六月と円舞曲 10
後書き部分に挿絵あり
クルトの屋敷に着いて、門の前でわたしたちは馬車を降りる。
玄関に向かう途中で、重い空気を振り払うようにわたしは口を開く。
「そういえば、結局ウインナ・ワルツを踊る暇がありませんでしたね」
クルトがちらりとこちらを見る。
「下手な踊りを披露して人前で恥を晒さずに済んで良かったじゃないか」
「何を言ってるんですか。あんなに練習したんですから、もう完璧に踊れるはずです。あー、わたしの華麗なステップを披露できなくて残念だなー」
「へえ、そこまで言うなら試してみよう」
なにを? と考えている間に、芝生の生えた開けた場所に連れて行かれる。
「ほら」
そう言って差し出されたクルトの手を、わけもわからず見つめていると
「何をぼうっとしてるんだ。お前の華麗なステップとやらを見せてくれよ」
そこでやっと彼が踊ろうと言っているのだと理解した。
まずい、余計なこと言うんじゃなかった……
「でも、ほら、音楽がないし……」
「お前が歌えばいい。ディーヴァなんだろう?」
クルトはわたしの前に手を差し出したまま、その目にからかうような色を浮かべながら待っている。
ええい、もうどうにでもなれ。辺りを照らすものは月明かりくらいしかないし、ステップを間違えても誤魔化せるだろう。たぶん……
わたしは覚悟を決めて彼の手を取り、深く息を吸い込むと、今まで散々聞いてきたピアノのメロディーを口ずさむ。
すると、自分でも意外な事に、自然と身体が動きだす。
あれ? わたしってこんなに踊れたっけ……?
大勢の人の前で失敗してはいけないというプレッシャーから解放されたせいだろうか、余計な事を考えないで済むようになったぶん、身体が素直に言うことを聞く。
もしかすると、今まではステップを忘れないように、失敗しないようにと必死で、パートナーであるクルトの事が見えていなかったのかも。
こうしていると、彼が上手にリードしてくれているんだとわかる。とても踊りやすい。
それに合わせてくるくる回ると身体がふわふわする。夢みたいに楽しくて、歌いながらクルトに笑いかける。
すると彼は一瞬はっとした顔をして、わたしから目を逸らした。
なんだろう?
そう思った瞬間、踵がずるりと滑った。夜露で濡れた芝生を踏んだのだ。わたしは大きく態勢を崩す。
「うわっ!?」
うしろに倒れこみそうになりながら、どこかでこの光景を見たことあるような気がしていた。
ゆっくりと背中に迫ってくる地面の気配を感じ、不意に思い出す。
そうだ。これって、昨日見た夢と同じ……やっぱりわたし、失敗するんだ……
衝撃に備えてぎゅっと目を閉じた直後、腕を強い力で引っ張られ、身体を引き戻される。
次の瞬間。何か温かいものにふわりと身体が包まれる感触がした。
おそるおそる目を開けると、わたしの身体はクルトの胸に抱きとめられていた。手をしっかりと握ったまま、背中に廻されたもう片方の手がわたしの身体を支えている。
「……まったく、びっくりさせるなよ」
クルトが喋ると、その振動が彼の胸から伝わってくる。
「あ、す、すみません……!」
慌てて離れようとするが、
「おい、待て。急に動くな。どこか傷めてないか? 足を挫いたりしてないだろうな?」
言われてその場でゆっくり足踏みしてみる。
「……大丈夫。どこも痛くないみたいです。クルトのおかげですね」
その言葉に安堵したようにクルトの胸が上下する。
「俺が踊らせたせいで怪我した、なんて事になったら後味悪いからな」
そうしてわたしの身体に異常が無いことを確認しても、何故か彼は腕の力を緩めようとしなかった。
顔だけを上に向けると、近くにクルトの紫色の瞳がある。月明かりに反射して宝石みたいに綺麗だ。
その輝きがふっと近づいたかと思うと、クルトはわたしの耳もとに顔を寄せる。
「……お前、さっき笑ってたけど…… 」
息が掛かる位すぐ傍でその声を聞いた瞬間、なんだか周りを取り巻く空気の温度が少し上がったような気がした。
「だって、すごく楽しかったから。練習してるときはまるで拷問かと思いましたけど、ちゃんと踊れると、こんなに楽しいんですね」
「ちゃんと? 転びそうになっておいてよく言うよ」
呆れたようなクルトの声に、ついつい言い返す。
「それはこの場所が滑りやすいのが悪いんです! 普通の床の上なら転んでませんでしたよ」
「どうだか……確かに今までで一番上手く踊れてたけどな」
「でしょう!? クルトの足も踏まなかったし、これはもうウインナ・ワルツを完全に習得したと言っても過言では無いですね。あーあ、足が滑ってさえいなければ証明できたのに」
「調子に乗りすぎだ」
その後に、彼の声が急に小さくなった。
「……お前の髪、焦げたような臭いがする。炎に煽られたんだろう。少し切ることになるかもしれないな」
それくらい別に……と言い掛けたところにクルトの言葉が被さる。
「……すまない」
「え?」
先程までとはがらりと声の調子が変わったので、わたしは戸惑う。
「一歩間違えば髪だけじゃ済まなかったかもしれない……俺のせいだ。俺がリコリスさんにお前を押し付けたりしなければ、こんな目にあう事もなかったのに……いや、そもそもパーティに連れて行かなければ……俺がねえさまにお前の性別の事を隠し通していれば……」
表情は見えないが、その声には深い後悔の色が滲んでいるようだ。
でも、パーティでの事はクルトが悪いわけではないのに、どうしてこんなに自分を責めるんだろう。
わたしは彼の言葉を打ち消すように、慌てて口を開く。そのまま彼が自分を責め続けるのを聞いていたくなかった。
「そうやってどんどん遡って、最後には『ルームメイトじゃなければよかった』なんて言い出すつもりですか? そしたら、わたしがここに存在できなくなっちゃいます。忘れたんですか? わたしがテオにひどい事をされそうになったのを。あの時クルトが助けてくれたから、わたしは今こうしてここにいられるんです」
そう言って、自由になる片手をクルトの背に回すと、安心させるようにそっと撫でる。彼がわたしにそうしてくれたように。
「パーティの件だってクルトのせいじゃありません。誰だって、まさかあんな事が起こるなんて思いもしませんよ」
なんだかおかしな状況だ。確かにわたしは危ない目にあったが、クルトのほうがそれを気にしていて、自分はそんな彼を慰めている。
「それに、髪の毛くらいすぐに伸びます。むしろ、切るのにいい機会だったのかも。男のふりをするなら短いほうが都合が良いですから」
「……それならどうして――」
クルトが顔を離して、わたしの目を覗き込む。
「どうして、今まで髪を切らなかったんだ? お前も今言ったとおり、男のふりをするなら短いほうがずっとそれらしく見えるはずだ。それなのに伸ばしたままだったのは、髪を切りたくない理由があったんじゃないのか?」
「違いますよ。単に寝癖が酷いから、一箇所で纏めて誤魔化しているだけです」
「うそだ」
わたしはまばたきしてクルトを見返す。
「ねえさまに言われてからお前が毎日ブラッシングするところを見ていた。寝癖なんて軽くブラシを通せば収まる程度だったし、それすら目立たない日だってあった。それよりも、中途半端に長い髪を維持する方がよっぽど面倒だろう」
その言葉に、わたしは自分の目が泳いだのがわかった。
なんで――なんでそれを。
咄嗟に言い返せず黙り込んだわたしを見て、クルトは「やっぱり」と呟く。
「ごめん」
ふたたび謝罪の言葉を口にしながら、彼はわたしの髪を撫でるようにそっと触れた。
「だ、だから、クルトのせいじゃありませんってば」
気まずさから逃れるように、思わずクルトの胸を軽く叩く。
暫くの沈黙の後、わたしは静かに口を開いた。
「……本当のことを言うと、性別や年齢や何もかもを隠して学校に通うことになって、知り合いも誰もいない場所で男として過ごさなければならなくて……まるでそれまでの自分とは名前だけが同じ別人になってしまうんじゃ、なんて思ったこともあるんです。おかしいですよね。そんなことあるわけ無いのに。けれど、そんな状態でも、長い髪の毛を残している事で、自分の中で生きている『女の子』の部分を感じられる気がして。そんな些細な事でも、わたしが『女の子』であり続けるためには必要だったんです」
クルトが何か言いかけるが、それを制するようにわたしは先を続ける。
「でも、今はもういいんです。クルトや、それにロザリンデさんが、わたしのことを『女の子』として扱ってくれるから。本当のわたしの事を知ってくれる人がいるなら、髪の毛なんて、もうどうでもいいんです。確かに、クルトに性別がばれた時は、不安で不安で堪らなかったですけど、今思えばそれで良かったんだと思ってます。わたし、何度もクルトに助けてもらいました。今はルームメイトがクルトだったことに感謝してますよ」
それからドレスの裾を少し持ち上げてみせる。
「それに、こんなきれいなドレスを着る機会だって無かっただろうし。そう考えると得した気分です」
にっと笑いかけると、クルトも釣られたように笑みを浮かべた。
「わたしはもう大丈夫ですから。クルトも見たでしょう? ウインナ・ワルツだって踊れるくらいなんですよ」
そこでふと、クルトがこんな場所でダンスに誘ったのは、パーティで恐ろしい光景を目の当たりにしたわたしを気遣っているのではという考えが頭をかすめた。
少しでも気を紛らわせるために、こんなところで踊ろうとした……?
それを裏付けるかのようにクルトは囁く。
「……今日の事は早く忘れろよ。悪い夢でも見たと思って」
そうして離れようとした彼の服を、わたしは咄嗟に掴む。
「ねえ、クルト。もう少し一緒に踊ってくれませんか? さっきも言いましたけど、すごく楽しかったんです。だから、もう少しだけ。お願い。わたし、歌いますから」
「……そんな事言って、また転びそうになったらどうするんだ。俺だって何度もフォローできる自信はないぞ」
「ええと、それなら――」
わたしは靴を脱いで裸足になる。
「これで滑る心配もないでしょう?」
足の裏に伝わる感触はびっくりするほど冷たいが、そこは我慢する。
「どうしてそのやる気を練習の時に出してくれなかったんだ……」
呆れながらもクルトは自身の片足ずつを持ち上げると、靴を脱ぎ、まとめて離れた場所に放り投げる。
その様子を驚きながら見つめてしまった。
意外だ。クルトでもそういう事するんだ。「行儀が悪い」とか言いそうなのに。
「これでお互いの足を踏んでも大事にならないだろ? まあ、俺は踏まないけど、万が一って事もあるからな」
そうして差し出された彼の手を取る。足先が冷たい分、てのひらから伝わる温かさが心地よい。
庭を静かに照らす月明かりの中、わたし達は再び踊りだした。
それから暫くして、わたしは髪を切った。
以前に担任のミエット先生が上手いと言っていた事を思い出し、彼に散髪をお願いしたのだ。
「はい。これで終わり。自分で言うのもなんだけど、結構いい線いってると思うな。うん、似合う似合う」
先生に差し出された手鏡を覗き込むと、そこにはすっかり髪の毛の短くなった自分の顔があった。
「でもユーニ、どうして髪の毛を焦がしたりなんかしたのかな? 火遊びでもしてたの? まさかとは思うけど、喫煙とか……」
じろりと疑いの目を向けられて、わたしは慌てて胸の前で手を振る。
「ち、違いますよ。ちょっとその、髪の毛をカールさせてみたくて、紙で巻いた毛を、コテ代わりに熱した火箸でくるくるっとやったら失敗してしまって……それはもう黒焦げのパンケーキのかけらみたいな無残な物体に」
本当の事を言うわけにもいかずに誤魔化すと、先生は顔を曇らせた。
「ひとりでやったの? 危ないなあ。そんな事して火傷でもしたら大変じゃないか」
「……すみません」
「今度からそういう事をしたいと思ったらぼくに言うこと。きみが満足するようなアサガオの蔓みたいな巻き毛は出来ないかもしれないけど、ひとりでやるよりは、はるかにましだからね。わかった?」
「はあ、その際には是非ともお願いします……」
なんだろう。髪の毛まで植物に例えるとか、そんなに園芸が好きなのかな……
髪を切った姿をクルトに見せると、彼は複雑そうな表情を浮かべた。
「ええと……どこかおかしいですか?」
おそるおそる尋ねると
「いや、そういうわけじゃ……」
なんだか歯切れの悪い返事が返ってきた。
「うーん? じゃあ似合ってるって事ですか?」
「ああ、うん、いや……ええと……」
「どっちなんですか!? はっきりしてください!」
思わず語気を強めると、クルトは決まり悪そうに顔を顰めた。
「あのなあ、普通に考えて言えるわけないだろう?」
「え? な、なんで……?」
まさか、クルトの美意識が傷つくほどに似合ってないとか……? 寝癖ついてないよね……?
「本来切りたくなかった髪の毛を切ったわけだから、『似合っていない』と言われたら、やっぱり切らない方が良かったと思うだろうし、だからと言って『似合う』と言われたら、だったら今まで伸ばしていたのはなんだったのかと思うだろう!? お前は思わないのか!?」
最後の方は何故か開き直られた。
そんな事考えてたのか……相変わらず変なところで気が回るなあ……
「別にそんな真剣に考えなくても良いのに……もっとほら、お世辞とか社交辞令とか、おべっかとか、どんどん使って構わないんですよ」
「そういうのって自分から要求するものじゃないだろ……」
呆れたように溜息をついたクルトだったが、わたしの言葉に気を取り直したようだ。
「ああ、似合ってる似あってる。ほら、これで良いか?」
随分投げやりだが、まあよしとしておこうか。
たとえお世辞にせよ、褒められるのは嬉しいものなのだ。




