六月と円舞曲 6
リコリスさんに連れられ、広間を奥へと進む。突き当たりの大きなガラスに取り付けられたドアを開けると、石造りのテラスへ出た。端は細い石柱に支えられた手すりに仕切られており、向こう側は庭のようだ。
外気に晒されたそこは、寒いくらいにひんやりとしていて、けれど、気分の悪いわたしにとっては心地よい場所だった。
ドアを閉めると室内の音は遮断され、時折手すりの向こうから木々のざわめきが聞こえる以外はとても静かだ。ガラス越しに広間の明かりがぼんやりと洩れ出ているおかげで真っ暗というほどではない。
テーブルへと案内されると、リコリスさんは途中で調達してきた水の入ったゴブレットをわたしの前に置き、飲むように勧めてくれた。
冷たい水を喉に流し込むと、少し気分がすっきりする。
そのまま浅い呼吸をゆっくりと繰り返していると、気持ちの悪さも徐々に収まってきた。
「おかげで助かりました。ありがとうございます」
お礼を言いながら手の中のゴブレットに目を落す。金属製の容器の表面にはところどころに波打ったような凹凸があり、さらには細長いガラスがいくつも埋め込まれ、美しい花の形を形成している。
うーん、これ、すごく高価そう……もしも今、手が滑って落としたりなんかしたら……
そんな想像をすると急に怖くなって、ゴブレットを両手でしっかりと包み込む。
「それは何よりです。声の調子も案外しっかりしているようで安心しましたわ」
リコリスさんはそう答えて、ふと気付いたように口を開く。
「そういえば、初めてお会いするのにまだ名乗っておりませんでしたわね。わたくしはリコリス。このランデル家の娘ですの」
「ええと、わたしはその、ユーニ……です」
「そう。よろしくお願いしますね、ユーニさん。わたくし、こちらの地方には来たばかりで、元々のお友達ともなかなか会えないし、退屈していたところですの。あなたのような方がいらしてくれて嬉しいですわ」
わたしの曖昧な自己紹介に対しても、怪訝な反応をすることもなく、リコリスさんは愛らしい笑顔を向ける。
その様子に安心しかけた直後、リコリスさんは身を乗り出して、大きな瞳でわたしを凝視する。
「ところであなた、クルト様の同伴者としてここにいらしたけど、あの方とはどういったご関係なの? 答えてくださる?」
問いただすような強い語気に戸惑った。
なんだろう。さっきまでと雰囲気が違う。まるで訊問されているような……もしかして、怪しまれてるのかな……
わたしは焦る心を落ち着けるように再び水をひとくち飲む。
「実は、クルト様のお母様とわたしの母が旧くからの知り合いで、その関係で少し……本日は、経験の浅いわたしが、社交界の雰囲気を知ってみてはどうかと、クルト様のお姉様が同行を勧めてくださったんです」
こんなこともあろうかと、クルトやロザリンデさんと共に架空の設定を考えてきたのだ。説得力があるかどうかはともかく、なんとか誤魔化せることを祈る。
「なにぶん未熟者ですので、目に余る振る舞いもあるかと思いますが、どうかご容赦ください」
「ふうん……クルト様のお母様と……」
「ええ」
こんな答えで大丈夫だったのかな……
不安な気持ちを抑えつつ調子を合わせる。
「それならユーニさん、あなたはその……クルト様と将来を約束した仲、というわけではないの?」
「は!? ち、違いますよ! どうしてそんな発想になるんですか!」
リコリスさんの口から飛び出した予想外の問いに、わたしはぶんぶんと首を横に振る。
「だって、血縁でもない女性の同伴者を連れてくるだなんて、てっきりそういう事かと……でも、違うのね? そう……」
リコリスさんは、つかのま考え込むように手元に目を落とす。
あれ、でも、元はと言えば、リコリスさんとの相性が良くないからとパーティへの参加を渋るクルトに対して、それならわたしを同伴者として連れて行けば解決するのでは……とかなんとかいう話だったような気もする。
そういう事情なら、それらしい嘘をついたほうが良かったのかな……?
いやいや、とすぐに考え直す。気分の悪い同伴者を放ったらかしにしていくような薄情な男に協力する義理はない。もしかすると、リコリスさんから逃がれるために、敢えて彼女にわたしの世話を押し付けていった可能性だってあるのだ。
そう考えたら、また腹立たしくなってきた。
そんなわたしの怒りとは裏腹に、リコリスさんは顔を上げて、きらきらした瞳をこちらに向ける。
「それなら、わたくしにも、まだ可能性は残っていると考えて良いのかしらね。ねえ、クルト様ってどんな女性が好みなのかしら? お好きな食べ物は? ご趣味は何かご存じ?」
矢継ぎ早に問いかけられて面食らう。
そんなこと聞いてどうするんだろう? もしかして――この人、クルトのこと好きなのかな?
確かにクルトは見た目は良いけど……あ、あと、家柄も良いみたいだし、お金持ち……うーん、そう考えると女性に好かれる要素はあるかも。
でも、その一方で、具合の悪い同伴者、それも女性のことを平気で置き去りにするような最悪の人間性の持ち主でもあるのだ。リコリスさんだって、目の前でそんな様子を見せられて、普通だったら幻滅しそうなものなのに。
恋は盲目だとか聞いたことがあるけれど、もしかして、これがその状態なのかもしれない。
「いえ、実はわたしもよく知らなくて……あの方とはまだそれほど親しくはないもので……」
下手に答えて誤解されると面倒だ。ここは無難に誤魔化すことにする。
それを聞いたリコリスさんは残念そうに目を伏せた。
「そうでしたの……でも、それなら、あなたもわたくしと同じような立場ですのね」
同じような……ってどういう意味だろう? わたしは別にクルトの事を好きだとかひとことも言った覚えはないけれど……一体彼女の中ではどんな風に話が展開しているのか。
リコリスさんは一転、夢見るような瞳を宙に目を向け喋り続ける。
「クルト様って、本当に素敵。あの艶やかな黒髪に、紫水晶のような神秘的な瞳。それに加えて、少し冷たそうな感じが、なんというか、こう言って良いのかわからないけれど、悪魔的というか……ああ、勿論悪い意味ではなくて、ね?」
「はあ……」
「わたくし、どうにかしてあの方とお近づきになりたいと思っているのですけれど、なかなかクルト様は心を開いて下さらないご様子で……どうしたら良いのかしら。後でたくさんお話できると良いのだけれど」
「そうですねえ」
適当に相槌を打ちながら、リコリスさんの様子をこっそりと観察する。
なんだか妙な展開になってきた。ここから恋愛相談だとかに発展されても、どう助言したら良いものか困ってしまう。
しかし、いくら年の近い同性とはいえ、初対面の相手に対してこんなふうに好きな異性に対する心情を打ち明けるものなんだろうか。
それとも、年頃の恋する乙女とは基本的にこういうものなのか?
でも、リコリスさん自身は悪い人じゃなさそうだ。気分の悪いわたしに対して、こうして気遣ってくれた上にこんな寒い場所にまで付き合ってくれているのだから。クルトは彼女のどこが苦手だと言うのだろう。もしかして、以前に二人の間に何かあったとか?
「お友達との間でも、あの方の事は以前から評判で――だからわたくし絶対に――」
言い掛けて、リコリスさんはふと口をつぐむ。さすがに喋りすぎたと思ったんだろうか。
話題を変えるように、彼女はこちらに笑顔を向ける。
「そうだわ。ユーニさん。あなた、わたくしとお友達になってくださらない?」
「友達……?」
「ええ。さっきも言いましたけれど、こちらには同じくらいの年齢の知り合いがいないものだから、あなたのような方が親しくしてくださると嬉しいのです」
友達……友達かあ……
考えてみれば、今まで『きょうだい』はたくさんいたけれど、歳が近くて、かつ同性の友達というものは存在しなかったかもしれない。学校には男子しかいないし。あ、ロザリンデさんは友達と言えるのかな? でも、彼女を含めたとしても一人だけだ。
友達――なかなかに魅力的な響きだが、普段のわたしは男として生活しているし、今は家柄だって詐称している。そんな状態で、はたして友達付き合いなどというものが可能なのだろうか?
そんな心配をよそに、リコリスさんは楽しそうに両手を合わせる。
「楽しみですわ。一緒にお茶を飲みながら、たくさんお喋りしたり、美味しいお菓子も用意して……そうそう、それから――」
そこで言葉を止めて意味ありげな笑みをこちらに向ける。
「ユーニさん、あなた、ゲームはお好き?」
「ゲーム?」
「ええ。こちらに来る前、お友達との間で流行っていたのですけれど、それがとっても面白いんですの。ぜひあなたも一緒に挑戦してみません?」
「へえ、どんな内容なんですか?」
興味をひかれつつ尋ねると、リコリスさんの目がきらりと光ったような気がした。
「それは――」
不意に楽しげな音楽と、人々のざわめきが耳に飛び込んできて、わたし達の会話は遮られた。
テラスに通じるドアが開いたために、広間の音が漏れ出てきたのだ。
ドアのほうに顔を向けると、ひとりの男性がテラスへと出てくるところだった。逆光で顔はよく見えないが、丁寧に撫でつけられたミルクティー色の髪の毛は、誰かを彷彿とさせた。
「お兄様!」
リコリスさんが嬉しそうな声を上げて立ち上がる。
それを聞いて腑に落ちた。そうだ、この髪の色。この男性はリコリスさんに似ている。それも実の兄というのなら納得だ。
「ああ、リコリス。広間からぼんやり姿が見えたものだから、何してるのかと思って。こんなところで寒くないのか?」
「こちらのユーニさんが、気分が優れないとのことで、涼しい場所で少し休んで頂いていましたの」
「それは……お加減はもう宜しいので? 」
気遣わしげな男性の問いに頷く。
「ええ、リコリスさんのおかげで、もうすっかり」
「わたくしたち、さっきお友達になったばかりなの。ね、ユーニさん」
いつのまにかリコリスさんとはお互いに友達的存在だということが決定事項になっていたようだ。
曖昧に笑みを浮かべていると、男性はわたしの前に進み出る。明かりに照らされる角度が変わって、整った顔が浮かび上がった。
「ご挨拶が遅れました。私はリコリスの兄のアレクシスです。どうぞお見知り置きを」
「ええと、その、こちらこそ……」
わたしがぎこちなく挨拶を返すと、アレクシスさんはとび色の瞳に柔らかな光をたたえ、優しげに微笑む。
「これは美しいお嬢さんだ。よろしければ、後ほど一曲お相手して頂けませんか?」
え? なに? この人今、わたしの事を美しいとか言った? 言ったよね?
聞き間違いじゃないかとアレクシスさんの顔を伺うが、彼は柔らかい笑みを浮かべたまま、こちらを見つめている。
まさか――まさか、これが噂に聞く「紳士」という生き物なのでは?
今まで孤児院からほとんど出た事が無かったし、普段は男子として過ごしていたから接する機会がなかったけれども、これが紳士のかくあるべき姿なのでは?
そして今、わたしが受けている扱いこそが、レディに対するそれなのでは?
すごい。本物の紳士。初めて見た。
けれど、なんと答えたらいいものか。ダンスは上手く踊れる自信がないし、かといって断るのも角が立ちそう……
言葉に詰まっていると、リコリスさんが割って入る。
「だめよお兄様。わたくしと踊ってくださる約束だったでしょう? それに、ユーニさんはクルト様のお連れ様なのよ」
それを聞いてアレクシスさんは苦笑する。
「一曲踊るくらいは構わないだろう? お前だって、そのブラウモント家の彼と踊ればいい」
「それとこれとは別ですわ」
唇を尖らせるリコリスさんの様子に、アレクシスさんは肩をすくめる。
「参ったな。たまにはその我侭を引っ込めてくれると助かるんだけどな……とりあえず私は燭台を持ってくるよ。広間からの明かりだけでは心もとないだろう? それに――」
彼はこちらに向かって微笑みながら付け加えた。
「ここは冷えるでしょう。なにか温かい飲み物もお持ちしますよ。あなたのその花びらのように可憐な唇が、寒さで色を失ったとあってはおおごとですからね」
可憐な唇! 花びらのような! そんなこと言われたの初めてだ。
なんだなんだ。なんだか気分がいいぞ。うーん、素晴らしいな紳士。 それに、彼の言う通り、気分が落ち着くにつれ、少し寒くなってきたと感じていたところだ。さすが紳士は気遣いが違うなあ。どこかのクルなんとかさんとは大違いだ。
その紳士的行動に感激しながら彼の背中を見送った。
「アレクシスさんて、とっても素敵な方ですね。親切だし、笑顔にも優しさが滲み出てるっていうか。わたしの想像する理想の紳士そのものです」
本人がいない間に、やや興奮気味にリコリスさんに伝えると、彼女は顔を強張らせた。
「あなた、まさか、お兄様を狙うつもりですの? それはいけませんわよ。ルール違反です」
「え? いえ、狙うなんてそんな……わたしは素直な感想を言ったまでで……」
ルールってなんの……? 社交界の? というか、ルールなんてあるの……?
たしかにアレクシスさんは素敵な男性だとは思うけれど、それを伝えただけで、まるで彼に特別な好意を持っているかのような捉え方をされてしまうなんて思ってもみなかった。
それとも、気づかないうちに誤解されるような言い回しをしてしまったんだろうか?
リコリスさんの予想外に厳しい反応に、なんとなくそれ以上尋ねるのも憚られて、水を飲みながら場を濁していると、ほどなくしてアレクシスさんが使用人とともに戻ってきた。
使用人はテーブルに紅茶を並べると、テラスからすぐに出て行く。
アレクシスさんは持っていた燭台をテーブルに置き、上着の内ポケットからマッチを取り出し蝋燭に火をつける。柔らかな光に照らされ、先ほどよりもお互いの顔がよく見える。
わたしはちらりとアレクシスさんに目を向ける。
こうしてよく見ると、整った顔つきからは落ち着いた雰囲気を感じさせることもあり、先ほど薄暗がりで見たよりも実際の年齢は上のようだ。
と、彼と目があった。一瞬焦るが、当のアレクシスさんは気を悪くする素振りもなく、にこりとわたしに微笑みを返す。
「思った通り、蝋燭の幽玄な光に照らされるあなたも、幻想的で美しい。そのドレスもよくお似合いですよ。まるで一足先に春の訪れを告げて咲いた一輪の花のように可憐だ。今宵あなたのような方と巡り合えた奇跡を、運命の女神に感謝しなければなりませんね」
……すごい。紳士の圧倒的社交能力すごい。
たとえ紳士的には取るに足らないお世辞だとしても、そんなふうに褒められれば流石に嬉しい。思わず口もとがにやけそうになってしまう。
これは普通に考えたら、クルト以上に女性に人気があるんじゃないのかなあ。クルトはこんな事言わなさそうだし。
だからこそ、リコリスさんはそんな兄の事が心配で、女性が軽々しく近づくのを警戒しているのかもしれない。
そんな事を考えていると、ふと視線を感じた。頭を巡らすと、こちらを軽く睨んでいるリコリスさんと目があってしまった。
さきほど強張った顔でルール違反だと言われた事を思い出し、慌てて紅茶を飲む振りをして目を反らす。
カップを持ち上げたところで、それが白いシンプルな陶器ではない事に気付いた。紺色の地に、金や白い色で鮮やかな模様が描いてある。どこか異国の雰囲気を感じさせる品だ。
さっきのゴブレットもだけど、これも高そう……
ついでにテーブルの上に目を向けると、細かな彫刻を施され、磨き上げられた銀の燭台。その上に据えられた二本の蝋燭の表面には、根元から上のほうにかけての大部分に、赤い何かの模様のようなものが描かれている。
こんな消耗品にまで、相当拘っているみたいだ。上流階級のパーティって凄いんだなあ……なんだかカップを持つ手が震えるのは、きっと寒さのせいだけじゃない。
「あれ?」
不意にアレクシスさんが驚いた様な声を上げたので、わたしは危うくカップを取り落としそうになり、あわててテーブルへと戻す。
「どうかなさったの?」
リコリスさんの問いに、アレクシスさんは戸惑った様に自身の胸のあたりを押さえる。
「それが、今マッチをしまおうとした拍子に、ポケットの中のものを指に引っ掛けて落としてしまったみたいなんだ」
「落としたって、一体なにを?」
アレクシスさんは、こちらを気にするように一瞬視線を向けると、リコリスさんに耳打ちする。
「……まあ、大変」
リコリスさんは目を瞠ると、口元に手を当てる。
「このあたりで地面に当たる音がしたような気がするんだが……すまないが、蝋燭で床を照らして貰えないか」
アレクシスさんが足元を指し示すと、リコリスさんはテーブルの上から燭台を取り上げ、その傍へ歩み寄る。
「あの、わたしもお手伝いしましょうか?」
わたしは控えめに声をかけるが、二人は揃って首を横に降る。
「いいえ、あなたはお客様なんですから、気になさらないでください。どうぞそのままで」
とは言われても、何もせずにただ見ているだけというのも落ち着かない。でも、一体何を落としたと言うんだろう。二人の様子からして大切なもののようだけれども。教えてもらえないという事は、他人に知られてはまずいもの……まさか、違法なものとか……?
念のため、自分の足元を見回してみるが、それらしきものは見当たらなかった。
「ああ、リコリス、蝋燭をもう少し左に……そう、その位置だ。暫くそのまま動かないでくれ。うっかりあれを踏んでしまったら大変だからね」
リコリスさんが言われたとおりに灯りを差し向けると、それを頼りに、アレクシスさんは地面に膝をつき、手探りで何かを探し始めた。
けれど、目的のものはなかなか見つからないようで、沈黙の中、ときおり蝋燭の炎だけがゆらめく。
どれくらい経っただろうか。
唐突にあたりが明るくなった。
わたしには蝋燭の炎が一瞬にして大きくなったように見えた。眩しさに思わず目を閉じる。
その直後、リコリスさんの悲鳴が上がった。炎の激しさに驚いたのかと思ったが、何故だか違和感を覚えた。
暫くは何が起こっているのかわからなかった。けれど、少ししてから、蝋燭とともに、リコリスさんのミルクティー色の髪の毛先が赤く燃え上がり、煙を上げていることに気づいた。
リコリスさんはとっさに炎を振り払うかのように頭を振るが、それは収まる様子はなく、恐ろしい速度で髪の表面を舐めるように頭部全体へと燃え広がっていく。
「いやっ……あ、あつい……!」
頭を抱え、髪を振り乱すリコリスさんの手からは燭台が離れ、床に叩きつけられた拍子に炎は消え、蝋燭の破片があたりに散らばる。
目の前の光景を信じられない思いで見つめていたわたしは、その音で我に返った。
炎を消さなければ。そうだ、水、水は……!
立ち上がり、咄嗟にテーブルの上のゴブレットへと手を伸ばすが、うまく掴めず倒してしまい、こぼれた水がドレスを濡らす。
これではだめだ。もっと他の方法を……
たまらずリコリスさんに駆け寄ろうとしたところで、腕を掴まれ、強い力で引き戻される。
「ユーニさん、危ない!」
見れば、アレクシスさんに身体をがっしりと抱え込まれていた。
「は、離してください! リコリスさんが……!」
動けずにいるわたしの眼の前で、勢いを増した炎はリコリスさんの髪を伝い服にまで侵食していく。
その間も彼女は尋常ではない悲鳴をあげ、髪を振り乱し、身体を奇妙にくねらせ続ける。それがまるで不吉な舞踏のように感じられて、わたしはぞくりとした。
このままでは、本当に彼女が……
「だ、だれか、助けて……!」
叫んだつもりが、声が掠れてうまく出せない。ガラス一枚隔てた向こうはあんなに明るくて平和そのものだというのに、まるでこちら側は別の世界、あるいは悪い夢の中なのではないかと錯覚させられる。
とにかくこの異常な状況から抜け出したくて、力任せに腕を振り上げる。
その指先が、アレクシスさんの顔に当たったのか、わたしの身体を締め付けていた力が緩んだ。その隙に彼の腕を振り払うと、夢中でリコリスさんに駆け寄り手を伸ばす。
「リコリスさん、動かないで!」
渾身の力でリコリスさんのドレスを掴み、なんとか床に引き倒す。風に煽られた炎が、こちらにまでその舌先を伸ばしてきて、熱さに一瞬顔を背ける。次の瞬間、髪の燃える嫌なにおいが鼻をついた。
わたしは自身のドレスの裾を両手で掴むと、そのまま高く持ち上げ、 床をのたうつリコリスさんの身体に夢中で叩きつけた。炎の上から何度も、何度も。




