六月と円舞曲 2
その日の夕方、寮に戻ってからわたしの怒りは爆発した。
「どうして! どうして、ロザリンデさんに喋っちゃったんですか!? クルトのバカッ!!」
「……すまない」
部屋の中をうろうろしながら声を張り上げるわたしとは対照的に、ソファに腰掛けたクルトは、両手を膝に揃えて置いたまま、固まったように俯いている。
「ヴェルナーさんの時は、ちゃんと誤魔化してくれたのに! 確かに、ヴェルナーさんとわたしなんかを比べたら、月とすっぽん、バラとペンペン草ほどに違いますけど! それでも、今日の仕打ちはあんまりです!」
「……すまない」
「頼み事を引き受ける代わりに、わたしがこの学校にいられるよう協力してくれるって言ってたじゃないですか! そもそも、それを言い出したのはクルトのほうなのに!」
「……すまない」
「さっきからクルト、『すまない』ばっかり! 他に何か言えないんですか!?」
「すまな……」
言いかけたクルトは慌てて口を噤む。
この人、本当にすまないと思ってるのかな……?
疑いの目を向けるわたしに対し、クルトは居心地悪そうに視線を彷徨わせる。
「でも、ほら、ねえさまは以前から疑っていたみたいだし……それに、その、浴室を覗かれたときに、お前の性別はばれていたわけだろう? だったら、あの時俺が口を割らなくても……」
「そんなの、わからないじゃないですか! 浴室を覗かれたとき、わたしはお湯に浸かっていたし、浴槽には花びらが浮かんでいて、フレデリーケさんからは何も見えなかった可能性だってあるんです。今までだってわたしの性別について追求する機会はいくらでもあったはずなのに、それをしなかったのは、入浴中の姿を見ても、わたしが女だという確証が持てなかったからだと思いませんか? 浴室で何を見たのかはっきり言わずに、『なにを見たのか予想できるでしょう?』なんて曖昧な言い方をしたのも、そのせいかもしれません」
「それは……」
その主張に納得したのか、黙り込んだクルトに対し、わたしは追い討ちをかけるように言葉を浴びせる。
「だから、クルトがあのまま黙っていてくれたら――!」
クルトはおずおずと口を開く。
「その……今日のねえさまは、なんていうか、いつもと迫力が違っていて……」
「はあ? 迫力ぅ?」
あまりの言い分に脱力してしまいそうだ。迫力が違うからなんだと言うのか。
彼がお姉さんに弱い事は知っていたが、まさか、ここまでだったなんて。
脱力ついでに少しだけ落ち着きを取り戻したわたしは、ソファにどすんと腰掛ける。
「……本当だったら、わたしの性別がクルトに知られた時点で、退学になっていてもおかしくなかったし、条件付きとはいえ見逃してもらえて運がよかったとは思ってます。むしろ、今日までばれずに過ごしてこれたことが奇跡なのかもしれません。それでも――いえ、だからこそ納得できないんです。あんな――あんな形でわたしの秘密を他の人に知られてしまうだなんて……」
――裏切られた。
どうしてもそんな言葉が浮かぶ。
自分の不注意が決定的な原因ならば、まだ諦めもついたというのに。それに、いざとなれば、無言のままあの場所から逃げ出す事だって可能だったはずだ。それなのに、それなのに――
腹立たしさと同時に一抹の寂しさを覚える。
これでも自分はクルトのことを信頼していたのだ。きわどい場面で何度も助けてもらって感謝しているし、迷惑をかけて申し訳ないと思う反面、気にかけてもらえることが嬉しかった。
けれど、クルトからすれば、わたしの存在は随分と軽いものなのかもしれない。なにしろロザリンデさんの「迫力」とやらの前では、さほど抵抗することも無く白旗を揚げてしまうくらいなのだから。
今だってこうして目の前で申し訳なさそうにしているけれど、本心ではわたしがどうなろうと構わないと思っているんじゃないだろうか。それこそ道端のペンペン草のように。
溜息と共にソファに寝転がる。
そんな事をしても、今日のクルトは「行儀が悪い」とは言ってこない。何かを言いかける気配を見せたが、目が合うと黙ったまま俯いてしまった。
結局あの後、どうなったんだっけ……
正直、混乱していたからよく思い出せない。ロザリンデさんに詳しく事情を聞かれて、主にクルトがそれに答えていたような気がする。
それで、いつのまにかパーティに参加することになっていて……その後別室に連れて行かれて、何故か身体のあちこちを測られた……つい先ほどの帰り道で、正気を取り戻すにつれて同時に怒りがふつふつと湧いてきて……そしてこの有様だ。
それにしても、ロザリンデさんはどういうつもりなんだろう。確か、事情を聞いた後で
「安心して。悪いようにはしないから」
とか言っていたような記憶がある。
でも、それなら、ずっと見過ごしていてくれたら良かったのに。何故今になって?
どうしてもわたしをパーティに参加させたい理由があるんだろうか。それも「女の子」として。
それとも、わたしの弱みを握って、厄介ごとを押し付けようとしているだけ?
ありえない事ではない。あのクルトのお姉さんなのだから。
わたし、これからどうなるんだろう……このままどこかから秘密が漏れたら退学になっちゃうのかな……
正直、勉強は苦手だったが、暖かい寝床にお腹一杯の美味しい食事、仕立ての良い肌触りの良い服が保障された環境が失われるのは惜しくもあった。
でも、もしもこの学校から放り出されたとしても、いざとなれば自分ひとりくらいならなんとかなるはずだ。
それよりも気がかりなのは――
考えていると、クルトがぽつりと口を開く。
「その、今更こんな事を言っても説得力は無いかもしれないが……本当に悪いことをしたと思ってる」
「……だったら、責任、取ってください」
「せ、責任って……? 」
おどおどするクルトに対しわたしは言い放つ。
「わたしが性別を偽ってまでこの学校に通っている理由、前に話しましたよね? 退学になったら、孤児院への寄付が打ち切られてしまうかもしれないって。そうならないために、わたしはなんとしても無事にこの学校を卒業したいんです。でも、今回の件でそれも叶わないかもしれません。もしもそうなった場合には、クルトに孤児院を援助して欲しいんです」
我ながら随分無茶な要求をしていると思ったが、孤児院を存続させるためにはなりふり構っていられない。
それに、クルトの家は相当裕福みたいだし、もしかしたらという期待もあった。
クルトは額に手をあて俯いたまま暫く何かを考え込んでいる様子だったが、やがて重苦しい口を開いた。
「……わかった。善処する」
わたしは思わず身を起こす。
「ほんとに!? 約束ですよ!? 後になって『やっぱり無しで』とか言わないでくださいよ!?」
「……ああ」
その答えにわたしは内心で驚いていた。
まさか、こんなにすんなりと要求が通るなんて。
あれ、ちょっと待って。という事は、これでいつ退学になったとしても問題ないのでは? だって、もしもの場合はクルトが孤児院を引き受けてくれるんだから。
そう考えると急に気が楽になって、なんだか怒りも収まってきた。
そうだ。この際色々と便宜を図ってもらったらどうだろう。劣化した建物を補修してもらって、食事内容の改善と、あと、労働時間の短縮もお願いしたい。それに、それに――
どんどん膨らむ妄想の合間に、ふと、孤児院の様子が気になった。
今頃みんなはどうしているんだろう。 アウグステは元気かな。風邪ひいたりしてなければいいけど……
自分とよく似た少女の笑顔が思い出され、ふいに懐かしいような、それでいてどこか寂しいような気持ちに襲われる。
わたしは立ち上がると、クルトの隣に移動する。
顔を上げた彼と目が合う。
「わたし、今、指相撲をしたい気分なんです。相手してください」
いつかのようにそう言うと、クルトもあの時の事を思い出したのか、素直に己の右手を差し出してくる。
そうして勝負が始まったが、どういうわけか、あっさりとわたしが勝ってしまった。
「クルト、今わざと負けたでしょう!? そういうのやめてください! 余計腹が立つんですから!」
「……すまない」
再び勝負が始まる。今度はクルトも手を抜く気配は無い。
「……前も思ったんだが……どうして指相撲なんだ?」
指を動かしながら、クルトが遠慮がちに問う。
「それは……」
問われて口ごもる。
玩具のほとんどない孤児院では、子供たちだけで道具の必要ない遊びを考える必要があった。指相撲もその中のひとつだ。けれど、わたし自身、とりわけこの遊びが好きというわけでもなかったのだが、孤児院を出てから、ふとした時にこの遊びを思い出す。
たぶん、誰かの存在をすぐ傍に感じて、安心できるからなんだろうと思う。
でも、そんな事を言えば、クルトはきっと嫌がるだろうな……
「好きなんです。指相撲」
それだけ答えると、目の前の勝負に集中する。
暫く無言でそうしていたが、クルトが再び口を開く。
「他には?」
「はい?」
「だから、他になにか、俺に出来ることがあれば……」
もしかして、何でも聞いてくれるって事だろうか。
なんだなんだ。一体どうしたんだ。今日のクルトは随分と大盤振る舞いだ。昼間の失言を相当気にしているのかも。
正直、孤児院の存続が約束された時点でわたしの目的は果たされたようなものなのだが……でも、せっかくだし、それだったら……
「……お菓子の家」
「え?」
「ほら、古い童話にあるでしょう? 森に迷い込んだ幼いきょうだいが、お菓子の家を見つけて……っていう話。あれ、一度食べてみたかったんですよねえ。壁はケーキでできていて、ドアはビスケット、チョコレートの屋根にはマジパンの雪が乗っていて――」
「キャンディでできた窓枠には、氷砂糖のガラスが嵌まってる」
わたしの言葉を引き取るようにクルトが続ける。
「そうそう! それです! 詳しいですね」
「俺も昔、ねえさまと一緒に、よくその絵本を読んだ。それで、ねえさまが『森にお菓子の家を探しに行こう』なんて言い出して……道に迷わないようにって、白い小石をふたりで集めたりもした」
ふうん、クルトたちもそんな普通の子供みたいな事をしてたのか。なんだか意外。
でも、子供の考える事なんて、案外どこも似通っているものなのかもしれない。
わたしだって、きょうだいたちと一緒になって散々お菓子の家について想像を膨らませて、その挙句にいつか自分がお菓子職人になって、みんなにお菓子の家を作ってみせるだなんて約束した事もあったのだ。
この学校に入学するときに、その夢は諦めたけれど……
でも、そんなお菓子の家が本当にあったならと何度も夢に見た。いつかお菓子の家を探し出して、お腹一杯お菓子を食べるんだって。
「それで、その後どうしたんですか? 実際にお菓子の家を再現したとか?」
「うん? なんでそうなるんだ?」
わたしの問いに、クルトは不思議そうに問い返す。
「え? だって、それって、お菓子の家を見てみたいっていうロザリンデさんの【お願い】だったんでしょう?」
クルトは二、三度まばたきする。まるで意外な言葉を耳にしたような顔をして。
あれ、何か変な事言ったかな……
戸惑っていると、不意にクルトが何事もなかったかのようにわたしの親指を押さえつけて、あっというまに10数えてしまった。
「あっ、ずるい」
「ぼけっとしてるお前が悪い」
そうだったかな? むしろ、クルトのほうが、心ここにあらずという状態だったような気がするのだけれど……
腑に落ちない気持ちを抱えていると、クルトが思い出したように口を開く。
「そういえば、お前、今日はヴェルナーさんのところに行かなくてよかったのか? なんの連絡もしてないだろう?」
「ああ……」
そうなのだ。結局、今日はなんだかんだでアトリエには行きそびれてしまった。
「前に、具合が悪くて出掛けられなかった事があるでしょう? ほら、クルトに手紙を持っていってくれるように頼んだあの日。あの後、また似たようなことがあるかもしれないので、約束の時間を30分過ぎてもわたしがアトリエを訪れないようなら、その日はお休みって事にして欲しいって、ヴェルナーさんに頼んだんです。だから、大丈夫だとは思いますけど……」
念のため、後で手紙を出しておこう。
「わたしもクルトに聞きたい事があるんですが……」
「なんだ? 」
「お風呂に浮いてたバラの花びらを、クルトが用意してたって話、ほんとなんですか? もしもほんとなら、一体どうしてそんな事……まさか、ロザリンデさんが言ってたように、わたしが女だからって理由で?」
その問いに、なぜかクルトは目を逸らした。
「あれは……ああすれば、お前が入浴するのを嫌がらないんじゃないかと思って……女はああいうのが好きなんだろう? ねえさまも好きみたいだし……」
そんな理由で、わざわざ季節はずれの花びらを用意した……?
いや、確かにわたしもまんまとその思惑にはまって、ここ最近は入浴するのを楽しみにしていた節さえもあるけれど。
クルトって、変に気が回るところがあるなぁ……
だからこそ、その気遣いを何故肝心な時に発揮してくれなかったのかとは思うが。
これ以上責めるのはかわいそうだから、何も言わないでおくけど……
それにしてもパーティか……物語の中でしか知らないけれど、やっぱり綺麗な服を着た人たちが、眩いシャンデリアの下で踊ったりするのかな。それに、今まで食べたことの無いようなご馳走があったりして。
考えたら少し楽しみになってきた。




