六月と円舞曲 8
ゆっくりとテラスへのドアを開けると、冷たい風がまとわり付いて思わず身震いする。上着はクルトに返してきたのだ。
アレクシスさんは気付いていないようで、こちらに背を向け俯いたままだ。
足音を立てないよう近づくと、手すり側から彼の前に回りこむ。
「アレクシスさん」
突然目の前に現れたわたしに驚いたのか、彼は一瞬硬直して目を瞠る。
「あ、ああ、ユーニさん、いつのまに……まったく気付きませんでしたよ。なんだか猫みたいだな。いや失礼、悪い意味ではなくて」
彼は面食らった様子だったが、それを取り繕うように髪を手で撫で付ける。
「驚かせてしまってすみません。広間からあなたの姿が見えたものだから気になって……あの、リコリスさんについていなくても良いんですか?」
遠慮がちに問うと、アレクシスさんは目を伏せた。
「そうするべきだとは思うんですが、どうにも落ち着かなくて……」
「それじゃあ、ずっとここにいたんですか? こんなに寒い場所に……もしかして、さっき落としたものをまだ探していたとか? 相当大切なもののようでしたし」
「いえ、あれはもうみつかりました。ちゃんとここにありますよ。拾ったと同時に、あの事故が起きて……」
アレクシスさんは上着の胸のあたりを抑える。そこに内ポケットがあるのだろう。
「情けない話ですが、その、まだ動揺しているみたいで……ここで頭を冷やしていたんです」
「無理もありません。あんな事が目の前で起こったなんて、わたしもいまだに信じられません」
「でも、あなたは妹を助けようとして果敢に行動してくれました。私なんて肝心なところで足がすくんでしまって……」
暫くの沈黙の後、アレクシスさんが躊躇うように口を開いた。
「ユーニさん、正直なところ、私は恐れているのかもしれません。あの光景が頭から離れないんです。もし、このまま最悪の事態になったら――リコリスの笑顔を二度と見ることが叶わなくなったら――そんな現実が待っているんじゃないかなんて考えてしまって、彼女の元に向かうのを躊躇わせるんです」
その戸惑いと悲しみの入り混じったような声音を聞いて、わたしは反射的に口を開く。
「そんな……あんなことがあったんだから怖いのは当然ですよ。でも、その、わたしが口を出して良いことかはわかりませんが、リコリスさんだって、アレクシスさんに傍にいてほしいはずです。家族なんだし……それに、リコリスさん、アレクシスさんのことを慕っていたようですから」
そう訴えると、アレクシスさんは驚いた様子でこちらを見た。
「こんな情けない私の事を気遣ってくれるんですか? あなた自身だって怖い思いをしたでしょうに……優しい人だな。そして強い人だ」
不意に手を掴まれ、引き寄せられたかと思った次の瞬間、アレクシスさんに抱きすくめられていた。
「ひっ!?」
思わず驚きの声を上げるわたしをなだめるように、アレクシスさんは耳元で穏やかに囁く。
「突然の無礼をお許しください。ですが、暫くの間、このままでいてはもらえませんか? 情けないことに、こうして誰かに縋っていないと不安で仕方が無いんです」
う、うそだ。こんな……こんなの予想外だ。
だ、だって、わたしは――
動けずに固まったままのわたしに対し、アレクシスさんは静かな調子で続ける。
「ユーニさん、もうひとつ告白させてください。実はあのとき、身を挺して妹を炎から救おうとしてくれたあなたを見て、畏敬の念を抱くと同時に、いじらしいとも思いました。こんな華奢な身体で、自身も危険にさらされながら、誰かのために必死になる姿に、私は心を打たれたんです。同時に、二度とあなたをあんな危ない目に合わせたくない。できることなら私があなたを守りたい。そう思いました……ユーニさん、こんな私が言っても説得力が無いとは思いますが、その願い、叶えさせてはもらえませんか?」
「え、ええと、それってどういう……」
混乱しながらも尋ねると、穏やかな声が返ってくる。
「これから先も、こうして私の傍にいてもらえませんか。勿論、こんな時に言うべき事ではないとはわかっています。でも、今を逃したら、何故だかあなたにはもう逢えないような気がして……お願いです。私にはあなたが必要なんです」
「……わたしが?」
必要?
その言葉に思わず顔を上げると、二人の視線がかち合った。
「ええ。それとも、頼りない私の言葉は信用できませんか?」
「いえ……その……」
何故だかうまく答えられない。言葉に迷っていると、アレクシスさんは指の背でわたしの頬を優しく撫でる。
「では、誓いましょう。あなたのその、花びらのようなくちびるにかけて」
「え?」
次の瞬間、顎を指で軽く持ち上げられると、戸惑うまもなく、彼のとび色の瞳がゆっくりと近づいてくる。そのまま互いの吐息が触れ合うような距離にまで迫り――
「ちょ、ちょっと、ま、待って! 待ってください!」
すんでのところで、片手でアレクシスさんの胸を力を込めて押し返し、わたしは慌てて距離を取るように後ずさるが、すぐに背中が手すりにぶつかってしまう。
気がつけば胸の鼓動が早くなっている。
「ああ、申しわけありません。その、驚かせるつもりではなかったのに……どうかそんなに怖がらないでください。あなたの嫌がることはもうしませんから」
アレクシスさんは狼狽えるわたしを安心させるように両手を広げ、後ろに一歩下がる。
「いえ、その、思いもよらないことだったので動転してしまって……だ、だってその……」
わたしは手すりにもたれかかりながら、左目の下の辺りを指で触れる。
混乱する心を落ち着けるように深く呼吸すると、気を取り直して口を開く。
「……すみません。わたし、少し酔っ払っていて、頭が追いついていないみたいです。実はさっき、気つけ薬の代わりにワインを飲んだもので」
「……大丈夫ですか? どこかに座って休んだ方が――」
「い、いえ、それは平気です。大丈夫です。けれど、その代わり、どうでも良いような些細な事が、何よりも気になって気になって仕方が無いんです。自分でもおかしな話だとは思うんですけど、それを確認しないと他のことを考えられないんです」
見上げると、不審そうな顔のアレクシスさんが目に入る。
「教えてもらえませんか? あの事故の直前、アレクシスさんは、一体何を落としたのか」
突然の質問が予想外だったのか、アレクシスさんはしばし沈黙したが、やがてゆっくり首を振る。
「それはお教えできません。あれはなんと言いますか――我が家の家宝のようなものでして、おいそれと身内以外の人間に見せるわけにはいかないんです」
「……そうですか。だからあの時も、何を落としたのかをわたしに聞こえないようリコリスさんに耳打ちしたんですね」
「そういう事ですね。ご期待に添えず申し訳ありません」
「いえ、そういうことなら仕方ありませんよね……ところで、わたし、さっきここでこんな物を拾いました」
わたしは話題を変えるように、今まで後ろ手に隠していたものを取り出した。小さな赤い蝋燭の破片だ。芯の部分を指で摘んだ状態で目の前にぶら下げる。
「……それは?」
「リコリスさんが燭台を落とした時に砕けた蝋燭の破片です。わたしが彼女の火を消そうとした時に、偶然近くに落ちていたものを手の中に握り込んでしまったみたいです。この蝋燭、外側が赤いですよね。わたし、最初にこれを見た時、赤い塗料が塗ってあるんだと思いました。てっきり、今夜のパーティのために用意した特別製なのかと。でも、その後で不思議に思ったんです」
「何をでしょう?」
「さっき、広間で使われている他の蝋燭を見てみたんですが、全て白い蝋燭だったんですよ。アレクシスさん、あなたの持ってきたこの蝋燭だけが赤かったんです」
「それは気付かなかったな……でも、それに何か問題が?」
「わたしの考えでは、この赤い部分は単なる塗料ではないと思うんです」
「と、言うと?」
「たとえば、リンとか。この蝋燭は、外側をリンで覆われているんです。一見すると赤い模様のように」
その言葉にアレクシスさんは眉をひそめた。わたしは舌でくちびるを湿らせてから続ける。
「リコリスさんに炎が燃え移る直前、わたしには蝋燭の炎が不自然に激しく燃え上がったように見えました。おそらくあのときリンが蝋燭の熱により発火したんでしょう」
「それじゃあ、リコリスがあんな目に逢ったのは、その蝋燭のせいで……? その破片を私にもよく見せてもらえませんか?」
その言葉に逆らうように、わたしは蝋燭の破片をさっと後ろ手に隠す。
「あなたは今までこの場所で、これと同じようにバラバラになった蝋燭の破片を探していたんじゃありませんか? 他の人に見つかる前に処分するために」
アレクシスさんは訝しげに目を細める。
「どういう意味でしょうか? 」
「あなたはあのとき『落し物をした』と言って、リコリスさんに燭台を持たせました。その際、蝋燭の位置を指定して、さらに動かないようにと指示をして。あの時の指示は、この蝋燭を使って、確実にリコリスさんに炎が燃え移るように調整するためのものだったんじゃありませんか?」
「まさか、私を疑っているんですか? それなら、意図的にあの場所に『落し物』を落とさなければならない。そんなに上手くいくわけがないでしょう? 『落し物』が床に跳ね返ってどこかに転がっていく可能性だってあるのに」
「なにも本当に落とす必要はありません」
それを聞いた彼の目がより一層細まったような気がした。
「落とした”ふり”をしたんです。実際に落としてもすぐにみつかってしまっては意味がありませんから。薄暗いこの場所は、そういう意味でもうってつけだったんでしょう。それに、話を聞いた限りではその『落し物』はとても大切なもののようですからね。それもリコリスさんだけに危害を加えるために必要な理由でもあったようですが。他人には見せられない大切なもの――わたしにはそれが何か想像できませんが――とにかく、それを落としたとなれば一大事です。部外者のわたしを近づけない理由にもなります」
わたしはアレクシスさんを見つめたまま続ける。
「そうしてあなたは落としてもいないそれを『落とした』と申告して、探すふりをする。その間リコリスさんは動けないまま例の蝋燭を持ち続けることになります。蝋燭の熱でリンが発火するまでの間、あなたはそのまま探すふりを続ければいいんです。もしかして、その『落した』はずのもの自体、本来の保管場所から持ち出してすらいないんじゃありませんか? だって落とす必要のないものを持ち歩く理由はないし、逆に落とすつもりは無いにしろ、持ち歩いて何かの拍子に紛失したらおおごとですから」
話を聞き終わったアレクシスさんは、少しの間言葉を失っていたようだが、やがて軽く咳払いすると、気を取り直したように口を開く。
「……すごい想像力ですね。でも、残念ながら間違っています。わたしは本当にあの時『落し物』をしたし、今だって無事に見つかったそれを持っています」
「想像だけじゃありません。あなたがそれを持っていないことは既に確かめました」
「一体どうやって――まさか」
アレクシスさんは何かに気付いたように上着の胸のあたりを押さえる。
「さっき、あなたに密着した時、申し訳ないとは思いましたけど、どさくさに紛れて上着の内ポケットをこっそり調べさせてもらったんです。中には何も入っていない、空っぽの状態でした」
「そんな……ひどい人だな。私のあなたへの気持ちを利用したんですか?」
「すみません。どうしても確かめたくて……自分でも最低だと思います」
わたしが目を伏せると、暫くの沈黙の後、アレクシスさんが静かに口を開く。
「そんな嘘までついて、私を犯人に仕立て上げたいんですか?」
「え?」
「あなたは嘘を言っている。あのときのあなたに、そんな事をする余裕なんてなかったはずだ。それに、私の上着のポケットは、あなたの言うように空っぽなんかじゃありませんよ」
そう言うと、上着に手を入れ、内ポケットから何かを取り出した。
マッチの容器だ。それを見て思い出した。そうだ、蝋燭に火を付けた後、彼はあそこにマッチを仕舞っていたのだ。
「これで、あなたが私の内ポケットを調べていないことは証明されましたね。もちろん、ポケットの中には、このマッチの他に例の『落し物』も入っていますよ。残念ながらお見せすることはできませんが」
俯くわたしに対し、アレクシスさんはどこか冷たい口調で言い放つ。
「それにしても残念です。あなたが私をそんなふうに疑っていたなんて。思い違いは誰にでもあることとはいえ、さすがに堪えましたよ。それとも、まだ酔っているんですか? だとしても酷い冗談だ。あなたとなら、とても良好な関係を築いていけると思ったのに……申し訳ありませんが、先ほどの告白はなかったことにして頂けますか。もう二度とあなたと関わることもないでしょうから」
そう言うと、アレクシスさんは踵を返しわたしに背を向け、そして足を止めた。




