六月と円舞曲 1
「あのね、私、お願いがあるの」
最初にロザリンデさんのその言葉を聞いても、わたしは特に何も思わなかった。
一瞬、妙な緊張感が漂った後
「どんな?」
と問い返すクルトの声が、どことなく強張っている気がして、そこではっとする。
そうだ。今、確かにロザリンデさんは『お願い』と言った。
ここ暫く彼女の口から明確に発せられたことの無いその言葉の意味に、わたしは内心でおののく。
どうしよう。また奇妙な頼み事をされるんだろうか?
そう思って身構えるが、ロザリンデさんはそんなわたしの様子に気付かないのか、笑みを浮かべたまま口を開く。
「そうねえ。どこから話したら良いかしら……この間お邪魔したサロンでランデル様にお逢いしたのね。ほら、クルトも知っているでしょう? お父様のお友達の」
「ああ」
「その時、お話を伺ったんだけど、あの方、今、ご家族揃ってこちらで過ごしてるそうなの。それで、こちらに住む方々と交流を深めるためにパーティを開きたいから、是非にってお誘いを受けたんだけど……でも、実際のところ、私が行くのは難しいでしょう?」
ロザリンデさんはちらりと自分の腰掛けている車椅子を見やる。
「けれど、お断りするのも申し訳ないし……だからね、『私の代わりに弟が伺います』って言っちゃったの」
まるでなんでもない事のように言うけれど、それってそんなに簡単に決めてしまっていいものなんだろうか。
クルトの様子を伺うと、彼も初めて聞かされたようで、驚いた様子で黙り込んでいる。
しかし、ロザリンデさんが
「ね、お願いね」
と念を押すと、我に返ったように
「あ、ああ、わかった」
と頷いた。
とはいうものの、なんだか難しい顔をしている。
「どうかしたの? 何か気になる事でもあるのかしら?」
ロザリンデさんが首を傾げると、クルトは少し言いづらそうに口を開く。
「……あの家には娘がひとりいただろう?」
「リコリスさんのこと?」
「そう……彼女とは、なんていうか、相性が良くないというか……」
「あら……」
クルトがそんな事を言うなんて珍しい。いつも、そつなく人付き合いをこなしているように見えるのに。そのリコリスさんという人と、よほど仲が悪いんだろうか。
あれ? でも――と、そこでふと気付いた。
そういう事なら今回自分は無関係なのでは?
パーティに行くようお願いされたのはクルトであるし、内容からしても彼ひとりがどうにかすれば良い事みたいだ。
なんだ。それなら別にわたしが気を揉む必要もないじゃないか。クルトがんばれ。
そんな事を考えていると、ロザリンデさんが口元に手をあて、少し考えるような仕草をした後
「それなら、ユーニくんも一緒にパーティに行ってもらったらどうかしら? ランデル様には私から伝えておくから」
え? なんで? どうしてそういう事になるんだろう? というか、パーティってそんなに気軽に参加できるものなんだろうか。
訳のわからないままクルトの方を見ると、彼は何故か素晴らしい考えを耳にしたような顔をして頷く。
「なるほど。こいつにあの令嬢の相手を任せればいいのか」
「えっ、ひどい。わたしを何だと思ってるんですか」
抗議の声を上げるわたしをやんわり押しとどめるように
「そうじゃなくて」
ロザリンデさんは微笑みながら首を振る。
「ユーニくんに、クルトのパートナーとして、パーティに行ってもらうのよ」
その意味がよく飲み込めず、わたしは心の中で反芻する。
パートナー? って、あのパートナー? いわゆる、そういう……
「な、なにを言ってるんですか。パートナーだなんて、そんな、女の子じゃあるまいし……」
引きつった笑顔を浮かべながら答えるわたしに対し、にロザリンデさんは不思議そうに首をかしげた。
「あら、だって、女の子なんでしょう? ユーニくん、いえ、ユーニちゃん、と呼んだほうが良いかしら?」
「は……?」
どういうこと? ロザリンデさんはわたしが女だという事を知っている?
まさか、クルトがばらした……?
目でクルトに問うが、彼はその視線に対し否定するように小さく首を横に振る。
それを見て、わたしはぐらついた意識を立て直す。
そうだ、いくらロザリンデさんが相手でも、クルトがそんなに簡単に秘密を話すはずが無い。
心を落ち着けるように何度も浅く呼吸する。
「ち、違いますよ。わたしは男です。よく性別を間違えられますけど、本当に男なんです。クルトからもなんとか言ってください」
しかし、クルトは「あ、いや……」と歯切れの悪い返事をしたきり黙り込んでしまった。
どうしたんだろう。何か言ってくれないと余計怪しまれるじゃないか。
やきもきしているうちに、ロザリンデさんが話し始める。
「初めてあなたに会ったとき、てっきり女の子かと思ったわ。でも、クルトの学校のお友達なら女の子なわけがないし、私の勘違いかとも思ったんだけど……でも、それでも不思議だったのよ。どうしてあなたはこの家に来るたびお風呂に入るのかって」
「お風呂……?」
「だって、お風呂なら学校でも入れるのに。現にクルトはそうしているでしょ? だから、もしかして、学校ではお風呂に入れない事情があるのかしらって」
「わたしはただ、ロザリンデさんに失礼の無いようにと、念には念を入れて身体を綺麗にしていただけで……」
「その割には、初めてこの家にきた時には、お風呂に入るのを嫌がったって聞いたけど」
「え? な、なんで――」
なんでそれを、と言いかけたわたしに、ロザリンデさんは微笑む。
「前にも言ったでしょう。このお屋敷の中で起こった事で、私の知らない事なんてないのよ? それに、あなたが入ってるそのお風呂、バラの花びらが浮かんでるって。聞けば、毎回クルトが使用人に言いつけて用意させてるそうじゃないの」
「え?」
クルトがあの花びらを用意していた? 予想外だ。てっきりロザリンデさんの趣味かと思っていたのに。
一瞬意識がそちらに向くが、今はそれを気にしている場合ではないと、慌ててロザリンデさんに視線を戻す。
「それに何か問題が……?」
おそるおそる尋ねると、ロザリンデさんは何かを考え込むように口元に指をあてる。
「問題っていうか……男の子のために、わざわざ花びらの浮かんだお風呂を用意するかしらって疑問に思ったのよ。だって、そういうものって、ふつう女の子が喜ぶものでしょう? つまり、クルトがお風呂に花びらを入れたのは、あなたが女の子だからこそなんじゃないかって」
「そんな、考えすぎですよ。お風呂に花びらが入っていたくらいで、どうしてそういう事になるんですか」
そう言うと、ロザリンデさんはあっさり頷く。
「そうね。確かに考えすぎかもしれないわね。その点は認めるわ。でもね、私、気になって気になって仕方なくって……それで、フレデリーケにとあるお願いしたの」
「お願い……?」
「そう。あなたがお風呂に入っているときにね、浴室を覗いてきて欲しいって」
「は……?」
その言葉にわたしは混乱する。
ちょっと待って。確かに以前、入浴中にフレデリーケさんと浴室で遭遇したことがある。ロザリンデさんの言葉を信じるならば、あの時、彼女が浴室に入ってきたのは偶然なんかじゃなくて、わたしの性別を確かめるため……?
「ああ、フレデリーケを責めないでちょうだいね。この子は渋ったんだけど、私がどうしてもって頼み込んだのよ」
ロザリンデさんの背後に控えていたフレデリーケさんが目を伏せる。
「でもユーニちゃん。私がこんな事を言うからには、フレデリーケが浴室でなにを見たのか予想できるでしょう?」
ロザリンデさんは言葉を切ると、じっとわたしをみつめる。
わたしは慌てて反論する。
「そ、それは、見間違いです! あの時、わたしはお湯に浸かっていました。だから、屈折の加減でそういうふうに見えたに違いありません。大体、男子校に通っているわたしが女であるわけ無いじゃありませんか」
「あら、またそこに戻る? なかなか強情なのねえ」
「強情もなにも、本当のことです!」
ロザリンデさんはすっかりわたしが女であることが確定しているような口調で話している。
でも、わたしは認めるわけにはいかないのだ。
何故かクルトは先ほどから何も言ってくれないし、ここはどんな言い訳を使ってでも誤魔化すしかない。
「ふうん……それなら、クルトに聞いてみましょうか」
ロザリンデさんがそう言った途端、それまで黙り込んでいたクルトがぎくりとしたように身体を震わせた。
その様子を意に介することもなく、ロザリンデさんがゆったりとした口調で問う。
「ねえクルト。ユーニちゃんは女の子なのよね?」
クルトは答えない。
たった一言「違う」と言ってくれたらいいのに、何故かそれすら躊躇っているようにも見える。
「どうなの? クルト」
「だ、だから違いますって! そうですよね、クルト!」
「ええと……」
ふたりの視線から逃れるようにクルトは顔を伏せたまま口ごもる。
そこで初めて、わたしの胸に「まさか」という思いが浮かんだ。
そういえば、以前ロザリンデさんが言っていた。クルトは彼女の前では殆ど嘘をついたことがないと。
それって、ロザリンデさんに対して嘘を言えないという事なのでは……?
改めて考えてみれば思い当たる節はある。たとえばクリスマスのお芝居の件だ。あの時、クルトはヒロイン役を演じたことをロザリンデさんに知られるのを嫌がっていたけれど、ロザリンデさん本人に問われて、あっさりと自分がヒロインを演じたことを明かしてしまった。あれも、クルトがお姉さんに嘘をつけなかったから……?
いや、でも――と考えなおす。
その一方で、ヴェルナーさんの描いたあの顔のない肖像画の真相については嘘をついたではないか。それなら、今だって同じように嘘をつくなりなんなりして、わたしの性別について隠し通してくれるんじゃないだろうか。
縋るような思いでクルトをみつめると、目だけをこちらに向けた彼と一瞬視線が合った。
しかしそれはすぐに逸らされる。
重苦しい沈黙の中、俯いたクルトは消え入りそうな声で呟く。
「……ねえさまの言うとおり、こいつは、ユーニは、女なんだ……」
その瞬間、わたしは暗い穴の中に突き落とされたような錯覚を抱いた。




