六月と白い林檎 3
「ねえクルト、お願いがあるんです。きいてもらえますか?」
翌日の放課後、わたしは何気ない風を装ってクルトに切り出す。
けれど、なぜか彼は一瞬言葉に詰まったようだった。
「……内容による。突拍子も無いことなら協力しないからな」
クルトは慎重に答えた。それをある程度予測していなかったわけでもない。わたしもあらかじめ考えていた内容を伝える。
「実は、ヴェルナーさんが体調を崩したらしくて、昨日も少し具合悪そうにしてたんです。心配なので様子を見に行けたらと思って……クルトは前に、学校の外に出るために木を伝って塀を乗り越えたって言ってましたよね? その木の場所を教えて欲しいんです」
あんな事があって、ヴェルナーさんがどうしているか気がかりだった。部屋が荒らされた事についてもだが、特にエミールさんの作ったあのオブジェがあんな事になって気を落としているのではないか、それとも再びディルクに何かされているのではないかと考えると、授業にも身が入らなかった。
当人には来るなと言われたけれども、少し覗く程度なら大丈夫なんじゃないか。
けれど、そんな事を正直にクルトに伝えたら、反対されるかもしれない。昨日の出来事だって打ち明けていないのに。だからこんな理由をでっちあげた。
なんとか学校から外に出て、彼の様子を確認したかった。せめて無事な姿を見るだけでいい。
「あの人だって子供じゃないんだ。少し具合が悪そうだったってだけで、そこまでして様子を見行くのは大袈裟じゃないか?」
マフラーを買うためだけに外に出た人に言われたくない。けれど、それを口にしてクルトの機嫌を損ねるような事になったら困る。わたしはなおも食い下がる。
「でも、万が一って事もあるし……少しだけ。ほんの少しだけで良いんです。少し様子を見たらすぐに戻ってきますから。クルトだって、もしもロザリンデさんの具合が悪そうだったら、放っておけないでしょう?」
「それはまあ、そうだけど……」
「お願いします! でないとわたし、気になって気になって――」
「夜しか眠れないって言うんだろ? ……わかった。わかったからもうその言い回しは使うな。これ以上ねえさまみたいな事を言われると、今までの【お願い】を思い出して落ち着かなくなるんだよ」
「それじゃあ……」
「ああ、協力してやる。ただし、夕食までには戻るんだぞ」
「ありがとうございます!」
クルトが街へ出るのに使ったという木は確かに素晴らしい枝ぶりだったが、わたしの身長では敷地を囲む塀にわずかに届かなかった。それでも諦めきれず、クルトに手を貸してもらって、やっと外に出ることができた。
もしものために備えて、クルトには学校に残ってもらう事にした。夕食までにわたしが戻れなかった場合に、うまく誤魔化してくれるだろう。
ヴェルナーさんの家にたどり着いたわたしは、近くの建物の陰から様子を伺う。
外から見るアトリエの様子は、いつもとなんら変わらないように見える。
ヴェルナーさん、外に出てきてくれないかな……なんて、そんな都合のいいことあるわけ――
「そんなところで何をしているんだ?」
出し抜けに背後から声を掛けられ、飛び上がりそうになってしまった。慌てて振り返ると、そこには手に荷物を抱えたヴェルナーさんが立っていた。
あまりにも予想外な出会いにわたしは動揺する。
「な、な、なんで、ヴェルナーさんがここに……?」
「画材を買ってきたんだ。絵の具と、他にも色々と……」
画材って……昨日あんな事があったばかりだというのに、この人は絵の事を考えているのか。
あまりにもマイペースな行動に呆然としていると、ヴェルナーさんが咎めるような視線を向けてくる。
「君こそ、学校はどうしたんだ? どうやってここに?」
その言葉に、今度は自分が問い詰められる番だと気付いて、急にしどろもどろになる。
「実は、塀を超える方法があって、それを使って抜け出してきたんです。ヴェルナーさんの事が気になって……もしかしたら、また酷い目にあってるんじゃないかと考えたら落ち着かなくて……」
目を逸らしながら答えると。頭上から深い溜息が聞こえた。
「……しばらくここには来ないようにと言ったはずだが。酷い目にあうかもしれないのは君だって変わらないんだ。俺のことをとやかく言う前に、自分の行動を省みるべきだ」
彼にしては珍しく厳しい言葉に、わたしは叱られた時のように思わず首をすくめる。
「すみません……」
「……ともかく、学校まで送ろう。荷物を置いてくるから少しだけ待っていてくれ」
「い、いえ、そんな、大丈夫ですよ。ここに来る時だって何も起こらなかったし……」
「そういう問題じゃない。とにかく、今は勝手な行動はしないでもらえないか」
「でも、その、これから知り合いの家で梯子を貸してもらう予定なんです。それがないと塀を越えられないので……」
そうなのだ。学校へ戻るためには梯子が必要だ。だからクルトに頼んで、梯子を貸してもらえるようにとロザリンデさん宛てにしたためた手紙を持ってきているのだった。
「……梯子ならこの家にもある。それを使えば良いだろう」
そこまでしてもらうのは申し訳なかったが、断るのも躊躇われた。昨日の彼の警告を無視したのは事実なのだ。これ以上彼の言葉に背いて勝手に行動して、もしもの事があれば目も当てられない。
結局、前日と同じように、学校まで送ってもらうことになった。
無言でふたり並んで歩きながら、わたしはちらりと隣を窺う。
片手で梯子を肩に引っ掛けて背負うように持つヴェルナーさんは、何かを考え込んでいるように押し黙っている。
やっぱりヴェルナーさん、怒ってるのかな……
無理も無い、せっかくの忠告を無視してここまで押しかけてきたのだ。いい気がしないのは当然だろう。
でも、とりあえず彼の無事は確認できたのだ。画材を買いに行くところを見ても、普段どおりのように振舞っているみたいだし、わたしが考えていたほど落ち込んではいないのかもしれない。
それがわかっただけでも良かったと、ひそかに胸を撫で下ろした。
それにしても、どうしてわたしはこんな事をしてしまったんだろう。きつく注意を受けていたにもかかわらず、今日みたいに学校を抜け出して彼の家まで行ってしまうだなんて。
頭の中ではそうわかっていたはずなのに、なぜかどうしても堪えられなかったのだ。冷静になった今なら、自分でもどうかしていたと思い返す事ができるのに。
やがて学校のあの木のそばの塀までたどり着くと、ヴェルナーさんが塀に梯子をかけてくれた。
それを上る前に今日のことをきちんと謝りたい。そう思っていると、今まで黙っていたヴェルナーさんが、改まったように口を開いた。
「これからもこういう事が続くのはよくない。わかるだろう? 俺もしばらくは極力外出を控えることにするから、それでゆるして貰えないか。君が心配してくれるのはありがたいが、それで君になにか起こるような事があれば意味がない」
ゆるすもなにも、勝手な事をしたのはわたしのほうだ。謝るのはこちらではないか。
言いかけるわたしよりも先に、ヴェルナーさんは梯子を示す。
「早く上った方がいい。こんなところを誰かに見られたらまずいだろう?」
そう急かされ、ろくな謝罪もできないままにわたしは梯子に足をかけた。
「ヴェルナーさん」
塀の上からわたしは呼びかける。
「これからは、ヴェルナーさんの言う事を守ります。だから――だから、いつかこの騒動が収まったときに、またあのアトリエで絵を教えてください。お願いします」
こちらを見上げたヴェルナーさんは黙ったままだったが、何故だか眩しそうに目を細めたような気がした。
「戻ったか。それでヴェルナーさんの様子はどうだったんだ?」
自室へ戻ると、待ち構えていたクルトに問われる。
「ええと、もう元気になったみたいです。梯子も貸してくれました。騒いだりしてすみません。わざわざ手紙まで書いてもらったのに、それも無駄になってしまって……」
「やっぱりな。お前、大袈裟なんだよ。だいたい、他人の心配より、自分の頼りなさを先になんとかするべきじゃないのか」
そんなクルトの軽口にも言い返す気力は無く、わたしはただ弱々しい笑みを返した。
日曜日、わたしはまたヴェルナーさんの家の前にいた。あれだけ来るなと念を押されたにもかかわらず。
でも、今日はただ、この間借りたハンカチを返しにきただけ。それだけ済ませたら帰るのだ。そう弁解するように自分に言い聞かせると、思い切って家のドアをノックする。
けれど、暫く待ってもドアが開く気配は無く、しんと静まり返っている。
もしかして留守なんだろうか。
わたしはニ、三歩離れて家全体を見回す。
「ねえ、あなた」
不意に飛んできた声にびくりとしながら、そちらのほうへと顔を向ける。
見れば、隣家に住んでいるあの赤毛の女性が少し離れた場所に立っていた。彼女はこちらに近づきながらわたしに話しかける。
「ああ、やっぱり。あなた、いつかうちに訪ねてきてくれたことがあったわよね。あなたに渡すものがあるのよ。この家の人に頼まれて。あの人、画家だったんですってねえ。知らなかったわ。どうりで――」
家を見上げながら話す女性の言葉を遮るように、わたしは勢い込んで問う。
「あ、あの、今、頼まれたっておっしゃいましたけど、この家の人は今どこに? 留守なんですか?」
女性は目をぱちくりさせる。
「知らなかったの? あの人なら今朝早くに引っ越したのよ」
「え……? 引っ越したって、どこに……?」
「さあ、そこまでは聞かなかったけれど……あたしはただ、あなたに渡して欲しいものがあるって言われて……ともかく、今からうちまで来てもらえる?」
引っ越した? ヴェルナーさんが? アトリエから人の気配がしないのはそのせい? でも、本当に? 少し出掛けているのを隣家の女性が勘違いしているだけでは?
混乱しながらも、とにかく女性に付いていく。
家の中に通されたところで、ひとりの女の子が駆け寄ってきた。以前に毛糸のモチーフをあげた赤毛のあの子だ。上着の胸のあたりにテントウムシの刺繍がほどこしてある。
女の子は首を傾げる。
「こんにちは。お兄ちゃんもあの絵を見にきたの?」
そう言って指差した先には、壁に立てかけられた一枚のカンバス。わたしの視線に気付いたのか、母親である女性もそちらを見やる。
「その絵、お隣の画家さんから貰ったのよ。『未完成で申し訳ないけれど、迷惑でなければ受け取って欲しい』って。裏のお庭の風景を描いたんですって。綺麗よねえ。未完成だなんて信じられないわ。あ、まだ絵の具が乾いていないらしいから、あんまり近づかないほうがいいわよ」
そう、それはわたしも見た事がある。ヴェルナーさんの家の裏にある庭の風景だ。
彼は風景画を描いていると言ったが、それを見せるのを渋っていた。おそらく製作途中の絵を誰かに見られたくないという理由から、アトリエにわたしがいる間は別の部屋に置いてあったのだ。それが幸いしたのか、あの日ディルクに滅茶苦茶にされずに済んだのだろう。きっと、これがその絵なのだ。
きれいな絵だ。素直にそう思った。
緑あふれる庭に鮮やかな赤い花が咲いている。ゼラニウムの花だ。女性の言うとおり未完成とはとても思えない。
そのとき、もしかしたらこの絵は最初からこの隣人に贈るために描いていたのでは、という考えが頭をかすめた。
鏡の破片を恐れて庭に入れなくなった隣人のために、永遠に枯れることの無いゼラニウムの絵を描いて贈ったのだ。
それならもしかして――と、わたしはカンバスを隅々まで見回す。
おかしい。
この絵にはテントウムシが描かれていない。
この隣人が我が子の幸せのためにと執着していたゼラニウム。それを描くのならば、同じように彼女がこだわっていたテントウムシが描かれていてもおかしくはない。それが描かれていないという事は――
女性は先ほど、この絵が【未完成】だと言った。もしかしてヴェルナーさんは、最後にこの絵のどこかにテントウムシを描き加えて完成とするつもりだったのではないだろうか。それがディルクの件により叶わなくなり、未完成のまま隣人に渡さざるを得なくなってしまったのだ。
わたしが学校を抜け出してヴェルナーさんに逢いに行ったあの日、彼は画材を買ってきたと言っていた。もしかして、この絵を描くために……?
だとすれば、彼はいつも通りの生活を送っていたわけでは無いのだ。絵を描く事をなによりも優先させ、危険が潜んでいるかもしれないという可能性を把握しながらも、必要な画材を求めて外へと出たのだ。
それなら――それなら、彼があのアトリエを去ることも、先週の事件の直後から考えていたということ……? だから絵の制作を急いだ?
でも、どうしてこんなにも急に? すぐにでもこの街から遠ざかりたかった? ディルクによる更なる報復から逃れるために?
「はい、これ。あの画家さんから、あなたにって」
女性の声に、わたしは思考を中断した。と、同時に、布に包まれた何かを渡される。
布を広げていって、中のものが現れたとき、隣で覗き込んでいた女の子が歓声にも似た声をあげた。
「わあ、白いリンゴね」
そこにあったのは、石膏でできた真っ白いリンゴだった。
ぼんやりしたまま寮へと戻ったわたしは、ソファに腰掛けて、例の白いリンゴをずいぶんと長い間見つめていた。
いつだったか、リンゴの角がわからないとヴェルナーさんに言った事がある。白いリンゴがあればいいのに、とも。
あの時のわたしの言葉を彼は覚えていて、それでこの白い石膏のリンゴを作ってくれたのだ。もしかすると、あのやりとりの後に作っていてくれたのかもしれない。
けれど、直接渡してくれなかったのはどうしてなんだろう。今日だってわたしがアトリエに訪れるのを予想したかのように、白いリンゴを隣人に預けていった。出発をほんの数時間遅くするだけで直接渡す事だってできたのに。それもしないでどこかへ行ってしまった。
――わたし、ヴェルナーさんに嫌われちゃったのかな……
彼はもうわたしと顔を合わせたくなかったのかもしれない。わたしが余計な事をしなければ、エミールさんの作ったあのオブジェは壊れていなかったのだろうから。表面上は気にしていない風を装ってはいても、やはり心中穏やかではなかっただろう。だから、前々から作ってあったこのリンゴを、直接渡すことなく隣人に託したのではないか。複雑な想いを抱えた彼のせめてもの置き土産として。
でも、最後にひとめでも逢いたかった。
失意の中、手の中のリンゴを見つめながら、ふと、あることに気付いた。
このリンゴ、なんだか重い……? それに、冷たい。
その考えに至った瞬間、咄嗟にその白いリンゴを頬に押し付ける。そこが一番敏感でわかりやすいと思ったからだ。
暫くそのままでいた後にリンゴを離し、押し付けていたあたりを指で撫でる。わずかだが、そこにだけ湿り気が感じられた。
わたしは手の中のリンゴをゆっくりと回転させながらまじまじと見つめる。リンゴは汚れもなく真っ白だ。
普通に考えれば、このリンゴは石膏型から外した後に、表面の汚れを落とすために念入りに洗浄したはずだ。そのとき石膏が吸収した水分が、いまだ抜けきらずに残っているのだ。だから湿っていて、その分重い。
つまり、このリンゴが作られたのはごく最近のこと。粘土でリンゴを模刻して、それから石膏で型を取って……一体どれほどの手間が掛かったことだろう。
彼はあの風景画を完成させるよりも、このリンゴを作ることを優先してくれたのだ。未完成の絵を見られることをあんなに嫌がっていたのに、それよりも、このリンゴを……
嫌悪している相手に、わざわざそんな事をしてくれるわけが無いではないか。それをこのリンゴが証明している。
わたしはその白いリンゴを胸に抱くように両手でそっと包む。とても大切なものを扱うように。
その時、ドアの開く音がした。クルトが戻ってきたのだ。
はっとして顔を向けると、彼は驚いたように目を瞠った。
「おい、どうしたんだ? どこか具合が悪いのか? それとも、またあの二年生に何かされたのか?」
答えようとして、自分が上手く声を出せない事に気付く。いつの間にか涙で頬が濡れていた。
隣に腰掛けたクルトは、心配そうにわたしの顔を覗き込む。
「……ヴェルナーさんが――ヴェルナーさんが……いなくなっちゃった……」
やっとそれだけ答えると、その言葉が急に現実感を伴いながらわたしに襲い掛かり、思わず嗚咽の声を漏らした。
その様子に慌てたのか、クルトが取り繕うようにうわずった声をあげる。
「な、泣くなよ。何があったのか知らないけど、ええと、なんていうか……ほら、月並みな言葉だけど、生きてさえいれば、またいつか逢えるかもしれないだろう?」
いつかじゃ嫌だ。今すぐ逢いたいんだ。
そう心のなかで叫びながら、そこでふっと気がついた。
――ああ、そうだ。わたしはあの人のことが、好きだったんだ。




