六月とある姉弟の事情 4
あたりが夕日に包まれる中、わたしはあのあずまやのそばにいた。
なるべく陽が当たる草の上を選び、柱にもたれるように座り込んで膝を抱える。
さっきは我ながら馬鹿げた事を言ってしまった。あんな事を言われてクルトも困惑しているだろう。ただでさえロザリンデさんの事で頭が一杯だろうに、新たな悩みの種を増やしてしまったかもしれない。
ああ、わたしの馬鹿馬鹿。それとなくクルトに話し合いを勧めて、できれば慰めるつもりだったのに、思わず感情が爆発してしまった。これでは台無しではないか。
でも、もしもわたしがクルトと同じ状況だったら――わたしだったら――いや、そんなこと、考えても仕方ないか……
けれど、クルトだって、もしかすると10年前の事故でロザリンデさんを失っていた可能性だってあったのに。それを考えればわたしの言っている事だって大袈裟ではないと理解できるはずではないのか。
後悔と怒りに似た気持ちがぐるぐると頭のなかで混ざり合う。
「やあ、子猫ちゃん」
突然頭上から降り注いだ声に顔を上げる。すぐ近くにイザークが立っていて、わたしの心臓は跳ね上がる。
「あれ? 今まで気付かなかった? 相変わらず鈍くさいなあ」
からかうような口調だったが、わたしの頬に残る涙の跡に気付いたのか、眉をひそめる。
「もしかして泣いてるの? みっともない。まさかホームシックだとか幼稚な理由じゃないよね。それとも誰かに苛められた? 貧相だからって」
ああ、そうだ。この人はこういう人だった。誰かが落ち込んでいれば更に追い討ちをかけるような人なのだ。
「……ちがいます」
憮然としたまま答える。
わざわざ嫌味を言うくらいなら、最初から放っておいてくれたらいいのに。本当にいい性格してる。
その時、遠くで微かな音がした。鈴の音だ。だんだんとこちらに近づいてくる。と、唐突に木々の間から白いものが飛び出してきてイザークの足元にまとわりついた。
よく見れば白いものは学校で飼っている猫のブランだった。
イザークはブランを抱き上げて、その白い身体を撫でてみせると、ブランは気持ち良さそうにごろごろと喉を鳴らす。
わたしは泣いているのも忘れて、その様子をぽかんと見つめてしまった。
信じられない。ミエット先生にしか懐かないと噂されているはずなのに、イザークにやすやすとその身体を触らせているなんて。誰が呼びかけても無視するあの猫が。
わたしが呆気にとられているのに気付いたのか、イザークが唇の端を吊り上げる。
「僕、動物に好かれやすいんだ」
「え、うそだ」
「は? どういう意味?」
「いえ、べつに……」
こんな人に懐くなんて、動物たちも見る目が無いな……
それとも、イザークって動物に対してだけは優しいとか? 棄てられている猫を拾ってしまったりするタイプ? しかし目の前で泣いている下級生を放置して動物と戯れるというのはいかがなものか。その優しさを少しでも人間に向けてくれたらいいのに。
「ところでいつまでここにいるつもり?」
「え?」
「ああ、もう察しが悪いなあ。他人がいると気が散るんだよね。どこか別の場所に行ってくれない? ここ、僕のお気に入りの場所なんだよ」
「は?」
そんな理由で先客を追い払おうというのか。話しかけてきたのもそのため? なんという暴君ぶりだろう。
しかし、今のわたしにはやりあっている気力は無い。少しだけ落ち着いた事でもあるし、しぶしぶ立ち上がると無言でイザークに背を向け、あずまやを後にした。
それにしてもイザークはこんなところで何をするんだろう。前ここで逢ったときみたいに昼寝でもするつもりなのかな。こんな寒い季節なのに。
歩きながら頭が冷えるにつれ、別の問題が頭をもたげてきた。
今度は寮の入り口付近をうろうろしながら考える。
あんな事を言った後で部屋に戻るのはかなり気まずい。でも、このまま外にいるのも辛い。寒いし、お腹もすいた。いっその事、ここはアルベルトに頼み込んで、少しの間部屋にお邪魔させてもらおうか……
そう考えながら建物に入った瞬間、誰かに腕を掴まれた。
「ひっ!?」
突然のことに悲鳴を上げかけるが
「落ち着け。俺だ」
聞き覚えのある声に目を向けると、腕を掴んでいたのはクルトだった。
「ここで待っていれば、いつかはお前が来るだろうと思って……」
「え……」
もしかして、ずっと待ってたのかな。廊下だって寒いだろうに。
先ほどの気まずさから何も言えずにいると
「とにかく部屋に戻るぞ」
と、腕を引っ張られる。そのまま無言で後をついていくと、前を向いたままクルトが話し出す。
「明日、ねえさまと話してみる」
その言葉にはっとした。
「……本当ですか?」
「あれから考えた。お前の言うとおり、ここでねえさまと向かい合わなければ俺はこの先後悔するかもしれない。その時気づいても遅いんだろう。そもそも後悔だったら10年前に散々したはずなのに、どうして忘れていたんだろう。またあんな思いをするのはごめんだ。だから――だから明日は俺ひとりで行く。これは、俺たちきょうだいの問題だから」
そう決意を口にする彼が、どんな顔をしているのかは見えない。
「それと、お前に俺の家族は譲れない。悪いな」
「……そんな、真面目に答えないでください。本気で言ったわけないじゃないですか」
「……そうか」
真面目に答えられると泣きたくなる。最初から叶わない事だとわかっていても。
ああ、本当に、わたしって本当に馬鹿……
クルトが前を向いているうちに素早く目元を手の甲で擦った。
翌日、いつもの日曜日のように、早朝から身支度を整えたクルトの姿を眺める。
なんだか緊張しているみたいだ。既に顔が少し強張っている。大丈夫かな……
「そうだ、ちょっと待っててください」
わたしはお菓子の置いてある棚からチョコレートの箱を持ってきて、クルトに差し出す。
「チョコレートには精神の鎮静作用があるらしいですよ。なのでこれ、クルトにあげます。持っていってください」
「……だからって、こんなに食べ切れない」
「ロザリンデさんと一緒に食べたら良いじゃないですか。美味しいものを食べれば、それだけで幸せな気分になれますからね。ちなみにこのチョコレート、わたしの一番のおすすめですよ。今回は特別に返してくれなくても結構です」
「これはこの間、お前用に俺が買ってきたやつじゃないか」
「そうでしたっけ」
「そうだよ……でも、せっかくだから受け取っておく」
そう言ってクルトはちらっと笑ってみせた。
ヴェルナーさんのアトリエでデッサンをしながら、今頃クルトたちはどうしているだろうかと考える。
朝からそればかり気になって、絵を描いていても上の空なのだが、ヴェルナーさんはいつものように集中しているようで、わたしの不真面目な態度にも気付かないみたいだ。今日ばかりはそのことに感謝する。
いまいち乗り切れないまま、窓から夕日が差し込む時刻に差し掛かった頃、アトリエのドアをノックする音が聞こえた。気が付いたヴェルナーさんが対応しようと立ち上がったので、来客は彼に任せることにして、わたしは木炭を持ち直す。
「ユーニ」
名前を呼ばれて振り向くと、開いたドアの傍にクルトが立っていた。
「あれ? クルト、どうしてここに?」
思いがけない来訪者に、つい声を上げる。
「……いや、ちょっと、その、一緒に帰ろうかと思って……それと――ヴェルナーさんに謝りたくて」
クルトはヴェルナーさんに向きなおる。
「俺は、以前あなたに失礼な事を言ってしまって……ずっと謝りたいと思っていたのに、逃げてばかりで、あいつだけに押し付けたみたいになってしまって――」
「……そんな事、もう気にしなくても……」
「いえ、俺の気がすまないんです。話だけでも聞いていただけませんか?」
言いながら、クルトはちらちらとわたしの事を気にする素振りを見せて、話しづらそうにしていたので、ヴェルナーさんがクルトを誘い、二人して外へと出て行った。
一緒に帰ろうだなんて珍しい。ヴェルナーさんに謝りに来たと言っていたけれど、そのついでだろうか。
ちょうど良い頃合でもあるし、わたしは使っていた画材を片付け始める。それに、ロザリンデさんとの話し合いに関しても早く知りたい。でも、クルトのあの様子だと、結果はおぼろげに予想できた。
どんなやりとりがなされたのかはわからないが、暫くして戻ってきたクルトは、心なしか先ほどより晴れやかな顔をしているような気がした。密かに抱えていた胸のうちを伝えられたのかもしれない。
そのまま二人でヴェルナーさんに別れを告げてアトリエを後にする。
少し歩いたところでクルトは話し始めた。
ロザリンデさんと膝をつき合わせて話し合ったこと。互いの認識に相違があったと判明したこと。今までのわだかまりや、現在の状況。そしてこれからのこと――
「――思っていたよりあっけなかった。どうしてこんな簡単なことが今までできなかったんだろう」
先ほど予測したとおり、二人の話し合いは上手くいったみたいだ。よかった。
「俺もねえさまも、ちょっとした行き違いがあっただけなんだ。それがこんなに拗れてしまうだなんて、お互い思っていなかったけれど。それがわかって、もつれた糸が解けたように気分が晴れて、なんていうか……変な話だが、長い夢から覚めたような……なんていうのは大袈裟かもしれないが、とにかく今日一日で世界の見え方が変わった。そんな気がするんだ」
そう言ってクルトはわたしの顔をまじまじと見つめる。
「今まであんまり気にしてなかったけど……お前って、そんな顔してたっけ?」
「ちょっと、それ、どういう意味ですか!?」
「怒るなよ。悪い意味じゃない」
「あ、わかった。さてはクルトもついにわたしの愛らしさに気付いたって事ですね」
「そんな事言ってない。調子に乗りすぎだ」
クルトは呆れたように溜息を漏らす。
「……でも、お前が背中を押してくれたおかげだ」
そう言って朱に染まった空を見上げる。
「でなければ、こんな風に穏やかな気持ちで夕焼けを眺める事もなかったかもしれない。感謝してる。ありがとう。これまで何度も俺の我侭につき合わせて悪かったな」
ちょっとびっくりしてしまった。クルトがこんなに素直に感謝の言葉を口にするなんて思ってもみなかったから。
「これから日曜日は一緒に来なくていい」
「え?」
「俺の配慮が足りなくて、お前に辛い思いをさせてしまっていたみたいだし……ねえさまには言い含めておくから」
「いえ、そんな」
わたしは慌てて首を振る。
「確かに昨日言ったように、クルトたちを見ていて羨ましかったのは本当ですけど、でも、皆でお茶を飲みながらおしゃべりするのもすごく楽しかったです。それも本当です。だから、迷惑じゃなければ、その、これからもお邪魔したいんですが……駄目ですか?」
その言葉に、クルトは一瞬目を瞠るが
「いや、迷惑なんかじゃない。ねえさまも喜ぶ」
そう言って笑顔を見せた。
相変わらず姉の事が最優先のようだが、それでもなぜだか今日のクルトは大人びて見える。夕日を受ける彼の顔は、どこか満ち足りていて、纏う雰囲気もいつもと違うように思えた。
その綺麗な笑顔に少々見とれながら、わたしも笑みを返した。




