六月とある姉弟の事情 2
ロザリンデさんの【お願い】とは、庭から一晩にして消えた大量のブロンズ像の行方を知りたいというものだった。窃盗団の仕業というのなら、何のためにそんなことをしたのか。それを調べてほしいとクルトに頼んだのだ。翌週の日曜日までにという期限付きで。
いつものようにそれを引き受けたクルトは、寮に帰ってきてから、ずっと難しい顔で何かを考え込んでいた。
そんな姿を横目で見ながら、わたしはロザリンデさんの言葉を思い出し、おそるおそる声をかける。
「あの、なにか心当たりはあるんですか?」
「美術商や古物商をあたってみる。いくら美術的価値が無いに等しいとはいえ、盗んだやつらにその知識があるとは限らないしな。鑑定のためにも専門家の元へ持ち込む可能性はあるだろう」
そう言ってどこかに手紙を書き始めた。
頼られたらどう答えようかとはらはらしていたのだが、今のところその心配はないようだ。こっそりと安堵の溜息を漏らす。
しかし、数日経っても期待していたような情報は得られなかったらしく、そのことが徐々にクルトに暗い影を落としていった。
週の半ばも過ぎた頃、心なしかやつれた雰囲気のクルトが言いづらそうに切り出してきた。
「その、非常に心苦しくはあるんだが……頼む。お前の力を貸してくれないか? この問題、俺ひとりじゃとても解決できそうにない」
密かに覚悟していたことだが、実際にはこの瞬間が訪れなければいいと思っていた。
自分は今ここで、あの姉弟に関する重大な選択をしなければならないのだろうか。弟を解放したいというロザリンデさんの気持ちはわかる。けれど、姉のために願いを叶えたいというクルトの気持ちだって痛いほどわかるのだ。
それに、そんな事情を知ってしまえば、この事件自体わたしが最初に考えていたほど単純なものではない気がする。それを踏まえてもどちらかを選ばなければならないなんて、自分には荷が重過ぎる。ロザリンデさんに頼まれた時からずっと考えていたけれど、今の今まで答えを出せないまま来てしまったのだ。
どうしたら良いんだろう。わたしは――わたしは――
それから更に悪あがきでもするように暫く逡巡した後、やがてわたしは弱々しく首を振った。
「わ、わたしには、できません……だって、何もわからないんです。本当に、なにがなんだか」
それだけ言って俯いた。クルトの顔を直視することができなかった。
「そんな……」
驚いたような、それでいて呆然としたように呟く声が聞こえた。暫くの間を置いて、クルトは我に返ったように続ける。
「……お前にもわからないことがあるんだな。なんだか不思議な気分だ…………わかった。この話はもういい。忘れてくれ」
「え?」
「自分でなんとかしてみる。妙な話を持ちかけて悪かったな」
クルトはわたしを責めることなく、驚くほどあっさりと引き下がった。
かつてわたしの秘密を守る事と引き換えに、半ば無理やり協力する事を迫ったあの彼が。
でも――考えてみればここ暫くは、クルトから以前のように強引に頼みごとをされるような事は無かった気がする。一体どういった心境の変化なんだろう。それとも、ロザリンデさんが言っていたように、わたしの事を気にかけてくれているから……? わたしの人格を尊重しているからこそ、無理強いすることなく簡単に引き下がったんだろうか。
なにかを考え込む様子のクルトを横目に、そんなことを思っていた。
約束の期限が迫り、クルトは憔悴しきっていた。目の下にはくまが浮かび、顔色もなんだか冴えない。それでも彼は諦めようとはしなかった。
クルトはこんな状態になってまで、姉の【お願い】に応えようとしている。彼の執念がここまでだなんて思ってもみなかった。以前の彼はこんな風に【お願い】を叶えてきたんだろうか?
ロザリンデさんの推測では【お願い】を叶えられない事こそがクルトの過去からの解放に繋がるということだった。けれど、それが本当に正しい解決の方法なんだろうか。
わたしが黙っている事が、本当に彼の救いになるんだろうか。
ふらふらになっているクルトの状態を見ていると、そんな疑問が頭をかすめる。
もしも、今回の失敗が、逆にもっとクルトを追い詰めることになってしまったら?
【お願い】を叶えることができなくても姉の態度はなんら変わる事はない。そのことが、クルトに虚無感を抱かせる事にはならないか。今までやってきたことが全て無意味だったのだと、そう思い込んでしまう可能性だってあるのでは?
だからこそクルトはこれほどまでに必死になるのでは? 姉のためだけでなく、自分の存在理由を証明するためにも、彼は【お願い】を叶え続けてきたのでは? 【お願い】を通じて彼は姉と繋がっていると感じていたのでは?
もし、その存在理由が証明できなくなった時、彼はどうなってしまうんだろう。
それを考えると胸がざわついた。
「ねえクルト」
気づけばわたしは口を開いていた。
疲れたような表情のクルトがこちらを向く。
「……今回の件、真相が分かったかもしれません」
日曜日、いつものようにロザリンデさんのいる屋敷を訪れる。
テーブルを囲んで、各々にお茶が配られると、ロザリンデさんが早速切り出した。
「ねえクルト、盗まれたブロンズ像の件、わかったかしら?」
「ああ」
クルトが頷くと、ロザリンデさんがちらりとこちらに目を向けたような気がして、思わず俯いてしまう。
その様子に気付いてはいないのか、クルトは続ける。
「何のために盗んだのか。それは勿論売るためだ。だが、肝心のブロンズ像は風雨に晒されて劣化しているし、美術的価値もほとんどない。それに下手にどこかの店に持ち込めば、そこから足がついてしまう可能性もある。だから、犯人は像の形自体を変えてしまえばいいと考えた」
「それ、どういうことなの?」
「像を溶かして、金属塊として売ろうとしたんだ。あれだけのブロンズ像があれば、それなりの量になる。いくら美術商や古物商を当たっても手掛かりが掴めなかったはずだ。像は美術品としての形を保っていなかったんだから。探すべき場所は鋳造工房だっだんだ。もしかすると今頃は既に別のブロンズ像の一部として再利用されているかもしれない」
話を聞き終わったロザリンデさんは少しの間何かを考えていたようだったが、やがてふわりと微笑む。
「なるほどねえ。そういう事だったの。確かにそれなら納得できるわね。おかげですっきりしたわ。ありがとう。ああ、それ以上は調べなくて良いわ。後はこちらで処理するから」
いつもと変わらぬその姿は、先週の事が嘘のように落ち着いている。
それからは何事も無かったかのように、いつもと同じようにお茶を飲みながらの雑談が続く。ロザリンデさんの【お願い】を叶えたクルトはなんとなく晴れやかな顔をしていた。
わたしはロザリンデさんに謝りたかった。彼女の懇願を無視する形になったことを。
けれど、ふたりきりになれる機会はなく、気が付けば夕方になり、無情にも屋敷を去る時間が訪れてしまった。このまま帰るわけにはいかない。心の中に焦りが生まれる。
「あの、わたし、忘れ物をしちゃったみたいです。先に帰っててください」
門を出たところで、咄嗟にクルトにそう告げて、返事も待たずに屋敷へと引き返す。ロザリンデさんに逢いたい旨をメイドに告げると、あっさりと案内してもらうことが出来た。
ロザリンデさんは先ほどまでと同じ部屋にいた。
直前まで泣いていたのか目が赤い。
その様子に思わず彼女の元に駆け寄り膝を折る。
「ごめんなさい。わたし、ロザリンデさんの言う通りにできませんでした。だって、だって、クルトがあまりにも一生懸命だったから……あの様子を見てたら、どうしても放っておく事が出来なかったんです。本当にごめんなさい……」
涙まじりの声でそう伝えると、ロザリンデさんは驚いたようだった。
「ユーニちゃん……あなた、そんなに――いえ、私のほうこそごめんなさい。ユーニちゃんをこんなに追い詰めていたなんて思ってもみなかったわ。あなたが何も言わなければそれで済む。それだけだと思ってた……でも、そのことがあなたを苦しめていたのね。だめね。私、自分の事しか考えてなくて」
そう言いながらロザリンデさんはわたしの肩を抱く。
「私たちきょうだいの問題は、私たちだけで解決するべきだったのよ。それなのに私は……」
彼女の声はわずかに震えているような気がした。
「いいの。もう気にしないで。チャンスは今日だけじゃないもの。だから泣かないで。ね? それよりも早く帰った方がいいわ。冬は日が短いもの。寒い中を歩いて風邪を引いたらたいへん。女の子は身体を冷やしちゃだめよ。さあ、立って」
ロザリンデさんは少し寂しそうな笑顔を浮かべながら、わたしのマフラーを巻きなおしてくれた。
マフラーに篭った温もりを感じながら、屋敷を出たわたしは考える。
これで本当に良かったんだろうか。ロザリンデさんはああ言ってくれたが、自分はやはりクルトが解放される機会を潰してしまったのではないか。
姉が何かを願い、弟がそれを叶える。美しい家族愛のていを成していながら、ある種の呪いのようなその連環は、これから先も繰り返されてゆくのだろうか。
――わたしはどうするのが正しかったんだろう。
もどかしい気持ちと共に、再びこぼれそうになった涙を拭う。
「おい」
突然の声に驚いて顔を上げると、門柱に背を預けるようにしてクルトが立っていた。




