六月とある姉弟の事情 1
「そういえばね、最近不思議なことがあったの」
お茶を飲みながら、世間話でもするようにロザリンデさんは話し出す。
「ほら、裏庭にブロンズ像が置いてあったでしょう?」
「ああ、何代か前の当主の道楽だかなんだかで、やたらと置いてある……あれがどうかしたのか?」
クルトが相槌をうちながらカップを傾ける。
「それがねえ、どうも夜のうちに盗まれちゃったみたいなの」
唐突な重大報告に口に含んだ紅茶でむせそうになってしまった。
しかしロザリンデさんの様子はいつもと変わりなく落ち着いている。
逆にクルトは慌てだした。
「そんな物騒な事が起こっていながら、どうしてすぐに連絡してくれなかったんだ! もしもねえさまの身に何かあったら……!」
「うーん……でもねえ、実際のところ、そのお庭のブロンズ像しか被害はなかったし……それに、正直なところ、あの像にはたいした芸術的価値はないと思うのよねえ。もしそうなら屋外で雨ざらしになんてしないはずよ。そのせいで随分と劣化してるだろうし。像の由来だってあやふやだもの」
「そういう問題じゃなくて……!」
「あら、大袈裟ねえ」
ロザリンデさんは花が開いたようにふわりと笑う。
さすがにこれに関してはクルトの言い分に賛成だ。盗難だけでなく他の被害にあう可能性だってあったわけだし、彼が心配するのも無理はない。
けれど、ロザリンデさんはさして気にしていない様子だ。
うーん、大物なのか。それとも危機意識が薄いのか……
「それでね。私が気になるのは、誰が、何のために盗んだのかってことなの。さっきも言った通り、芸術的価値なんてほとんど無いはずなのに」
美術的価値がゼロに近いブロンズ像を盗んだ理由……
その中に一体だけ価値のある像が混ざっていたとか?
「ねえ、ユーニちゃん、あなたはこの件についてどう思う?」
聞かれて少し考える。それだけでは判断材料が足りない。
「あの、お聞きしたいんですが、このお屋敷の使用人の中で、最近辞めた、または近々辞める予定の方はいますか?」
「そうねえ。そういう子はいなかったと思うわ」
「それじゃあ、実際に庭に入り込んだ怪しい人物を見たという方は?」
「そういう報告も受けていないわね」
「盗まれた日の前後にも?」
「ええ。それなのに一晩で全部持って行っちゃうなんて、びっくりよねえ」
「全部?」
クルトが驚いたように声を上げた。
「あら、言ってなかったかしら。お庭のブロンズ像全部。それはもう綺麗さっぱり。まるで手品みたいに」
「あの数を? 一晩で誰にも気づかれずに?」
クルトが訝しがると、ロザリンデさんは口籠る。
「そう言われるとなんだか自信がなくなってきたわね……どうだったかしら?」
側に控えているフレデリーケさんに視線を投げるも、彼女も曖昧に首を傾げる。
「ねえクルト、申し訳ないけどお庭に行って確認してきてもらえないかしら。あなたなら像のあった場所も憶えているでしょう? フレデリーケと一緒に、本当に全部の像がなくなっているか見てきて欲しいの。ね、お願い」
ロザリンデさんが言い終わるか終わらないかのところでクルトは素早く立ち上がる。
「わかった。速やかに正確な状況を把握して報告しよう」
そうしてニ人は部屋から出て行った。
残された部屋で、ロザリンデさんはわたしに尋ねる。
「ユーニちゃん、これまでの話の中で、何か心当たりはあるかしら? 」
「ええと、なんとなく、そうじゃないかと思うことはあるんですが……」
自信は無いがそう答えると、ロザリンデさんはわずかに目を瞠ったのち、なんだか納得したように頷く。
「そう、さすがね」
「いえ、でも、確証はないので……」
慌てて首を振るわたしのことを、ロザリンデさんはじっと見つめていたが、やがて躊躇うように口を開く。
「ユーニちゃん、今回の件だけど……クルトは自分の手に負えないとわかれば、またあなたを頼るかもしれない。あなたは既に真相がわかりかけているみたいだけれど、それを確信したとしてもクルトには伏せていてもらえないかしら」
「え? それってどういう……」
「つまりその、今回の事で、ユーニちゃんはクルトに一切協力しないでほしいの。お願い」
いつもと違って真剣な口ぶりのお願いに、わたしは戸惑いを覚える。
「どうしてそんなこと……」
問うと、ロザリンデは目を伏せる
「……私、今回の【お願い】で最後にしたいのよ」
最後って? 【お願い】する事を?
わたしはふと、以前彼女が言っていた言葉を思い出した。
「あの、前に言ってましたよね。クルトにわざと【お願い】をしたって。もしかして今回もそうなんですか?」
「……ええ」
「どうして? 理由を教えてくれませんか? でなければわたし、協力できません。だって、たしかにクルトはロザリンデさんが絡むと頑なになるし、周りが見えなくなったりしますけど、それだって、他でもないロザリンデさんのためなのに……」
そんなクルトが少し面倒くさいと感じながらも、そこまで尽くすことの出来る家族のいる彼が羨ましいし、尽くしたいという気持ちもわかる。だからこそわたしも協力したいとも思うのだ。
けれど、肝心のロザリンデさんがそんな事を言うなんて。
「やっぱり、ユーニちゃんからもそう見えるのね」
ロザリンデさんは自身の指を組んだり解いたりを繰りかえしながら目を伏せる。
「あの子の私に対する執着はなんていうか、ちょっといきすぎだと思ってるわ。こと【お願い】に関しては。ユーニちゃんにもこれまで迷惑をかけたでしょう。ごめんなさいね。なんとかしなきゃって思ってる……でもね、あの子がああなっちゃったのには、理由があるのよ」
そう言うと、自身の足を手でゆっくりとさする。
「私のこの足はね、生まれつき動かなかったわけじゃないの。小さな頃、クルトと一緒にふざけていて、うっかり車道に飛び出してしまってね。そこに運悪く馬車がきて――私はよく覚えていないんだけど、その時、無意識にクルトを庇ったらしいのよ。結果私だけが撥ねられて、こうして車椅子が手放せない身体になってしまったんだけど……その事に関して、どうやらクルトは罪悪感を抱いてしまったみたい。おそらくは、自分のせいで姉が怪我をしてしまった。そんなふうにね」
「そんな……」
「今でこそあの事故のことは冷静に振り返ることができるけれど、当時は私も子供だったから、自分のことしか考えられなくて。とにかく足が思うように動かない事に絶望して、泣いてばかりいたわ。クルトが自分を責めていることにも気づかずにね。あの子は私のことを心配して、ずっと側にいてくれたのに、それも邪険にして……いろいろなお医者様に診てもらったけれど、みんな難しい顔をしていたわ。それで子供ながらも、自分の足の状態をなんとなく察したのよね。私はますます自暴自棄になって、食事も碌にとらずに毎日泣いて過ごした」
それは年端もいかない女の子が受け入れるには残酷すぎる事実だったろう。想像するだけで胸が締め付けられるようだ。
「そうしたらある日、真剣な顔をしたクルトがね、私の目をじっと見ながら言ったの。『ねえさまの足は絶対に治る。僕が治してみせるから。見ていて。僕にできないことはないんだから』って。勿論嘘だってわかってたけど、その時目が覚めた気がしたわ。ああ、私がめそめそしているせいで、こんな小さな弟にまでつらい嘘をつかせてしまった。なんて馬鹿なんだろうって」
その口調には自嘲の色が含まれているようだ。わたしはじっと耳を傾ける。
「その日を境に私は徐々に立ち直って、まわりとの関係も事故が起こる前に戻ったように思えたわ。でも、クルトはそうじゃなかったみたい。罪悪感を抱いていたあの子は、自分の言ったことを絶対に守ろうとしたのよ。でも、本当に足を治せるわけもないでしょう。その代わりに、自分にできないことはないという言葉を実行しようとしたの。それを証明し続けることで、同時に私の足が治る可能性も示唆している。もちろん最初はそんなこと気づくはずもなくて、庭のお花が綺麗だと言えば摘んできてくれたり、街で評判のお菓子が食べたいと呟けば、次の日には用意してくれたり、その程度のことだったのよ。でも、いつのまにかどんどんエスカレートしていって、あるときなんて、軽い気持ちで口にした『サクランボが食べたいわね』なんて言葉を本気にして、季節外れだっていうのにサクランボ探しに奔走して……だいぶ経ってからクルトが本当にサクランボを持ってきた時は本当にびっくりしたわ。こっちは冗談で言ったことだから、そんなことすっかり忘れかけていたのに」
その話は以前にもクルトから聞いた事がある。その時は、まるでロザリンデさんの気まぐれにクルトが振り回されているような印象を受けたのだが、実際はそんな行き違いがあったのだ。
「どうしてクルトがそんなことをするのか考えた末、あの時の『僕にできないことはない』って言葉に思い当たったの。たぶん、あの子はあの事故以来10年も、私のお願いを叶えることでそれを証明しつづけて、贖罪しているつもりなのよ。このままじゃいけないと思った。このままじゃ、あの子はずっと私の【お願い】という建前の些細な言葉に縛られることになるって。だから私、このお屋敷に逃げたの。表向きは足の療養のためだって。クルトは反対したけど、なんとか説得して最終的にあの子も折れたわ。とにかく暫く距離を置けば、あの子も冷静になるんじゃないかって。そう思っていたんだけど……そうしたら、あの子ってば、ここからすぐ近くのクラウス学院に進学するって言い出したのよ。もう、信じられない。普通そこまでする? でも、同時に思い知ったの。この問題は思ったよりも根深いものだったんだって。あの子はなかば脅迫観念のように、私の【お願い】を叶え続けないといけないと思っているんだわ」
わたしはふいに、パーティのあの夜、アレクシスさんに向かって激昂したクルトの姿を思い出した。
――彼女には罰しかないのか。わずかな償いの機会さえも与えられるべきじゃないのか。
赦しを求め続けているクルトと、その機会すら与えられなかったリコリスさん。
あの言葉は、己の境遇と彼女とを重ね合わせたクルトが、咄嗟に発した本心ではないのか。
彼は今でも自責の念に駆られ続けているのだ。
それに、あの後屋敷の庭で踊ったときも――そう、あの時もクルトは何故か自分を責めていた。彼自身に非はないというのに。
あれも10年前の悲劇を自分のせいだと思い込んでいるクルトが、その聊か拗らせやすい罪悪感によって自分を責めた結果なのではないか。
もしかして、 本当の彼は、誰よりも繊細で傷付きやすく、他者の痛みを自分の事のように感じてしまう人間なのではないか。ただ、少し不器用で、思い込みが激しいことが、それを少々悪い方向へと際だたせているのだが。
そんな事を考えながらロザリンデさんの話に耳を傾ける。
「でも、私はあの子に、もうそんなことしなくても良いって事を、どうしても直接伝えることができないの。言えばあの子の10年間を否定する事になってしまうんじゃないかって。どう思う? 10年もの間、誰かのために自分がやってきた事を、当の本人から否定されたとしたら。私なら耐えられないわ。一体今まで何をやっていたのかって煩悶するでしょうね……だからね、私、考えたの。あの子にはどうにもできないような【お願い】をしたらどうかって」
「え?」
「たとえ【お願い】を叶えられなくても今までと何も変わらない。だから無理して叶える必要なんて無い。その事にクルトが気付いてくれたら、あの子もいくらか肩の力が抜けて、それから徐々に普通の男の子みたいになってくれるんじゃないかって。以前のあの肖像画についての【お願い】も、本当の目的はそっちだったのよ。けれど、あなたという存在によって、予想に反してあの【お願い】は叶えられてしまった」
「それなら、この間のパーティの件は? あれにも何か意図があったんですか?」
「あれは……クルトにも年頃の男の子と同じような経験をして欲しかったっていうのもあるけれど、本当はクルトがまた嘘をついてくれるんじゃないかって少し期待したのよ。あの子、クラウス学院に入学してから変わった。ああ、変わったって言っても、良い方向にね。以前のクルトなら、誤魔化すことはあれど、嘘をつくことなんてなかったのよ。嘘をついたら、10年前の自分の言葉も否定することになるから。けれど、肖像画の件のとき、あの子は嘘をついたわよね。どんな理由にせよ、その事であの子の意識が変化したんじゃないかって思ったの。それがもしかしてユーニちゃんのおかげなのかもって。あの子、あなたのこと随分と気にかけてるみたい。クリスマスの休暇の件を考えてもね。だから、私があなたの性別に言及したら、もしかしたら嘘をついてユーニちゃんを庇ってくれるんじゃないかって期待したのよ……でもだめだった。あの子は嘘をつけなかった。いまだ10年前のあの言葉に縛られているんだって思ったわ。だからーー」
ロザリンデさんはそこで少し言葉を切って、真剣な瞳でわたしを見つめる。
「もう一度、今度こそあの子にはどうにもできないようなお願いをするつもり。だからユーニちゃん、今の話を聞いて少しでもなにか感じるところがあったなら、私に協力してほしいの。お願い」




