六月と円舞曲 3
部屋の中央に置かれたピアノが軽やかな旋律を奏でる。
しかし、わたしにはそれをじっくり聞いている余裕はなかった。
「ユーニちゃん。もっと顔を上げて。足元は見ちゃだめよ」
ピアノを弾くロザリンデさんの声に、わたしははっとして頭を起こす。
その途端、目の前のクルトの足を踏んでしまった。
「す、すみません……!」
慌てて謝るが、クルトは
「……ああ」
と短く唸るように返事を返すのみだ。怒っているのかと思ったが、文句を言わないところを見ると、そういうわけでもないらしい。それとも怒る気も失せるほど呆れているのか。
気まずい思いで立ちすくんでいると
「それじゃあ、もう一度最初からね」
ロザリンデさんの声と共にピアノの演奏が再開され、それと同時に動き出したクルトに引っ張られるように、わたしも慌てて足を動かす。
事の次第は数時間前。何がきっかけだったかは忘れてしまった。わたしが正式なダンスのステップを知らないと聞いたロザリンデさんが
「あら、ユーニちゃんはウインナ・ワルツを踊ったことがないの? それなら練習しないといけないわね。 だって、パーティにダンスはつきものだもの」
そんな事を言い出した結果、こうしてクルトを相手にウインナ・ワルツの練習をする事になってしまった。
けれど、わたしはまだステップを覚えられない上に、このウインナ・ワルツというやつはテンポが速いせいか、中々うまく踊れないでいるのだ。
ロザリンデさんはなんだか張り切っているし、そんな彼女にクルトが抵抗するわけもない。わたしは無言の圧力のようなものを感じながら、さっきからずっと慣れないステップを踏み続けている。
この様子ではウインナ・ワルツを習得するまで開放されそうにない。今日もまた、ヴェルナーさんのアトリエには行けないみたいだ。
そんな事を考えていたら、またクルトの足を踏んづけてしまった。
「ご、ご、ごめんなさい……」
「お前、そんなに運動神経が悪かったか?」
本日何度目かになる謝罪をすると、クルトは訝しげに目を細め、怒るというよりも不思議そうにしている。
演奏を中断したロザリンデさんがこちらに顔を向ける。
「暫く休憩にしましょうか。久しぶりに長いことピアノを弾いたら疲れちゃった。申し訳ないけれど、少し自室で休ませてもらうわね。続きはまた後で」
そうしてロザリンデさんは部屋から出て行ったが、その後すぐに、クルトも
「散歩に行ってくる」
と言ってどこかに行ってしまった。
部屋にはわたしひとりが残される。
ずっと慣れない動きをしていたせいか足が痛い。散歩にいけるような元気の残っているクルトが不思議でならない。
重たい身体を休めるように、しばらくの間ぼんやりとソファに腰掛ける。
それにしても、正直拍子抜けだった。わたしが女だと知っても、ロザリンデさんの態度には今までと変わった様子は見られない。ただ、わたしを呼ぶときに「ユーニくん」から「ユーニちゃん」へと変化しただけ。
先週の出来事は、もしかすると以前からわたしの性別に対して抱いていた違和感を払拭したかっただけなのかも。その結果、わたしの事情を汲んで、以前と同じように接してくれているのか。
性別のことを盾に、【お願い】と称して無理難題を吹っかけられるのではないかと恐れていたのが馬鹿らしい。
もっとも、今のわたしにとってはウインナ・ワルツを覚えることが難題ではあるのだが。
改めて部屋を見回す。
ダンスの練習のためにと連へとれてこられたこの場所は、さしずめ音楽室のよう。壁際に設けられた棚には、バイオリンなんかが陳列されているが、やはり一番目立つのは、部屋の真ん中にどんと置かれた大きなピアノ。
わたしはそっと立ち上がるとピアノに近づき、こっそりと蓋を開ける。
ロザリンデさん、ピアノ上手だったな。わたしもあんなふうに弾けたらいいのに。
誰も見ていないとわかっていても、なんとなく周囲を窺ってしまう。適当な鍵盤に人差し指を乗せてそっと押さえると、ポーンという弱々しい音が部屋に響く。
と、その時ドアが開いて、クルトが戻ってきた。
慌ててピアノの蓋を閉めるが、クルトは別段気にした様子も無く、部屋を見回すと
「なんだ、ねえさまはまだ戻ってないのか」
と呟き、手元に目を落とす。見ればどこから持ってきたのか、彼の手にはオレンジ色のバラの花束があった。どこかに飾るつもりだろうか。
クルトはそこでピアノとわたしを交互視に見やる。
「お前、ピアノが弾けるのか?」
「まさか。弾けたら良いなとは思いますけど。なんとなく、触ってみたくて……」
「子供は音が出るものにやたらと触りたがるよな」
「わたしのは純粋な知的好奇心を満たそうとするがゆえの行動です。子供と一緒にしないでください。クルトはピアノ弾けるんですか?」
「バイオリンなら、嗜む程度には」
「すごい。ちょっと弾いてみてくださいよ」
「人様に聞かせられるようなたいしたものじゃない」
「ええー、そんな事言わずに。わたし、間近でバイオリンの演奏を聞いてみたいです」
食い下がると、クルトはちらりと入り口に目を向け、まだロザリンデさんが戻りそうにない事を確認すると
「少しだけだからな」
そう言って手にしていたバラの花束をわたしに押し付ける。暫くの間持っていろという事らしい。ご丁寧にも棘は取り除いてあった。
「それで、何の曲が良いんだ? 」
バイオリンの調弦をしながらクルトは口を開く。
「ええと、何と言われても……」
「知らない曲を聴いてもつまらないだろう? 」
「そんな事無いと思いますけど……あ、でも、それなら、あの曲がいいです。『ロンドン橋』。孤児院にいた頃、きょうだいたちと一緒に、よくあの歌を歌って遊びました」
「ふうん。ナーサリーライムか」
そう呟くと、クルトはバイオリンを構えて弾き始める。彼の手が弓を動かすと、よく知っているあのメロディーが流れ出す。
かと思うと、一回弾き終わった途端に演奏をやめて楽器を下ろしてしまった。
「あれ、もう終わりですか?」
「元が短いんだから仕方がないだろ。それに、俺だって未熟な演奏を人前で披露するのはそれなりに抵抗があるんだ」
「そんな、すごく上手でしたよ。それに、せっかく調弦だってしたのに、これだけで終わりなんて勿体無いですよ。もっと聞きたいです……ねえ、お願い」
「ねえさまの真似をするのはやめろ」
クルトは少し顔をしかめた。
「わかった。弾いてもいいが、その代わりお前も歌え。それで平等だ」
「え?」
歌う? わたしが?
戸惑っているうちに、クルトの演奏が始まったので、釣られるようにわたしは歌いだす。
ロンドン橋 おちる おちる おちる――
そうして最後まで歌い終えると、クルトが意外そうな顔をこちらに向ける。
「お前、歌はまあまあだな」
「ほんとですか? もしかして歌手に向いてたりして。ディーヴァと呼んでくれても構いませんよ」
「そこまで言ってない。調子に乗りすぎだ」
「即否定しなくても良いじゃないですか。これがきっかけで歌の才能が花開くかもしれないというのに。わたしは褒められて伸びるタイプなんですよ」
「へえ、それじゃあ、褒めればダンスもすぐに踊れるようになるんだな?」
「え? ええと、それは……」
まずい。余計な事を言ってしまった。
どう答えようかと思っていると、部屋のドアが開き、フレデリーケさんに車椅子を押されたロザリンデさんが部屋に入ってきた。助かった。
その途端、クルトがわたしの手から先ほどの花束をさっと取り上げると、ロザリンデさんに近寄ってそれを差し出す。
「これ、ねえさまにと思って貰ってきた」
「まあ、ありがとう。綺麗ねえ」
受け取ったロザリンデさんは顔を綻ばせ、香りを楽しむように深く息を吸い込む。
クルトはなんだか満足気だ。棘が全部取り除いてあったのも、お姉さんに渡すためだったんだろう。なんともまめだ。
わたしは控えめにクルトの袖を引っ張る。
「ねえクルト、わたしには?」
「うん? バラは食べられないぞ?」
「失敬な。まるでわたしが食べ物以外に興味が無いような言い方はやめてください」
「違うのか?」
二人のやり取りを聞いていたロザリンデさんが手招きする。
「ユーニちゃん、こっちにいらっしゃい」
その言葉に従いロザリンデさんの傍に行くと、彼女は一本のバラの茎を短く折る。
「少しの間じっとしていてね」
そう言いながらバラの花をわたしの髪に飾ってくれた。
「さあ、これでいいわ。せっかく踊るんだから、こうしたほうが少しは気分が出るでしょう?」
「わあ、ありがとうございます」
その存在を確かめるように、そっと頭に手をやると、滑らかな花びらの感触がした。
こういうのって、なんだか女の子って感じがする。
どこかに鏡はないかと探していると、クルトがこちらをじっと見ていたので
「どうですか? これ、似合ってますか? 」
と聞くと
「……ねえさまのために持ってきたバラなのに……」
がっかりしたように呟かれた。
その日の夜、踊り疲れてくたくたになった身体を休めるために、さっさと寝床に潜り込もうと寝支度を整える。髪を結んでいたリボンを解き、ベッドに腰掛けたところで、クルトが目の前に立った。
「何か大事なことを忘れてないか?」
「え?」
なんだろう。何かあったっけ?
必死に考え込んでいると、その様子を見ていたクルトが呆れたように溜息を漏らす。
「やっぱり忘れてたんだな……」
「ええと、何でしたっけ?」
「ねえさまから受け取っただろう? ブラシを」
「……ああ!」
その言葉で思い出した。
帰り際、ロザリンデさんにヘアブラシを渡されながら言われたのだ。
「ユーニちゃん。今日からパーティの日まで、これで朝晩50回ずつブラッシングしてね」
そうする事で髪がきれいになるとかなんとか、だいたいそんな事を聞いたような気がする。
でも、足も痛いし今日はもう眠りたい。一日くらいさぼっても、あんまり変わらないだろう。
「明日からやります」
そう言って身体を横たえようとしたが、クルトは納得しなかった。
「そう言ってどんどん先延ばしにするつもりだろう? ねえさまは『今日から』と言ったし、お前もそれを了承したはずだ。それを初日から守らないでどうするんだ」
「今日だけ見逃してください。わたし、もう眠くて……」
「だめだ。少し我慢すればすぐ終わる」
お姉さんが絡んでいるからか、クルトは諦めそうにない。そういう時の彼が面倒くさいということも経験済みだ。
これは大人しく従ったほうが早いと、わたしはしぶしぶブラシを取り出し、自分の髪にあてる。
そうしてブラッシングする様子を、クルトは監視でもするようにじっと見つめてくる。
うう、落ち着かない……
それにしても、ややこしいダンスを覚えさせられたり、こうしてブラッシングさせられたり、パーティって思っていたより厄介だ。美味しいものが食べられるかも、なんて軽い気持ちでいたのは間違っていたんだろうか……
そんな事を考えていたら、何回ブラッシングしたのかわからなくなってしまった。30回? いや40回? ……もう面倒くさいから50回したことにしよう。
そう思ってブラシを離すと、クルトの声が飛んできた。
「おい、まだ39回目じゃないか。あと11回はどこへいったんだ」
その言葉にわたしは手を止める。
「……わざわざ数えてたんですか?」
「お前が誤魔化すんじゃないかと思って。まさかとは思ったけど、本当にやるとは……」
「ち、違いますよ。今のはちょっと考え事をしていて、何回目かわからなくなっただけで……」
「ふうん。それなら俺が代わりに数えてやるから、これからは思う存分考え事をしながらブラッシングするといい」
それって、これから毎日こんなふうに監視されるって事なのかな……やりづらいなあ……
ふたたび髪にブラシをあてながら、わたしはこっそり溜息を漏らした。




