六月と赤い果実 2
校門の前でヴェルナーさんと別れ、わたしは自分の部屋へと向かう。その途中、先ほどのジャムの瓶を取り出して、まじまじとみつめる。
それにしてもこのジャム、本当にひどい味だった。アルベルトは自家製だと言っていたけれど、作り方を間違えたんだろうか?
考えながら角を曲がった途端、どすんと誰かにぶつかって、わたしは尻餅をついてしまった。その拍子に手に持っていたジャムの瓶と、アトリエから持ち帰ったデッサン画を取り落としてしまう。
「ごめんなさい……って、誰かと思ったらユーニか」
顔を上げると、ぶつかった相手は級長のマリウスだった。
「僕、ぼうっとしてたみたいだ。君の鈴の音にも気付かないなんて。大丈夫? 怪我はない? ほら、つかまって」
「わたしのほうこそ、考え事をしていたもので……」
差し出された手につかまり、立ち上がる。
その時ふと、妙な引っ掛かりを覚えた。
なんだろう? 今のマリウスの行動、どこか不自然だった……?
わたしはつい今しがたの一連の出来事を思い返し、そして考える。
……いや、違う。マリウスがおかしいわけではない。おかしいのは――
「ユーニ、どうかした? どこか痛いの?」
黙り込んでいたの不審だったのか、マリウスに心配されてしまった。
わたしは我に返り、慌てて両手を振る。
「あ、いえ、大丈夫です。なんでもありません」
「それならいいけど……ぶつかったせいで荷物が散らかっちゃったね。拾うの手伝うよ」
わたしが落としたデッサンを手に取り筒状に丸めなおしていると、その間にマリウスが転がっていったジャムの瓶を拾ってきてくれた。
「これも君のだよね? 何これ。ジャム?」
「そうです。家族から貰ったんですよ」
それを聞いた途端、マリウスの表情が曇った。
「家族か……」
「どうかしましたか?」
気になって尋ねてみると、マリウスは重い口を開く。
「実はね……僕の家族が退学になるらしいんだ」
「退学って……どうしてそんな事に?」
「ほら、発表会の日のあの事件。あの件の犯人のひとりが、僕の家族の二年生だったんだよ」
「え?」
教室にペンキが撒かれ、ヒロインの衣装が台無しにされたあの事件。
わたしの推測では誰が犯人までかは特定することができなかったが、まさかマリウスの家族だったなんて。一体どんな理由で明らかになったというんだろう。
「どうしてその二年生が犯人だってわかったんですか? 実際に喫煙しているところを誰かに見られたとか?」
「それが、休暇が明けてすぐに、抜き打ちで上級生の部屋の立ち入り検査が行われたらしいんだ。そこでその二年生の部屋からお酒や煙草がみつかったとか。勿論彼らだって、そういうものの保管場所には気を遣っただろうけど、それでもみつかったって事は、先生達も相当念入りにやったんだろうね。それで問い詰めたら、常習的に喫煙してることと、発表会の日の件も自分がやったってことを認めたんだって。ほとんど君の言ってた通りだってさ」
マリウスは溜息をついて続ける。
「そりゃ、あれだけの事をしたんだから退学になっても仕方ないとは思うよ。でも、正直、ショックでさ。今までそれなりに仲良く接してきたつもりだけど、そんな事するような人だなんて思ってもみなかったから。人は見かけによらないって言うけど、あれ、本当なんだなあ……ユーニ、君もそうなのかな?」
「はい?」
突然引き合いにだされてどきりとする。
それって、わたしが見かけによらないって事……? 何か変な事したかな……?
困惑して言葉に詰まっていると、マリウスが慌てて首を振る。
「ああ、別におかしな意味じゃなくてさ。今回の件で、僕は君のこと見直したっていうか。事件の真相を推理する君は、まるで本の中に出てくる探偵みたいで、普段の君からはまるで想像できない姿だったなあ」
そう言ってしみじみと頷いている。
「普段のわたしに一体どんな印象を抱いてたんですか……」
「いや、まあ、それは……とにかく、それほどまでに凄かったってこと。あ、そうそう、先生も君の推理に感心してたみたいだよ。今なら更に感心してるかも。なにしろ、犯人達が幽霊の噂を流してたことまで言い当てたんだから」
「あの日わたしが言ったこと、全部先生に話したんですか?」
わたしはあの時、捻挫の処置のため保険室にいた。だからマリウスが先生にどんな説明をしたのかまでは知らない。
「それだけじゃないよ。過去に美術の時間にデッサンが行方不明になった件についても伝えた。君の推理に説得力を持たせるために必要だと思って。以前にも事件を解決した実績があれば、先生だって信用してくれるでしょ」
「過去の実績を持ち出さなければならないほど、普段のわたしの発言は説得力に欠けると……?」
そう問うと途端にマリウスは焦りだした。落ち着きなく視線を泳がせると唇を舐める。
「え、ええと、そういうわけじゃ……あ、僕、用事があるんだった。そろそろ行かないと。それじゃ、またね」
そう言い置いてそそくさと去っていってしまった。
逃げられた……
褒められたのか貶されたのか、一体どっちだったんだろう。
少しばかり頭を悩ませたが、すぐに先ほどのマリウスとの会話を思い返す。
もしかして、上級生の部屋の立ち入り検査を行った理由の一端は自分にもあるのではないか。ふと、そんな考えが頭に浮かんだ。
休暇中に温室で交わしたミエット先生とのやりとり。一本だけ離れた場所に咲いていた水仙と、それを元に彼がわたしを試そうとした理由。
それについて先生は特に意味は無い、単なる好奇心だと言っていた。確かにあの時彼が水仙の話を持ち出したのは、その場の思い付きかもしれない。けれど、機会があればどこかでわたしの事を試そうとしていたのではないだろうか。
発表会の日の事件についてマリウスから話を聞いた先生が、わたしの推測にどれほどの信頼性があるか。それを見極めるために。
結果、わたしはそれらを言い当てた。水仙の件と、先生がわたしを試そうとしていた事を言い当てた件。その事から、わたしの推測が信頼におけるものと判断した。だから上級生の部屋の立ち入り検査に踏み切ったのではないか。あの日の事件が、喫煙と飲酒によるものだというわたしの言葉を信用して。
――なんて、いくらなんでも考えすぎかな……
そんな事を思いながら部屋に戻ると、既にクルトが帰ってきていた。
わたしは上級生が退学になった事と、温室での先生とのやりとり。そこから導き出した自分の推測を彼に話した。
「クルトはどう思います? 先生達が上級生の部屋の立ち入り検査を行った理由が、わたしの言動と関係あると思いますか?」
その問いに、ソファに腰掛けたクルトは腕組みをして暫く何かを考える素振りを見せた後、ちらりとこちらに目を向ける。
「なんだってそんな事を気にするんだ? もしも上級生が退学になったきっかけがお前にあったとしても、それは校則違反や諸々をやらかした彼らの自業自得だろう?」
「……なんだか後ろめたいんです」
「後ろめたい?」
わたしは頷く。
「わたしだって、立場的には事件を起こした上級生と変わらないはずでしょう? 周囲にばれたら退学になるような隠し事をしているんですから。そんなわたしの発言が元で、彼らを退学に追い込んだのなら、それは許される事なんだろうかって……確かに、彼らのしたことは正しくはありません。でも、誰かを傷つけるような類のものじゃないし、更生の余地はあったと思うんです」
「つまり、お前はあの推理を披露したことを悔いていると」
その通りなのかもしれない。
わたしが俯いていると、クルトが溜息をつく。
「考えすぎだ。お前の発言だけを判断材料に、部屋の立ち入り検査までするのは、さすがに強引すぎる。おそらく教師たちも以前から疑っていて、今回の事件をきっかけに検査に踏み切ったんじゃないのか? それに問題の二年生だって、あんな事件を起こした後も煙草や酒を処分せずに隠し持っていたのなら、今後も飲酒や喫煙を続けるつもりだったんだろう。一歩間違えれば火事になるところだったのに、それでも懲りずに。お前の言う更生の余地なんてなかったんだ。退学は妥当な処分だろう」
わたしは黙って彼の言葉を聞く。
「それに、お前はその二年生とは違う。隠し事といっても、無理矢理この学校に入学させられた事が原因なんだし、お前自身は悪い事なんて何もしていないじゃないか。気にせず堂々としていればいい。正体がばれない程度に」
それを聞いて、自分がほっとするのを感じた。
「あなたは悪くない」と、誰かに言って欲しかったのかもしれない。
「ところで、今日も絵を描いたんだろう?」
急にクルトが話題を変えた。
「どんな出来か見せてくれよ」
言われて、自分が丸めたデッサンを持ったままなのを思い出した。
「そうだ、これ、クルトにも見て欲しかったんです」
一枚の紙を広げてみせると、クルトが目を瞠った。
「お前、いつの間にこんなに絵が上達したんだ?」
「あ、いえ、これはわたしじゃなくて、ヴェルナーさんが描いたもので……」
ヴェルナーさんの描いたデッサンを、お手本にしたいからと頼み込んで貰ってきたのだ。
それを聞いたクルトが驚愕の表情を浮かべる。
「それじゃあ、彼はまた絵を描き始めたのか?」
「そう! そうなんです! それをクルトにも伝えたかったんです!」
ディルクの件や、わたしが頭を怪我した事で色々とごたごたしていて、今まで言う機会を逃してしまっていた。
てっきりすぐに喜んでくれると思ったのだが、クルトは放心したように絵を見つめている。
暫くそうした後に、俯いて額に手をあてると
「……よかった」
と、囁くように呟いた。
その姿を見て、少し胸が傷んだ。
ヴェルナーさんが絵を描くのをやめると言ったことに関して、クルトもまたわたしと同じく「自分のせいで」という思いがあったのかもしれない。
この様子では、わたしが思っていた以上にクルトはその事を気にしていたんだろう。
本来なら真っ先に伝えて、彼があの件以来持ち合わせていたであろう罪悪感を取り除くべきだったのだ。もう少し早くそれができたはずなのに。
どうにかいつもの調子を取り戻して欲しくて、わたしは口を開く。
「あの、後でこの事のお祝いをしませんか? わたし、とっておきのお菓子を出すので……」
それを聞いてクルトが顔を上げた。
「……本人がいないところで祝ってどうするんだ。大体、何もない日でも、お前は何かしら甘い物を口にしているじゃないか」
「いいじゃないですか。気持ちの問題ですよ。自己満足かもしれませんけど。あ、お茶もわたしが用意しますよ。それならいいでしょう?」
「それはちょっと……お前は紅茶を入れるのが下手だからな」
「えー、ひどいなあ」
「だからお茶は俺が入れる」
「え? それじゃあ……」
「ああ、お前が満足するなら付き合ってやるよ」
クルトはそう言って小さく笑った。
「そういえば、クルトはヴェルナーさんの描いた肖像画を見たことがあるんですよね? どこに行けば見られるんですか?」
「なんだ、見たいのか?」
「ええ。だって、ヴェルナーさん、この通り、すごく絵が上手いじゃないですか。肖像画もきっと素晴らしかったんだろうなと思ったら、気になってしまって」
そう説明すると、クルトは何かを思い出すように宙を見つめる。
「何度か見た事はあるが、どれも父に連れられて行った先での事だからな。俺自身には父のような伝手は無いし……」
その口ぶりからすると、クルトにもなんとも出来ないようだ。わたしのような庶民には、見ることすら難しいのかもしれない。
ああ、今すぐ権力者になりたい。それで、国中にあるヴェルナーさんの描いた肖像画を献上させるのだ。
なんて、そっちの方が難しいな……




