち葉を拾うと、それで蜘蛛を取り除こうと近づける。
「なにしてるの?」
鋭い声に、思わず振り返る。そこに立っていたのはイザークだった。
「び、びっくりした……」
わたしが胸を抑えながら呟くと、イザークは唇の端を吊り上げる。
「なにその反応。なにか後ろめたいことでもしてた? まさか、その像にいたずらでもするつもりじゃないだろうね」
「ち、ちがいますよ!」
わたしは慌てて像の手の部分を指差す。
「ほら、ここ、蜘蛛がいたので、どこか別の場所に移そうと思って」
「ふうん」
隣に並んだイザークは、わたしの示す場所を確認する。次の瞬間、すっと手を伸ばして蜘蛛を摘み上げたかと思うと、そのまま近くの草むらに放り投げた。
その行動に少し驚いた。
なんとなく、イザークはそういう事をしない人だと思っていたから。虫とか触るのを嫌がりそう。
「わたし、今日初めてこの像の存在を知りました。この場所だってほとんど来たことなかったし……イザークはこの像の事、前から知ってたんですか?」
だが、彼はそれには答えず、残っていた蜘蛛の糸を払い落とし、他にも変わったところがないか目を配ってるようだ。
うーん……無視されてるのかな……なんだか気まずい。ここはおとなしく退散した方が良いのかも。
そう思ってそっとその場から離れようとした時、イザークが口を開いた
「君さ、この像のこと、どう思う?」
急に尋ねられて戸惑う。
「どうと言われても……」
「なんでも良いからさ。見たままの感想を聞かせてよ」
「ええと」
戸惑いながらも、わたしは像の爪先から頭のてっぺんまで眺め回した後、考えながら口を開く。
「とっても上手だと思います。女の子の顔は整っていて綺麗だし、それに、細部の作りこみがすごいです。ほら、ここのスカートの皺なんて、まるで本物みたい」
指差しながら説明すると、イザークが溜息をついた。
「木を見て森を見ずの典型だね」
「どういうことですか? 」
「ほら、よく見て。この像、足の大きさや太さなんかは年相応に見えるのに、上半身にいくにつれて徐々に不自然に大きくなってく」
そう言いながら、イザークは像の隣に立つと腰を少し屈める。
「こうして並ぶと良くわかるだろ? 肩幅や頭部なんて僕より大きい。胴だって妙に長いし」
うーん、言われてみれば確かに……
「つまり、この像は、致命的にバランスが狂ってるってこと。いくら細部のできが良くたって、これじゃあ台無し」
なかなか厳しい事言うなあ……わたしに対する授業中の美術教師みたいに厳しい。
「あ、もしかして、この像を作る時にモデルになった女の子が、実際にこういう体型だったという可能性もあるんじゃ……」
「馬鹿な事言わないで。こんな逞しい肩幅の女の子がいてたまるかっての」
えー、いるかもしれないのに……
「イザークは、この像のこと気に入らないんですか? さっきから貶してばっかりですけど」
「ああ、気に入らないね。こんな出来損ないみたいなものが、いっぱしの作品として扱われて、ここに置かれてるってことが。他にまともなものがいくらでもあったはずだよ。よりによって、なんでこれなのかってさ」
その割には、この像が汚れたりしないよう気を配っていたみたいだけれど……
それに、よく見れば、台座の周りだけ雑草が生えていない。もしかしてイザークが手入れしていたのではないだろうか。
でも、イザーク自身はこの像を気に入らないという。変なの。
「そういえば君はこういうのに興味あるんだ? この像の致命的な狂いにも気づかないのに?」
「そこを突かれると痛いですけど……でも、バランスがおかしいとしても、わたしはこの像のこと、綺麗だと思ったんです。そういう事ってありませんか? ほら、ミケランジェロの作った女性像だって、何故か男性みたいに逞しい体つきなのに世間では評価されているし、人体に忠実かどうかというのは大した問題じゃないと思うんですよ」
「あきれた。巨匠の作品を引き合いに出して、自分の見る目のなさを誤魔化すつもり?」
イザークは口もとに皮肉めいた笑みを浮かべた。
「どいつもこいつも見る目がないよ。君もこの像の作者も、学校も」
「どういうことですか?」
問い返すと、イザークは視線を像に向ける。
「……この像は最初からこの場所に設置されるって決まってた。それは学校側も作者もお互い了承済みだったはずなんだ。けれど、実際に像がここに置かれると、作者は『位置が違う』って言ったんだ。ここに置かれるはずじゃなかったって。変な話だと思わない?」
わたしをからかうために、イザークが適当な話をでっち上げているのでは、と一瞬疑ったが、視線をブロンズ像に向けた彼は、なんだか普段より真剣な顔をしているように見えた。
「たしかに不思議ですね。自身の作品が風雨にさらされて傷むのか嫌だったとか? でも、それなら最初の時点で了承しないだろうし……うーん、わかりません。それで、その言葉の意味って結局どういう事だったんですか?」
イザークは肩をすくめる。
「それがわからないから、ここに置きっぱなしになってるんだよ。けど、僕の予想では、作者がこの場所に置かれた像を見たあとで、自分の作品の致命的な狂いに気付いて、それを誤魔化すためにそんな事を口走ったんじゃないかって思ってるけどね」
「作者に真意を尋ねなかったんですか?」
「尋ねたくても無理なんだ」
「どうしてですか?」
「だって、この像の作者、もうとっくに死んじゃったから」
「え?」
意外な言葉に、わたしは思わずぽかんとしてしまった。
「だから真相はわからないままなのさ」
「あの、イザークはこの像と作者について、随分詳しいみたいですけど、これを造ったのって、有名な人なんですか?」
イザークは首を振る。
「いいや、まったく無名の芸術家。ただ、僕のちょっと知ってる人だった。だから、さっき話したような、この像にまつわる作者の言動なんかについても知ってるってわけ。けど、学校側もどうかしてるよ。作者の発した言葉の意味を調べようともせずに、かといって撤去もせずにここにずっと置きっぱなしにしてるんだから。きっとこの学校の偉いやつは、君みたいに芸術を理解しない野蛮人に違いないよ。バランスが狂ってようが気にしない。賑やかしとでも思ってるのかもね」
相変わらず酷い事を言う。まあ、彼の口の悪さをとやかく言うのは今更だけれど。
わたしはゆっくりと像の周りを歩く。作者の不可解な発言の手がかりになるようなものが無いかと思ったのだ。
少女は足を一歩後ろに引いて立ち、顔をやや上向けている。その長い髪は背中にかかり、片方の手には百合の花を持っているのがわかる。イザークの言うとおり、バランスは狂っているのかもしれないが、細部の作りこみはしっかりしている。
そういえば、作者のサインが見当たらない。台座の底面にでも書かれてるんだろうか。
わたしはおもむろに地面に両手と両膝をつけると、下から像を見上げる。
「……君はなんなの? そうやって地面に這いつくばるのが趣味なわけ?」
イザークの驚いたような呆れたような声が聞こえる。
その言葉に言い返そうとしたところで、遠くから
「おい」
という声が聞こえた。
顔を上げると、クルトが早足でこちらに向かってきた。かと思うと、わたしの腕を掴む。
「なにやってるんだ。入浴時間に遅れるぞ」
そう言って立ち上がらされると、強引にその場から連れ出されてしまった。
「あの、わたし、お風呂になんて入りませんよ」
歩きながら我にかえったわたしは、慌ててクルトに告げる。
「わかってる。お前、またあの二年生に絡まれてたんだろ?」
「え? そんなふうに見えました?」
別にそんなつもりじゃなかったけれども。心配してくれたのかな……
わたしはイザークから聞いた少女の像に関することをクルトに伝えた。
「像の見方を変えたら、何かわかるんじゃないかと思って……それで、色々な角度から試していたんです」
そういうとクルトは「はあ? 」と気の抜けたような声を発した。
「……なんだ。俺はてっきり、あの二年生から地面に這いつくばる事を強要されているのかと思った」
「さすがにイザークだって、そんな非人道的なことはしないんじゃないかと……」
「お前、まさか、今まであいつに何をされてきたのか忘れたのか?」
うーん……そう言われてみれば、まずいケーキを食べさせられたり、せっかくのジャムを台無しにされたり、結構ひどい事されてるかもしれない……
「気をつけろよ。それでなくても、このところお前はいつにも増してぼんやりしてるし……」
「……すみません」
やっぱり、クルトもここ最近のことを気にしていたのだ。もしかして、今も彼はわざわざ探しに来てくれたんだろうか。いや、まさかね……散歩でもしてたのかな。
でも、こんなことじゃいけない。しっかりするんだユーニ。
そう心の中で呟いて、自戒するようにこっそり自分の頬をつねった。
数日後、わたしは再びあの少女像の前にいた。
手近な木の枝で、像の前の地面に線を引いていくと、それが大きな長方形の枠になった。
わたしは持参したシャベルを構えると、枠の中に勢い良く先端を突き立て、土を掘り返していく。
しばらく無心で地面を掘っていると、慌しい足音が近づいてきた。
「ちょっと、そこで何やってるんだよ!」
その苛立ったような声に、シャベルを動かす手を止めて顔を向けると、声の主はイザークだった。
「地面を掘っているんです。この少女像を見て、わたしも創作意欲が刺激されまして。この場所に花壇を作ったら素敵かなーと思ったんです」
「花壇?」
眉をひそめるイザークに、わたしは胸を張って説明する。
「そう。その名も『塹壕花壇』。深く掘り下げた地面を塹壕に見立てて、底の部分に花を植えるんです。塹壕のように閉塞感と悲壮感溢れる場所で花を眺めることにより、その美しさがより一層際立って感じられるのでは……という意図の前衛的な芸術作品です。あ、せっかくだから、周りに土嚢を積んだら、より塹壕っぽさが出るかも」
「はあ? そんなところに花を植えても、日光が当たらなくてすぐに枯れるのが目に見えてるよ。花の苗を無駄にしたくなかったら、さっさとその塹壕花壇なんて馬鹿馬鹿しいものを作るのはやめることだね」
「でも、ミエット先生は『それは素敵な考えだね』って賛同してくれましたよ。ここに花壇を作る許可もくれました」
「あの園芸馬鹿は、自分の仲間が増えるのが嬉しいだけで、深く考えてなんかいないんだよ」
園芸馬鹿って……確かにあの先生は園芸に関することには特に熱心だけれども、それにしたって辛辣だ。
「でも、わたしはちゃんと許可をもらっています。だから、わたしにはここに花壇を作る権利があるんです。それを止めさせたいというのなら、イザークも正当な理由を提示してください。それに、もしかすると将来『第二のミケランジェロ』と評される芸術家の作品を目にすることになるかもしれませんよ」
「待って。まさか、君はその塹壕花壇とやらでミケランジェロと肩を並べるつもりでいるわけ? ……うわあ、信じられないほどの厚かましさだね。どこからそんな自信が湧いてくるのか知りたいよ。花畑なのは君の頭の中なんじゃないの?」
「ほっといてください。ともかく、わたしの独創的な創作活動を打ち切る正当な理由が無いのなら黙っていてください」
わたしが再びシャベルで地面を掘り返し始めると、やがてイザークは諦めたのか、はたまた花壇の制作中止要請を得るためか、どこかへ行ってしまった。




